2018年5月25日金曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 6


3章 解釈の未来形-共同注視の延長について

前章では、「解釈中心主義」という言葉に表されるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ・・・」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。
最初に「ここで解釈という概念を残し・・・」という私自身の表現について、注釈をつけておこう。精神分析の世界では、解釈を治療の中心にすえるという立場を取るか否か、という議論は非常に大きなウェイトを占める。それは言い換えれば伝統的な精神分析理論を否定するのか否か、という問いのような、一種の踏み絵のようなニュアンスさえある。おそらく精神分析の伝統を守る立場 (クライン派、自我心理学、対象関係論の一部など) では、解釈を中心に据えた治療を考え続けるであろう。これを第一の立場とするならば、より革新的な立場 (対人関係学派、関係精神分析など) 「解釈を超えた」治療機序を重んじるであろう。これが第二の立場だ。しかしここにはさらにもうひとつの立場が存在し、それは解釈という概念を拡大し、そこに「無意識にすでに存在する真実を伝える」という従来の考え方を抜け出し、治療的な要素を含んださまざまな介入に関して、それを解釈と呼ぶという立場が存在する。これを解釈に関する第三の立場と呼ぶのであれば、私は自分はその立場にあると考えてもいいと思う。よく考えれば分かるとおり、第二の立場と第三の立場は、実は非常に近縁なものとなりうる。それは解釈をいかように定義するかによりどちらにでも立つことが出来る、いわば両立しうる立場なのである。
ではその解釈の定義の違いとは、以下のように表現することが出来るかもしれない。第一の立場においては、解釈とは本来はフロイトが患者の無意識内容を伝えることを意味した。より一般化して言えば「患者の言動の隠れた意味を明らかにする介入」(Laplanche, Pontalis, 1973) と定義されるだろう。第二の立場は解釈の定義をそのまま受け、それを中心にすえることを拒否し、たとえば対人関係ないしは関係性そのほかの治療機序を第一に考える立場といえるだろう。それに比べて第三の立場では、解釈は「患者がより洞察を得るために役立つような治療者の介入すべて」とでも定義できるようなものである。
以上を前提として、本題に入っていこう。
ボストン変化プロセス研究会著 丸田 俊彦 訳 解釈を超えて. 岩崎学術出版社 2011

Laplanche, J and Pontalis, J.B (1973). The Language of Psycho-Analysis: Translated by Donald Nicholson-Smith. The International Psycho-Analytical Library, 94:1-497. London: The Hogarth Press. P228


1.あらためて「解釈」とは? 技法の概要
2章から検討している解釈という分析的な技法について、ここで改めてその定義について調べてみよう。わが国の精神分析事典(岩崎学術出版社、2003) には次のように記されている。
[解釈とは] 分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、2002) ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていた。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009) 。(前章から継続してお読みの方は、治療者が示す共感も、この示唆により近い介入といえることがお分かりだろう。ともかくフロイトは解釈以外のあらゆるものを、このように呼んだのである。)私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。
小此木啓吾編2002「精神分析事典 岩崎学術出版社

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトによりこれほどまでに退けられたのか? この点について振り返っておこう。本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。(SE.17, p164)

心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。
Lines of Advance in Psycho-Analytic Therapy (SE.17, p164)
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべきであるとする根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針から逸れるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日の日本の精神分析の世界では、解釈は分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしフロイトがそうしたように、示唆を排除する立場もそこに含めるとしたら、治療者の介入のあり方はかなり制限を加えられることになるだろう。なぜなら実際の臨床場面では、解釈以外のかかわりを治療者が一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。「解釈とはことごとく示唆の一種である」というHoffmanの提言もその意味で頷ける(Hoffman, 1992)。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような形で、その概念を拡張することが必要であり、また有用であると考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。
目の前の患者の背中に文字が書いてあり、彼はそれを直接目にすることができないとする。そして治療者は患者の背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者が部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?
もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さをも意味しているのだろう。
ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味である。患者はすでにその背中の文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。あるいは背中に文字が書かれていることを知らないかもしれない。
患者がもし何かの文字が書かれていることは知っているとした場合、それを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて治療者に伝えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを知らせてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者との共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにさまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

 以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者本人よりは治療者のような周囲の人が気づきやすいような、患者自身の特徴や問題点を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者の仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者の耳には直接入っていない噂話かもしれない。
この場合にも治療者が出来ることに関しては、上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性が確かにあるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字の意味するものが患者にとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は、外から植えつける「示唆」的であっても、それが患者にとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも了解されるだろう。