2018年3月20日火曜日

解離の本 11    推敲 38


2-3.親を癒すために生まれる人格
一般的に、子供は親の気持ちにとても敏感です。2-2に示したように親の感情がそれほど不安定ではなくても、子供は親が自分に関して望んでいることを時には過剰に読み取り、それに合わせる事で親を安心させたり、慰めたりすることがあります。そして親の期待に沿う行動を取るうちに、自らもそれを望んで行っているという感覚をある程度は持ち始めることがあります。例えば子供が引っ込み思案であることを親が心配していることを察した子どもは、その期待に応えようと努力し、自分は本当は社交的で人と関わるのが好きだと思い込もうと努力をするでしょう
このような傾向は、解離傾向を持たない子供にもある程度は見られます。いわば表と裏の顔を作り始めることになります。そして表の顔では、本当に親の望むことを自分でも望んでいると思おうとします。しかし通常はそれがうまくいかずに表と裏の使い分けが出来なくなってしまうでしょう。たとえばもともと引っ込み思案な子は社交的な振る舞いをすることを非常にストレスに感じ、結局やめてしまうかもしれません。
精神分析家のドナルド・ウィニコットは「偽りの自己」という言葉で、この表の顔を表現しました。親の前では「偽りの自己」を保っているとき、「本当の自己」は押し隠されていますが、そこにはある種のエネルギーが必要になります。「偽りの自己」を保つ必要のある子はそれだけストレスを体験し、精神的に疲弊することになります。
さて解離を用いる子供の場合は、2-2で述べたように、これとは少し違ったことがおきます。彼女は実際に社交的な自分を作り出すのです。ここで「作り出す」、という表現は正しくないかもしれません。彼女に別の自分を創ろう、という意識はないのが普通だからです。先ほどのAちゃんの例に見られるような、Bちゃんの登場です。交代人格のBちゃんはもともと社交的に振舞うことを得意とするでしょうし、別に無理をしているわけではありません。その点が「偽りの自己」と異なるところです。
しかしBちゃんの登場は不都合な事情を招くことも少なくありません。AちゃんはBちゃんが登場している間、心の中に閉じこもっています。時にはBちゃんの振る舞いをモニター越しに見ているような体験をし、また時にはその間眠っていてまったく覚えていないということもあります。親の前ではBちゃんが主として振舞うとしても、Aちゃんはその心や脳の「主」であり、それを使い慣れています。時々どちらが出てきたらいいかわからなくなって得しまうこともあります。またAちゃんが母親の表情ひとつからその欲していることを読み取るとすれば、おそらくそのほかの人の表情も敏感に読み取り、それに合わせて新たな人格が生まれる可能性もあります。Aちゃんにとって情緒的にとても意味を持ち、また頼れる存在であればあるほど、その相手に知らない間に合わせて、その人用の人格が出来上がってしまう可能性も少なくありません。
このように考えると解離性障害を持つ患者さんが通常非常に多くの別人格の存在を報告するという事情も理解できます。共存のために内側の世界は分割され、それぞれの自己の領域が互いに干渉し合うことなく、必要な時にはコンタクトが取れるような状態に形作られていくと考えられます。DIDの患者さんがその内界について、複数階立ての家屋として図示したり、「アリの巣のよう」などと表現したりするのも、内部における人格たちの共生状態を視覚的・直感的に表したものとみることができます。
患者さんの内部にいる人格たちは、おそらくその多くが一時的に現れては消えていくのでしょう。ある友達に合わせるために人格が出来ても、その友達と会わなくなってしまえば、それは消えていくでしょう。しかしいくつかの人格は何度も登場し、そのたびに経験値を増やし、記憶を蓄積し、ひとり人格として成長していくでしょう。するとDIDの様相を示すようになります。それぞれの人格は同じような場面で正反対の行動を取ることもあるので、そのような人格が頻繁に入れ替わると周囲は混乱し、また当然ながら本人も非常に混乱します。この段階で彼らの障害は自他ともに認識されるようになり、自ら治療を求めることもあれば、周囲の手で治療の場に連れてこられることも多くなります。患者さんの適応の破綻は、内部の共生状態が破綻しかけているという警告ともいえるでしょう。

推敲 38


この論文では、Kohut は「人は自分の、ないしは他人の心の無意識をはたして内省・共感できるのか」という根本的な問題には触れずに議論を進めている。しかしこの問いに含まれる矛盾を Kohut が意識していなかったとは考えられないのではないか。とすれば彼の意図は、多少無理を承知で、内省・共感という概念を、従来の精神分析理論と継ぎ目なく結び付けようとすることにあったのだろう。そしてそれと同時に彼は、フロイト的な意味での無意識の探求の手を事実上止めたのである。そこに彼の論文からくる肩透かし感の理由がある。
 同様の「肩透かし」の例は Kohut のこの論文のほかの箇所にもみられる。たとえば彼は、「内省・共感を科学的に洗練させたものが自由連想と抵抗の分析である」(p.465)と述べている。自由連想が特殊な内省の方法、というのはそれなりにわかる気がする。しかし「抵抗の分析も内省である」と、いきなり説明なしに言われても戸惑うばかりである。そして Kohut は、その自由連想という「特殊な内省・共感」により得られたのが「無意識の発見」であったと記している。こうして内省・共感が従来の精神分析と概念的な関連性を有すると形の上では表明されているが、結局「どうして無意識内容を共感できるのか」という根本的な疑問には触れられることはない。
ところでこの論文によりはじまる Kohut 理論は、その後精神分析の世界では様々な議論を生んだが、少なくとも Kohut 派の内部でこの内省と無意識をめぐって大きな論争が起きたということでもなさそうだ。「内省により無意識を知ることができる」という議論はそもそも矛盾しており、彼のその他の概念による貢献に比べれば議論に値しないというニュアンスがあるようだ。
実際に Kohut 理論には体面上は伝統的な精神分析理論との齟齬を回避するための工夫が施されている部分が多く、それらについては脇においておき、むしろ彼の理論が実質的に切り開いた部分に注目するべきであるという見方がある。それが R.Stolorow,G. Atwood, D.Orange といった本来 Kohut の弟子であった分析家たちに共通する意見である(Reis, 2011)。内省・共感を強調することで、Kohut は治療者が患者の心に共感し、それを伝えるという相互交流のモデルを作ったのだ。その功績に比べたら内省・共感が無意識を理解できるか、というのは、本来あまり重要な問題ではなかったのだろう。 
最近の自己心理学における無意識-愛着理論とのかかわり
さて以上、Kohut にとっての無意識の概念が基本的に持つ論点について示したが、最近になり自己心理学派の Alan Schore (2002, 2003) がこれまでとはまったく異なる観点から自己心理学と無意識に関する論述を行なっているので、これを紹介したい。
 Schore の基本的な主張は以下のとおりである。Kohut 理論の登場は精神分析の歴史の中で極めて革新的なものであり、その真価はそれが結果的に愛着や母子関係等への研究を含む発達理論への着目を促したことにある。このことによりKohut はその視点をフロイトの無意識から発達論的な無意識へ移したと考えられるのだ。そして発達理論に従った心の理論は、それを裏打ちする脳科学によりそれだけ充実したものになる。その上でショアは自己心理学的な無意識は、その実質的な生物学的な基盤として大脳の右半球を想定することができると主張するのである。
 Schore は Kohut の「自己の分析」 (1971) は、実質的に発達理論と精神構造理論と自己の障害の治療論にまたがる極めて包括的なものであったとする。そして Kohut の理論の中でも特に自己対象 selfobject の概念を重視する。それはこの概念が発達心理学的な意義を内包しているからだ。成熟した親は、自己対象機能を発揮することで、未発達で不完全な心理的な構造を持った幼児に対する調節機能を提供する。こうして早期の発達の基礎となる非言語的かつ情緒的な相互交流を無意識、と捉えることで、無意識は精神内界を表すものというよりは、精神内界‐関係性の中で捉えられるようになったのである。