2018年2月17日土曜日

ローゼンフェルド 推敲 3

羽生クンが金で宇野クンが銀! これで藤井クンが勝ったら、数日間は幸せな気分になれる。しかしこんなに他人任せな事でいいんだろうか?

  では「自己愛的な対象関係narcissistic object relation」についてはどうかといえば、何が起きているのかについて、Rosenfeld はほとんど投影性同一化により説明しているわけです。そこにはいくつかの段階があります。
患者は(投影や取入れを通して)対象と同一化する。
取り入れ同一化の際には対象は自分と同一化する。
投影同一化の場合は自分の一部は過剰に対象と同一化する。
さてこれでは取り入れと投影との区別があいまいになりますが、Rosenfeld はこのように言ってくれるのです。「投影同一化と取り入れ同一化は通常は同時に起こり、自他の分離を認識することに対する防衛となり、それにより攻撃性や羨望も回避される。(p20、傍点は岡野)」いかがでしょうか? これで非常にすっきりします。
これにより何が起きるかというと、他者を自分の一部にしてしまう、それにより対象をコントロールするという機序が起き、それが自己愛の病理なのだ、と説明するわけです。ここら辺はBPDの病理と同じ説明ですね。でも Rosenfeld はこれを自己愛の病理として説明したわけです。
さてここでフロイトの自己愛理論を少し復習しておきます。といってもすでに横井先生がお話をなさったのでだいぶ整理されています。簡単に言えば、一次ナルシシズムとは出生後、対象のない世界であり、二次ナルシシズムとは、成長して対象関係を持てるようになったものの、精神病においてリビドーが再び自己に向かっている状態(自己愛神経症)です。フロイトは後者においては転移関係が持てず、したがって分析的な治療が行えないと考えたわけです。そしてKleinRosenfeld はこれに対して二次ナルシシズムにおいても対象関係が存在すると主張したのです。これはまさにフロイトの理論に対する「突っ込みどころ」だったかもしれませんね。その頃はもちろん抗精神病薬もありませんし、精神病の治療は依然として彼らとのコミュニケーションをベースとせざるを得ません。そして皆さんも精神病状態にある人々との関わりを持とうと試みた方なら、彼らはその独特なあり方で私たちとの関わりを持つことに気が付いたはずです。ですから精神病においても転移が生じるという理解にいたるのはごく自然なことだったでしょうし、米国におけるH.S.Sullivan などの対人関係論者たちも同じように考え、精神病の患者さんたちとの治療を行ったわけです。
自己愛を論じる際に、フロイトは精神病の研究だけでなく,男女の対象選択の問題を論じています。つまり成人が性愛の対象を選択する場合には,異性の親の肯定的および否定的なイメージを対象に投影して選択する場合(依存型),肯定的および否定的な自己イメージを対象に投影して選択する場合(ナルシシズム型)をあげています(フロイト、ナルシシズム入門 ナルシシズムの導入にむけて(立木康介訳、フロイト全集 13
)。これはきわめて対象関係論的な考察であり,内的対象関係の形成と自己を前提にした考察を行っているわけです。
 このようにフロイトの自己愛の理論はきわめてリビドー論的であり、自己中心、他人を利用するという、パーソナリティ障害という意味での自己愛とはずいぶん違ったわけです。そしてそれが Rosenfeld の自己愛理論の出発点だったわけですが、それはやがてパーソナリティ障害としての自己愛の議論に近づいていったという経緯があったのです。
 最後にRosenfeld の自己愛理論のまとめを行います。
まず最初の臨床的な気づきとして、「精神病の患者もまた対象と特殊な関係を持つ。それは自己愛的な目的で持つ関係であり、高度に万能的なものである。」(「自己愛的万能的対象関係 narcissistic omnipotent object relationship) 更には「精神病を扱う際、臨床家は自己愛と投影同一化 いうきわめて密接な理論的なプロセスを理解しなくてはならない。」(p19)という理解があった。つまりクライン理論がその説明の中核を占めていたということである。
ちなみにRosenfeld はアメリカにおける自己愛の理論についても意識していました。そしてそれなりのコメントを残しています。それによれば、「カンバーグは攻撃性と羨望の重要性を強調しているが、私の考えはもっと徹底している。」「コフートは自己愛憤怒について書いているが、私の主張する破壊的な自己愛とはほとんど関係がない。」
この批判はある程度理解できることである。ただし私の観点からは、Rosenfeld と Kernberg は類似しているところが多いという印象です。なぜなら両者とも Klein の投影同一化の概念をその下敷きにしているからです。コフートの方はもうお話にならないという感じで切り捨てています。深層にあるものを扱わないのは本物ではないという態度と言えるでしょう。
さて Rosenfeld の後のクライン派の理論の展開についても一言触れておきます。それはいわゆる「自己愛構造体 narcissistic organization」 という概念に集約されるでしょう。これはクライン派における陰性治療反応研究の一つの到達点といえる概念です。患者は羨望および死の本能への恐れから、防衛として自己愛的な対象関係を発達させ、独立した機能を持つ構造体(自己愛構造体)を持つに至ります。それは妄想-分裂ポジションにおける迫害不安と、抑うつポジションにおける抑うつ不安から個人を守りますが、成熟した大人としてはあまりに自己愛的な対象関係を構築します。その構造体は健康な自己を支配し、抑うつポジションへの移行を妨げるのです。

ただしこの「自己愛構造体 narcissistic organization」という言葉の由来をたどっていくと、なんとフロイトが言い出している。対象関係に踏み出す前の状態、という意味で全部で3回使っています、まり深い意味は与えていませんが、とにかく索引にはこの用語が出てきます。その後 Glover, Spitz, Rosenfeld, Steiner などが使っている。ただしそれを整理して病理構造体病理的組織化)と呼び、より広い枠組みの患者に見られる第三のポジションとして定式化したのは John Steiner 先生ということになる。

最後に-Rosenfeld をいかに捉えるか?
ということで、最後に Rosenfeld の議論を私たちがどのように捉えるべきかということです。
これまでにも論じたとおり、彼の出発点はフロイトのいう自己愛の概念です。そしてその治療対象は統合失調症でした。とする彼の言う自己愛とは、Kernberg や Kohut の議論に見られるような NPDの病理とどこまで重なり合うのか、という疑問が生じます。彼の自己愛論が投影同一化の病理を頻繁に扱っている点で、事実上ボーダーラインについての議論ではないか?という議論は当然起きるべくしておきます。しかしここら辺の議論はあまり臨床的ではなく、むしろ概念をどのように整理するべきかということになり、重要ではありません。そこで最後に私の感想です。やはり Rosenfeld Klein 理論の世界での自己愛理論に限定されていると言えると思います。それは彼の依って立つ理論の系譜がそうだからです。関係学派の立場から多少なりともバイアスがかかった言い方で申し訳ありませんが、これはヨーロッパの学問の持つ限界と言えるかもしれません。そして Rosenfeld の言う自己愛が結局は羨望や破壊性に由来するという考え方をもとにしているということになると、自己がこうむったトラウマとか破壊性という文脈が出てきません。自己愛の病理はその人の持つ生まれつきの羨望や死の本能の結果生じる、ということになりそうです。

ただし私はRosenfeld が「子供の全能的なファンタジーは子供が小さく何もできない無力な存在であることから生まれる全能的なファンタジーである」とも言っていることを発見しました。ですから彼も環境を無視したわけではないということはいえると思います。私はこれ以上英国学派の病理的組織の議論にはあまり深入りしないことにしますが、それはやはり自己愛は、自己愛と傷つき、自己愛トラウマ、そこから派生する怒りという文脈が一番面白く、多産的で、臨床にも応用できると思うからです。そしてそれが私がお勧めしたい文脈です。