2018年2月18日日曜日

精神分析新時代 推敲 19

第17章    認知療法と対話する

本章では、精神分析から見た認知療法について論じる。はたして両者は全く異なるものなのか? 歩み寄りは可能なのか? このテーマは私がかつて「治療的柔構造」(岩崎学術出版社、2008年)という著書で問うた問題であるが、ここで10年の経過を経た私の考えを述べたい。
  
「面談」はすべてを含みこんでいる

私は認知療法を専門とはしていないが、分析的な精神療法の過程で、あるいは精神科における「面談」の中で、患者と認知療法的な関わりを持っていると感じることがある。特に患者の日常的な心の動きを一コマ一コマ患者とともに追うことはそのようなプロセスと認識している。
そこでまず、あまり問われていないが重要な問題について論じたい。精神科医が行う「面談」とはいったいなんだろうか? 医者が患者とあいさつを交わし「最近どうですか?」などと問う。患者はその時頭に浮かんだことや、あらかじめ用意しきてきたテーマについて話す。場合によってはそれが5分だったり、10分だったりする。これほど毎回行われる「面談」の行い方の教科書などあまり聞かないが、それはなぜだろうか?
 「面談」の特徴は、基本的には無構造なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談として扱われるかもしれない。しかし二人の人間が再会する最初のプロセスは非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには認知的なプロセスも、それ以外の様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を精神医学や精神分析の教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。
私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。だから私は認知療法にしても精神分析にしても、互いに独立した独特な治療法だとは考えない。
「面談」の特別バージョンとしての認知療法
私はこのように、認知療法を「面談」の中で日常生活に現われる情緒的、認知的なプロセスを拡大して扱うバージョンとしてとらえる。その効果的な面としては、「面談」のうち無構造で焦点が定まらない部分は最小限に済ますことができるだろう。またノートを持参して一週間の振り返りをすることを好む患者もいるだろう。しかし治療者が最初から認知療法以外を施す気がなく、それを患者に押し付ける場合は逆効果となるはずだ。もちろんそれは認知療法についてのみ言えることではない。
これも認知療法以外にも当てはまることだが、治療状況によっては実際の「~療法」を行っている時間が短くなってしまうことも多々あると聞く。特に患者の身に大きな出来事があったなら、「面談」の段階でそれを話そうとする患者を制して「それでは早速EMDRを始めましょう」とはならないはずである。そのように考えると、どのような特殊な療法も、結局は結局「面談」を主体にして、それに「~療法」の部分を適宜はめ込んでいく、という考え方のほうが無難ではないだろうか? 
それではそもそもの精神療法の主体となる「面談」をより豊かにするために、認知療法のトレーニングは有効なのだろうか?おそらくそうであろうと思う。認知療法的な要素を「面談」に組み込むとしても、そのトレーニングを経ていないとしたら、それを臨機応変に用いる能力は限られよう。以下にそう述べる理由を書いてみよう。
まずは認知療法における自動思考の考えについて。All-or-nothing thinking 全か無かという考え)、Catastrophizingこれは大変だ、とすぐパニックになってしまうDisqualifying or discounting the positive(ポジティブなことに目をつぶる)Emotional reasoning(感情的に推論をするLabeling(レッテルを貼る)、Magnificationminimization(過大/過小評価する)などなど。実は私はこれらの概念に非常に重宝しているとは言えない。結局Aaron Beckが示したこれらの自動思考は、オールオアナッシング、あるいは精神分析でいうスプリッティングの考え方をいろいろ言葉を変えて表現しているだけという気がする。人間の心の根源的な性質であるスプリッティングを深く理解することは、認知療法以外でも、例えば精神分析でも必須なのである。しかしこのようなネーミングとともに患者に告げることには効果があるかもしれない。
そこでそれ以外に認知療法をフォーマルに行なう訓練を行うことで、日常の「面談」を豊かにする可能性について考える。私の理解する認知療法は、患者の日常生活にみられるような「パターン」の探求であるが、これに特化して行うことは、かなりきついプロセスでもある。
たとえば「他人に問題を指摘されると、すぐ逆ギレしてしまう。」というパターンを有する人について考えよう。その具体的な体験は患者にとってはあまり思い出したくないような、恥ずかしい、情けない体験だろう。その反省のプロセス全体が、「ダメ出し」というニュアンスを含み、よほどエネルギーや治療意欲がない限りは、毎回のセッションの多くの時間をこれに費やすのは相当つらいだろう。もちろん私はこのプロセスが不可能と言っているのではない。たとえばPTSDの治療の一つである暴露療法では、毎回トラウマの状況を疑似体験して慣れていくというかなり過酷な治療が行なわれるが、その有効性が確かめられている。