2018年1月31日水曜日

精神分析新時代 推敲 6

6章 無意識を問い直す-自己心理学の立場から

元論文:自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用
最新精神医学 17 6 2012 年に所収

「精神分析は無意識を扱う学問である」ということは、あまりに当然すぎる。しかし私が日ごろ感じるのは、分析家たちは、無意識をあまりにも簡単に扱っていないだろうか、ということだ。いや、無意識という概念が軽視されている、と言っているわけではない。無意識は分析家にとってはとても丁重に扱われているのは確かだ。しかしその意味を果たして常に問い直しているのだろうか? フロイトが述べたような無意識、すなわち抑圧された心の内容がそこに押し込められているような場としての無意識の存在を前提とすることに、分析家たちはあまりに無反省ではないか、と問うているのである。
しかし精神分析には、無意識の重要性を否定はしないものの、そこから関心を逸らせている理論も存在する。広い意味では自我心理学がそうであろう。自我心理学は無意識的な欲動を解釈により明らかにするという試みから、その欲動に対して自我により動員される抵抗や防衛に焦点を移したのである。そうしてもうひとつがHeinz Kohutの自己心理学である。自己心理学においては共感という概念の重要性を唱える一方では、そこに無意識がどのようにかかわるのかについての議論は少ない。本章ではこの自己心理学において扱われる無意識を通して、無意識という概念について考え直したい。

Kohutの理論にとっての無意識とは何か? この問いがある意味ではすでに逆説的といえるだろう。もちろんKohutは無意識の存在を真っ向から否定しているわけではない。しかしその概念にほとんど触れることなく、むしろ自己と他者との関係性にその関心を向けたのである。それは事実上無意識を扱わなかったと言われる可能性すらあろう。

あれ?これで終わり?

2018年1月30日火曜日

精神分析新時代 推敲 5

5章「匿名性の原則」を問い直す 
  
 「匿名性の原則」。精神分析的な治療を行っている人たちにとってはなじみ深い言葉かもしれない。いや、精神分析に限ったことではない。「心理療法」や「カウンセリング」という名のもとに心理士が構造を決めて行うセッションにおいても、治療者が自分のことについての話を控えることは一つの常識であり、お作法となっているという印象を持つ。「匿名性の原則」などと言う大仰な言葉を使わなくても、心理療法を行うものとして、専門家がわきまえておくべき常識、マナーという形で教え継がれていく。おそらく心理療法家の卵たちは、その理由については明確に考える機会を持つことなく、「~すべきもの」や「~してはならないもの」として教え込まれることの一つとしてこの原則を頭に入れていく。
私は心理療法家がとりあえずは自分を語らない、という姿勢にはおそらく害よりは益が多い気がする。というのもこの種のマナーが特に教えられないようなあらゆるサービス業(といっても心理療法をサービス業、と呼ぶつもりはないことはことわっておかなくてはならないが)で、サービスを提供する側が自分の問題を持ち込んでしまうことによる不利益が蔓延していると感じるからである。医学領域においても、治療者側が気さくでフレンドリーであることは望ましいのであろうが、彼のパーソナルな部分が時には患者側が望まない形で治療関係に侵入してしまう瞬間に、注意を払っていない場合が少なくないとの印象を抱く。
私は精神分析の「匿名性の原則」に対して批判的な立場から論考を発表したことがあるが、それはこの原則が行き過ぎる形で守られることの弊害についての考察であった。私が論じた「自己開示」の概念は、その意味では「匿名性の原則」の逆、対極、という意味では決してなかったつもりである。「自己開示」は出来るだけすべし、という主張を、私は一度もしていないつもりである。「自己開示」は治療的な意味合いがある場合がある、というのがその骨子であるにすぎない。その意味では「匿名性の原則」は柔軟に、必要に応じて遵守すべし、という主張と同じである。しかしそれにもかかわらず、「自己開示」について論じると、「先生は『自己開示派』ですね」と色付けされてしまい、何でも自己開示をすればいい、という程度に扱われてしまいかねない。私はたとえばHoffmanが主張するような、「治療者はなるべく患者からは見えにくい存在であることで治療者としての力を出せることが多い」という主張には全く同感という気がする。
そこでこの機会に、この匿名性の原則と自己開示について、最近の心境を綴ってみたい。


2018年1月29日月曜日

精神分析新時代 推敲 4

第4章 転移解釈は特権的なのか?

はじめに

 新時代の精神分析理論について論じる本書の第4章目に、このテーマを選ぶ。転移解釈の意味を問い直すということだ。前章に引き続き、私は「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場に立っている。そして解釈が精神分析にとっての基本であるとしたら、転移解釈は本家本元と言える。様々な解釈的な技法の中で、ひときわ高くその治療効果が期待されてきているのがこの転移解釈である。それについて批判的な検討をするのは、非常に挑戦的なのだが、それでもあえて行わなくてはならない。

まず述べたいのは、私自身は転移の問題について、かねてからかなり深い思い入れを持っているということである。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるだろう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたということは、それ以外の心の理論に比べて明らかに一歩抜きん出た位置づけを精神分析理論に与えたのだと考える。

ただし私は転移の解釈が特権的な治療的価値を有すると考えているわけではない。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていた。そこでは転移の解釈はとても重要視される。しかし後になっていわゆる「関係精神分析 relational psychoanalysis」の枠組みから転移の問題を捉えるようになった。その関係精神分析においては、転移を解釈することの治療的な意義を強調するのではなく、転移が治療場面にとても大きな意味を持つことを認識するという立場が取られるが、それは私自身の考え方と一致する。この両者の違いがお分かりだろうか。転移は大きな意味を持つことを認識する(関係精神分析)ということ、とそれを解釈する(治療者のその理解を患者に伝える、という従来の立場)ということは違うのだ。つまり関係精神分析では、転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるということである。

あるエピソード

転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがある。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことである。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話した。「先生は私と似ていると思います。先生はいつも何か手でいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえただろう。すると私の分析家は黙ってしまったのだ。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのであるから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになった。私は彼から「頼むから私の話はしないでくれ・・・・・。」という呟きを聴いた気がしたのである。もちろんそのような言葉は彼の口からは出てこなかった。しかしそれ以降も、私は分析家との間で同様のことを何度か体験した。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのである。
 もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことだ。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわからなかった。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていた。

2018年1月28日日曜日

精神分析新時代 推敲 3


第3章 解釈の未来形-共同注視の延長について

初出 解釈:共同注視の延長として
2015年6月12日(東京) 精神分析協会東京大会にて発表

前章では、「解釈中心主義」に見られるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。

1.技法の概要
解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義される。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考える。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009)  ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトによりこれほどまでに退けられたのかについて、少し振り返っておこう。本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。
「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべきであるとする根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日的な立場からも、日本の精神分析の世界では、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねないだろう。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。

同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992)というホフマンの提言もその意味で頷ける。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

2018年1月27日土曜日

精神分析新時代 推敲 2

「共感と解釈」について― 本当に解釈は必要なのか?
小寺セミナー 2017723日にて発表

精神分析的な議論において、「解釈中心主義」という言葉が聞かれるようになって久しい。だいたいは否定的な意味で用いられるようだ。もちろん正式な用語でもないし、精神分析学の事典に載っているわけでもない。「私の立場は解釈中心主義ではありません」という時は、「私は解釈だけが治療手段だとは考えていません」という主張を意味している。それはそれ以外の様々な支持的なアプローチを容認している、という立場表明のようなものである。しかしそれでも「解釈中心主義」的な発想を持つ治療者は少なくない。精神分析の最終目標は洞察を得ることであり、そのための解釈は必須であるというのがその主張の根幹にある。「解釈中心」の考え方が精神分析家の一定の層に広がっているからこそ、それを批判するようなこの言葉も存在するのであろう。
それが証拠に「共感中心主義」という言葉は聴いたことがない。精神分析の世界では、「共感」は解釈とは対極にある概念の一つとして用いられることが多い。そして「共感中心主義」とは当然ながら、「共感こそが最も中心的な治療手段である」という立場をとる人ということになる。しかし精神分析の世界で自分がこの立場だということは勇気のいることである。なぜならそれを表立って表明すると、必ずどこかから「共感ばかりでは患者さんの洞察は得られないだろう。」という主張が聞こえてくるからだ。解釈により得られる洞察よりも、共感の方がより本質的であり大事だ、という議論はほとんど聞かれないといってよいだろう。百歩譲っても、洞察は最終目的であり、そのための解釈を受け入れてもらうためには、まず共感が必要であるという言い方がなされるのである。そしてもしそれでも「共感だけでもいいのだ」という主張をしようものなら、最後通牒を突きつけられる。
「それは精神分析ではありません。」
私は分析学会の会場でそれを提唱しようとは思わないが、その代りに次のように申し上げることが妥当であろうと思う。
精神療法においては、洞察と共感はその両輪なのだ。
ここで私は解釈と共感が両輪だ、とは言っていないことに注意してほしい。「洞察と共感」、なのである。洞察は様々な経路を介して至る可能性がある。決して解釈のみにより導かれるのではない。たとえば「自分は○○さんに対する深い感情を抑圧していたのだ」という洞察を考えた場合、それはさまざまな事情から、気づかれるかもしれない。○○さんと話をしていて気が付かれるかもしれないし、友人に指摘されるかも知れない。誰かに共感をしてもらえることでいたるかもしれないし、もちろん治療者に解釈を与えられてそこに至るかもしれない。しかしそこで洞察が解釈のみにより至らしめるという姿勢は、しばしば治療関係に有害に働く可能性がある。そこに至るべきさまざまな別の経路を塞いでしまいかねないからだ。
解釈が何より重要である、という主張に対して、たとえば次のような事例を提供して反論したい。
いったい解釈を求めるという分析家の試みはどういう意味をこのAさんにもたらしたかを考えると目を覆うばかりである。もちろんこれは治療に役立たない解釈の例に過ぎない、という主張もありえるだろう。しかし普通の能力を持った、平均的で常識的な分析家は、good enough な解釈をどれほど提供することが出来ているのだろうか?

2018年1月26日金曜日

精神分析新時代 推敲 1

・・・
精神分析関連のセミナーに参加している若い心理士や精神科の先生方の表情を見ると、自分の30年前の姿を思い出す。私も同じような情熱と期待を持って慶応の「精神分析セミナー」に応募し、受講したのだった。その当時は慶応大学医学部の助教授であった小此木啓吾先生が絶大なリーダーシップを取り、精神分析を広める運動を担っていた。彼のグループが主催する精神分析セミナーは、今なお第一線で活躍する当時の若き精神科医や心理士を魅了していたのである。
小此木先生の近影といったらこの写真である

本章はここから少し小此木先生の思い出話となる。私と先生との出会いは、1983年からの精神分析セミナーへの参加がきっかけである。私たちのクラスは「3期生」と呼ばれた。つまり1981年にセミナーが始まって、3年目というわけである。人数も10人程度だったと思う。藤山直樹先生、浜田庸子先生、島村三重子先生、柘野雅之先生、佐伯喜和子先生といった先生方と同期である。きっかけは、その時大学の精神科で精神分析の勉強会を主催なさっていた磯田雄二郎先生に、精神分析を本格的に学びたいと相談したことである。すると先生が「それならオコさんに電話してみるよ。」と気軽に応じてくれたのだ。オコさん、とは小此木先生の愛称である。磯田先生は今でもサイコドラマの権威としてご活躍中であるが、その時の私はこう思ったものだ。「オコさんに夜中に電話を出来るなんて、なんとすごいんだろう。」といっても「オコさん」は夜中に最も活躍するというのは一種の都市伝説化していた。彼は夜中になってもお弟子さんを呼び出してスーパービジョンをしていたという。小此木先生は一体いつ寝ているのだろう?と不思議がる人もたくさんいた。
・・・

2018年1月25日木曜日

愛着理論と発生論 やり直し 10

ペシミスティックな「最後に」を書きなおした。

4.さいごに - 愛着理論に基づく発生論
 
これまでに発生論について概観し、それとは性質の異なる独自の発展をたどった愛着理論について述べた。ここで改めて考えなくてはならないのが発生論と愛着理論の関係性であり、両者の融合の可能性である。そこで改めて両者を見比べた場合、一つ明らかなのは、精神分析的な発生論の一部は、精神分析理論への根拠を提供した後、理論的な成熟に至り、更なる進化を遂げているとは言えないことである。フロイトの分析理論の中でも転移の分析、行動化、反復強迫、陰性治療反応などの概念の臨床上の重要性は失われてはいないが、リビドーの発達段階への固着といった生成論的な理解は、それ独自の理論的な展開を見せることなく、逆に臨床上ますます聞かれなくなっていると言えるだろう。またたとえば Klein の妄想分裂ポジションと抑うつポジションの理論や投影同一化の概念はその後のKlein 派の理論の支柱であり続け、その根本的な概念の枠組みにそのものに手が付けられたわけではない。他方ではすでに見たように、Winnicott Kohut の提示した発生論は、ごく自然な形で愛着理論に融合したとの観がある。
発生論と愛着理論の関係についてもう一つ明らかなのは、愛着理論はそれ自体が学派を超えた進化を遂げ、脳科学的な研究とも融合し、今後精神分析的な枠組みをますます超えた形で発展する傾向にあるということである。そして愛着理論の成果がひるがえって精神分析的な理論へと応用される傾向が見て取れる。ただし愛着理論そのものが目指す傾向にある実証主義やエビデンスの重視、実際の母子関係への応用などは、精神分析が本来持つ無意識の重視や精神内界におけるファンタジーや欲動への重視と微妙に、あるいはあからさまに齟齬をきたす可能性がある。精神分析の流れの中でも関係精神分析の流れにおいては、愛着理論の取り入れやそれの臨床への応用には積極的なようである。しかしその立場に疑問を抱き、本来の精神分析とは異なるものとして距離を置く立場もある。筆者は冒頭で「本来あるべき姿としての発生論、すなわち愛着理論に基づく発生論」と述べたが、逆説的な意味で、それは精神分析理論の土台を揺るがす可能性があるとは言えないだろうか? 愛着理論の発展が、今後の精神分析の展開を促すか、ある種の分裂を生み出すかは予断を許さないであろう。

2018年1月24日水曜日

愛着理論と発生論 やり直し 9

3.Allan Schore の提唱する新しい愛着理論

精神分析における愛着理論をその高みにまで進めた人として Allan Schoreの名を挙げたい。Schore は愛着と分析理論と脳科学的な知見の融合を図る (2011)。早期の母子関係は現在は脳科学的な研究の対象ともなっているのだ。早期の母子間では極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、両者の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、Schoreは人間の右脳が精神分析的な無意識の機能を事実上つかさどっているのだと主張する。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになる。その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのがSchoreの考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかを判断するという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
 Schore の愛着理論の中でも注目すべきなのは、「愛着トラウマ」(Schore, 2002)という概念である。愛着関係は、それが障害された場合に、具体的な生理学的機序を介して乳児の心に深刻な問題を及ぼす。それは母親に感情の調節をしてもらえないことで乳児の交感神経系の持続的な興奮状態が引き起こされることによる。そして心臓の鼓動や血圧の上昇や発汗などに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に鼓動や血圧は低下し、ちょうど疑死のような状態になるが、この時特に興奮しているのが迷走神経系の中でも背側迷走神経(Porges, 2001)と呼ばれる部分である。そしてSchore はこの状態として解離現象を理解する。そしてこれがAinsworthのいわゆるタイプDの愛着に対応するのである。
 SSにおいては、このタイプDの子供は非常に興味深い反応を見せることが知られる。タイプA, B, Cの場合は、子供は親にしがみついたり、怒ったりという、比較的わかりやすいパターンを示す。しかしタイプDでは子供は混乱や失検討を示す。そしてSchore によれば、この反応は解離と同義であり、虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。つまりこのタイプDのパターンを示す子供の親はしばしば虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に安心して接近することが出来ない。逆に親から後ずさりをしたり、他人からも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるのだ。
 このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与えてくれるのだ。
 このタイプ D の愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供を恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。
 このことからSchore が提唱していることは以下の点だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、脳の発火パターンそのものをコピーする、と考えるとわかりやすいであろう。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。それは一種刷り込みの現象にも似て、親の右脳の皮質辺縁系の回路が子供のそれに写し込まれるようにして成立するというわけである。

2018年1月23日火曜日

愛着理論と発生論 やり直し 8

ひどい雪の東京だったが、無事関西に戻ってこられた。こんな雪を毎日体験している日本海側の人々は大変だろう。何しろ東京では、「積雪のおそれ」などとまるで怖いものであるかのように予報をしているのだから。極端な乾燥地帯で、「大変だ、明日雨が降るかもしれない。曇ってきたら、すぐ屋外に退避するように。」などと言うようなものだろうか。

     愛着理論の歴史とその発展

これまでに発生論の中にも後の愛着理論と深いつながりを持つものがあることが示された。ここで John Bowlby Spitz らによりその基礎が築かれていた愛着理論そのものについて振り返っておきたい。愛着理論は彼らの貢献により、精神分析の歴史の初期には生まれていた。それは言うまでもなくフロイト自身の著作から多くの着想を得ていた (Emde, 1988)。しかしそれにもかかわらず、精神分析の歴史の中では、愛着理論は長い間傍流として扱われていた。これは精神分析理論の多くが乳幼児期の心性を扱っていたことを考えるならば、実に不思議なことと言うべきであろう。そのひとつの理由は、愛着理論がフロイトや Klein の分析的なモテルを基盤とはせずに、独自の理論を打ち出したからと言えるだろう。Bowlby は乳幼児を直接観察し、その実証データを集めることから出発した。それは分析理論に基づいた発生論的観点、すなわち幼児の内的世界を想定し、理論化した Klein Anna Freud とは全く異なるものであった。彼女たちがフロイトの欲動論を所与としていたのに対し、Bowlby は実際の乳幼児のあり様から出発した。そこには愛着理論の提唱者が一貫して表明する傾向にある、一種の反精神分析的な姿勢が見られる。例えば Bowlby はかなり舌鋒鋭く以下のような批判を行っていた。
「精神分析の伝統の中には、ファンタジーに焦点を当て、子供の現実の生活体験からは焦点をはずすという傾向がある。」(Bowlby, 1988, p.100) この批判は現在の関係精神分析の論者の言葉とも重なるといえよう。すでに見た精神分析的な発生論は、現在ではやや時代遅れの感を否めない。しかしそれに比べて愛着理論は関係精神分析において今後の議論の発展が最も期待される分野のひとつである。2007年には“Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis(愛着:精神療法と関係精神分析における新しい方向性)という学術誌の第一号が発刊となった。まさに関係精神分析と愛着理論との融合を象徴するような学術誌であるが、その第一号に寄稿した Peter Fonagy が熱く語っているのは、愛着に関する研究の分野の進展であり、それの臨床への応用可能性である(White, K., Schwartz, J. (2007)Fonagy は最近は特徴的な愛着を示す幼児とその母親についての画像技術を用いた研究が進められていることを伝えている。Bowlby の生誕100年に発刊されたこの学術誌は、研究と臨床とをつなごうとする彼の強い意思を現代において体現しているといえる。
20世紀後半になり、愛着研究においては英国でBowlby に学んだ Mary Ainsworth が画期的な実証研究を行ない、Mary Main Robert Emde がその研究を継承してひとつの潮流を形成するに至ったと言えるであろう。しかしなぜ愛着理論は精神分析の本流とも言うべき諸理論からはいまだに一定の距離を保ったままであるとの観を抱かせるのだろうか? 

Bowlby, J. (1988). On knowing what youre not supposed to know and feeling what youre not supposed to feel. In: A Secure Base (pp. 99118). London: Routledge.
  
以下に愛着理論の発展を「愛着と精神療法」(Wallin, 2007)を参考に簡単に追ってみたい。愛着理論の金字塔としては、なんといっても Bowlby Mary Ainsworth の二人三脚による有名なストレンジシチュエーション(以下「SS」と表記する)の研究が挙げられる。このSSにおいては、子供を実験室に招き入れ、親が出て行き子供が残された部屋にいきなり他人が侵入するという、まさに「見知らぬ状況」を設定する。そしてストレスにさらされた子供が示すさまざまな反応についての分類を行う。Ainsworth は以下の三つの分類を行った。それらは不安-回避(Aタイプ)、安全(Bタイプ)、不安-両面感情ないし抵抗(Cタイプ)と呼ばれる。そして彼女の後継者 Mary Main は、成人愛着面接(AAI)に関する研究を行ったが、それは「愛着研究における第2の革命」と呼ばれるものである。これにより親は自分自身の親との関係に関する成育史を表現することになるのだ。ここできわめて注目すべきなのは、親のAAIによる分類が、子供のSSの分類が安定型か不安定型かを75パーセントの確率で予見するということを実証したことであろう。また Main Judith Solomon とともにもう一つ新たに発見して提唱したのが、後に述べるタイプDである(Main, M., & Solomon, J. ,1986)
 Main に続いて登場したのが前出の Fonagy である。彼の理論は Bowlby や Main との個人的なつながりを通して形成されていった。そして愛着理論とメンタライゼーション、間主観性理論や関係性理論との関連を築いたのも彼の重要な功績である。

愛着理論から見た病態の理解

成人における愛着のタイプについては、Bartholomew & Horowitz (1991)の研究が広く知られている。彼らは, Secure, Anxiouspreoccupied, Dismissiveavoidant,Fearfulavoidantという分類を提案し、日本語では「安定型」、「とらわれ型」、「拒絶型」、「恐れ型」と言い表されている(加藤、1998)。

「愛着軽視型」の患者とは、強迫や自己愛およびスキゾイドからなる連続体の一部に対して、愛着理論から診断名を与えたものといえる。これはさらに「価値下げ型」、「理想化型」、「コントロール型」に分かれ、それぞれ治療者に対する異なるかかわり方を示すという。また「とらわれ型」の患者は、「愛着軽視型」とは対極にある患者として理解される。この「とらわれ型」の患者は「感じることはできても対処ができない人々」と形容され、演技性、境界性パーソナリティ障害に対応する。そしてこのタイプの患者との治療的なかかわりについて考える際には、関係性理論、マインドフルネス、共感等の様々な議論が有用である。さらに「未解決型」の患者は、成育史において外傷を経験し、その解決に至っていない人々である。その治療の際には患者の安全への恐れを克服し、外傷を言葉にすることを促し、マインドフルネスとメンタライゼーションを主要なツールとして用いると記されている。

2018年1月22日月曜日

愛着理論と発生論 やり直し 7

まだまだ変なところたくさんあった。もう一度見直し。トホホ・・・
愛着理論から見た発生論

愛着理論から見た発生論が本稿のテーマである。両者は人間の心の成り立ちに関する理論という意味では密接な関係を有しているはずである。ところが精神分析の歴史では、両者の間にある種の乖離が見られてきた。本稿ではその事情について振り返るとともに、本来あるべき姿としての発生論、すなわち愛着理論に基づく発生論について論じたい。

1.発生論の起源

まず発生論 genetic theory とは何か。それは「心がある起源を有し、そこから徐々に、運命づけられた方向に展開していくという理論」とされる(Auchincloss Samberg, 2012)。米国の自我心理学者 David Rapaport & Merton Gill  (1959) は発生論について、いわゆる漸成説 epigenetic theory もこれに相当するとし、次のような四つの特徴を有すると述べている。「第一に,すべての心的現象は心理的な起源と発達を持っている。第二に,すべての心的現象は心的な資質に起源を持ち,漸成説的な方向に従って成熟する。第三に早期の心的現象の原型は後期のものに覆われてはいても,なおも活動的となる可能性を持っている。第四に,心的発達過程において早期の活動可能性のある原型が後期のすべての心的現象を決定する」。もちろんそこに環境は影響するが、その影響は二次的、副次的ということになる。
 精神分析理論はその出発点からこの発生論的な見地に立ったものと言えよう。小此木(2003)によれば、フロイトのリビドーの発達に伴う精神性的発達論、つまり口愛期から肛門期、男根期、性器期と至るプロセス、Rene Spitz のオーガナイザーモデル,Margaret Malher の分離個体化,Anna Freud の発達ライン, Eric H. Erikson の心理社会的漸成説,Melalie Klein の妄想・分裂ポジション,抑うつポジションなどはすべてこの流れの中で理解できる。小此木はここにDonald W. Winnicott の絶対的依存から相対的依存へ,未統合から統合へ,という理論も含めている。
これらの発生論がどの程度、実際の乳幼児の観察に基づいたものと言えるかについては議論が分かれるところであろう。フロイトはリビドー論に立脚した発生論を案出したが、それはフロイトなりの人間の臨床的な在り様の観察と理解から生まれたといえる。しかしこれらの発生論はいずれも実際の乳幼児の観察データに基づいたものとは必ずしも言えなかった。


発生論におけるWinnicott, Kohutの貢献の特殊性
  
 しかし精神分析的な発生論の中には、後に論じる愛着理論に直接結びつくような論点を含んでいたものもあった。それらの代表として前出の Winnicott と米国の Heinz Kohut を挙げたい。小児科医として長年臨床に携わった Winnicott が描き出した精神分析理論は、実際の乳児の観察に基づいたものであり、フロイトや Klein の欲動論的な理論とは全く独立したものであった。Winnicott の心の発達理論は、母子の間でどのように子供の自己が生成され、それが母親の目の中に自分自身の姿(「分身 double( Roussillon, 2013)を見出す作業を通したものであるとする。母親は子供の分身をその心に宿すとともに、自分という、子供とは異なった存在を示す。それにより子供は自分と母親という異なる存在を同時に体験していく。その際 Winnicott は乳児の心に根本的に存在するものとして、フロイト流の攻撃性や死の本能を想定しなかった。その代わり彼が重んじたのが赤ん坊の持つ動き motility であった。すなわち動因としてはそこに外界や対象に対して乳児が持つ自然な希求を重視したのである。
このような点に着目した Winnicott はその発生論において、「[ 一人の]赤ん坊というものなどいない」(1964)という表現を用い、乳児は常に養育者と存在することの自然さを言い表した。そして同時に他者の不在や過剰なまでの侵入についてその病理性を論じたが、その路線は後に述べる Bowlby の系譜に繋がる発達論者と軌を一にしていると考えていいだろう。
同様の事情は Kohut の理論にも言えよう。Kohut の登場は精神分析の歴史の中では極めて革新的なものであり、その真価はそれが結果的に愛着や母子関係等への研究を含む発達理論への着目をさらに促したことにあるとされる(Schore, 2002, 2003)。Kohut が「自己の分析」 (1971) において論じた自己対象 selfobject の概念は、きわめて発達心理学的な意義を内包していた。成熟した親は、子供に対して自己対象機能を発揮する。そうすることで、母親は未発達で不完全な心理的な構造を持った幼児に対する調節機能を提供する。Kohut はそれを自己対象関係の与える「恒常的な自己愛的な安定性 homeostatic narcissistic equilibrium」(1966)と表現し、それが自己の維持に不可欠なものとした。
さらに発達理論との関連で重要なのがミラリングの概念である(Schore, 2002)。発達理論によれば、生後二ヶ月の母子が対面することによる感情の調節、特に感情の同期化は乳児の認知的、社会的な発達に重要となる。そしてこれが Kohut のミラリングの概念に符合し、Trevarthen (1974) はこれを一次的な間主観性 primary intersubjectivity と呼んだのであった。このように Kohut が概念化した母子の自己対象関係と、その破綻による自己の障害は、発達理論ときわめて密接に照合可能であることがわかる。後者においては母子との関係における情動の調節の失敗としてのトラウマやネグレクトが、さまざまな発達上の問題を引き起こすことがわかってきている。その意味では Kohut はトラウマ理論の重要性を予見していたと言えるだろう。




2018年1月21日日曜日

愛着理論と発生論 やり直し 6

ストレンジ・シチュエーションにおいては、このタイプDの子供は非常に興味深い反応を見せることが知られている。タイプA, B, Cの場合は、子供は親にしがみついたり、怒ったりという、比較的わかりやすいパターンを示す。しかしタイプDでは子供は混乱や失検討を示す。そして Schore によれば、この反応は解離と同義であり、虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。つまりこのタイプDのパターンを示す子供の親はしばしば虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に安心して接近することが出来ない。逆に親から後ずさりをしたり、他人からも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるのだ。
このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてのみみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与えてくれるのだ。
 このタイプ D について一言付け加えるなら、Schore はこれを示す乳幼児の行動は、活動と抑制の共存として特徴づけられるとする。つまり愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。そしてそれが、エネルギーの消費を伴う交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方が同時に賦活されている状態であり、解離症状を特徴付けているという。
 このタイプDに類似の反応を示す子供については、Edward Tronick らによる、いわゆる「能面パラダイム still-face procedure」の研究がある(Hesse, E., & Main, M. 2006).)。それによれば、子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、子供はそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、といった解離のような反応を起こすというのだ。
 Hesse, E., & Main, M. (2006). Frightened, threatening, and dissociative parental behavior in low-risk samples: Description, discussion, and interpretations. Development and Psychopathology, 18(2), 309–343.
このタイプ D の愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供を恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。
 このことから Schore  が提唱していることは以下の点だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、脳の発火パターンそのものをコピーする、と考えるとわかりやすいであろう。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。それは一種刷り込みの現象にも似て、親の右脳の皮質辺縁系の回路が子供のそれに写し込まれるようにして成立するというわけである。


愛着と右脳


愛着や解離の理論において、特に Schore が強調するのが、早期の発達過程における右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の働きの同調により深まっていく。親は視線や声のトーン、あるいは体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は、母親の安定したそれらの状態によって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かい、それとともに子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのである。
 逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが一種の右脳の機能不全を解して解離の病理につながっていく。Schore はこのことを、人間が生後の最初の一年でまず右脳から機能を発揮し始めるという事実と関連付ける。愛着がきちんと成立することは、右脳が正常な機能を獲得したということを意味する。子供が成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が備わり始めるのは、4,5歳になってからだが、それ以前に生じたトラウマは、記憶としては残らないまでも、右脳の機能不全という形で刻印を残していく。上記のD型の愛着パターンは、右脳の独特の興奮のパターンに対応し、それがフラッシュバックのような過剰興奮の状態と解離のようなむしろ低下した活動状態のパターンの両方を形成する可能性があるというわけだ。
 通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫 soothing が得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしD型の愛着が形成されるような母子関係において、その慰撫が得られなかった際に生じると考えられるのがこの解離なのだ。それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることが出来るだろう。
 そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もあるという。
 ここでさらに Schore の説を紹介するならば、右脳は左脳にも増して、大脳辺縁系やそのほかの皮質下の「闘争逃避」反応を生むような領域との連携を持つ。これは生後まずは右脳が働き始めるという事情を考えれば妥当な理解であろう。そして右脳の皮質と皮質下は通常は縦に連携をしているが、この連携が外れてしまうのが解離なのである。ここで大脳皮質というのは知覚などの外的な情報のインプットが生じる部位だ。それに比べて皮質下の辺縁系や自律神経は、体や心の内側からのインプットが生じる場所である。そして皮質はその内側からのインプットを基本的には抑制する働きがある。そのことは、この抑制が外れるとき、例えば飲酒時の私たちの行動を考えれば理解できるだろう。

2018年1月20日土曜日

愛着理論と発生論 やり直し 5

3.Allan Schore の提唱する新しい愛着理論

精神分析における愛着理論をその高みにまで進めた人として Allan Schoreの名を挙げたい。Schore は愛着と分析理論と脳科学的な知見の融合を図る (2011)。早期の母子関係は現在は脳科学的な研究の対象ともなっているのだ。早期の母子間では極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、両者の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、Schoreは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと主張する。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。(わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。)その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのがSchoreの考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかを判断するという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。自分の言動が、今現在周囲の人々や出来事とどうかかわり、それにどのような影響を及ぼすのか。この外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
 ここでSchore (2011) の提唱する無意識=右脳、という意味についてもう一度考えてみよう。一世紀前に精神分析的な心についてのフロイトの理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。これはフロイトにとっても無意識は本質的にはつかみどころがないものであったことを示している。夢やいい間違い、ジョークなどの分析を考案することで、無意識の心の動きに関する法則を追及した。しかしフロイトの時代から現在までの一世紀あまりの間、無意識の理論は特に大きな進展を見せたとは言えない。その一方では心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。その代表が脳科学であり発達理論なのである。
Schore の愛着理論の中でも注目すべきなのは、「愛着トラウマ」(Schore, 2002)という概念である。愛着関係は、それが障害された場合に、具体的な生理学的機序を介して乳児の心に深刻な問題を及ぼす。それは母親に感情の調節をしてもらえないことで乳児の交感神経系の持続的な興奮状態が引き起こされることによる。そして心臓の鼓動や血圧の上昇や発汗などに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に鼓動や血圧は低下し、ちょうど疑死のような状態になるが、この時特に興奮しているのが迷走神経系の中でも背側迷走神経(Porges, 2001)と呼ばれる部分である。そしてSchore はこの状態として解離現象を理解する。そしてこれがAinsworthのいわゆるタイプDの愛着に対応するのである。
Schore, A.N. (2002). Advances in Neuropsychoanalysis, Attachment Theory, and Trauma Research: Implications for Self Psychology. Psychoanal. Inq., 22(3):433-484.
Schore, A (2011). The Right Brain Implicit Self Lies at the Core of Psychoanalysis. Psychoanalytic Dialogues, 21(1):75-100.
Porges, SW (2001) The polyvagal theory: phylogenetic substrates of a social nervous system. International Journal of Psychophysiology 42 Ž2001. 123_146


2018年1月19日金曜日

パラノイア 推敲 9

本題からそれていく・・・・。

 ユングに対する攻撃性が最初に自分に存在したのではないか、と言われればフロイトは絶対憤慨するだろう。「リビドー説は正しいことを私は確信している。どうして私が真実を認めようとしない哀れなユングに殺意を抱くだろうか? (彼こそが真実を先に見つけた私を殺害しようとしているのだ。)」 そして同じように、
  •    「ドラを最初に見捨てたのは私だって? ということはK氏だって? K氏こそいい迷惑だろう。ドラに一方的に(無意識レベルでの)愛情を向けられ、それが受け入れられないとなると、ドラは勝手にK氏に見捨てられたと責めるのだから。」 
  •   「ライウスが息子エディプスを殺そうとしたのが先だって? ナンセンス。か弱い息子を殺害しようとする父親などいるだろうか?
もちろんこれらのフロイトの説はそれなりに筋が通っている可能性がある。しっぺ返しは相互に続いていくために、最初のしっぺがどちらから発したものかについては証明の仕様がない。しかしそれにもかかわらず犯人が特定されるという前提がそこにはあるのだ。そしてそれは決してフロイトではないことになる。しかし実はフロイトの原体験としての自己愛憤怒が、彼をして最初の犠牲者にしたのではないだろうか?

ところでこの「トゥクオーキー」、調べてみると面白い。Wiki 様(英語版)によれば、これは論理上の偽り logical fallacy 、一種の詭弁であるという。

Tu quoque は次のようなパターンを踏むという。

まずAさんが「Xだ」、と主張する。Bさんは「そもそもAさんこそがXという主張と矛盾しているあり方や行動を示しているではないか。だからXは間違いなんだ」という。これだけではわかりにくいが、例として次のようなものを挙げてある。


Aさんが「動物は大切に扱わなくてはならない」(X)と主張する。しかしそのAさんが毛皮のコートを着ているためにその主張は聞き入れられない。

ところでこのロジックはいわゆる ad hominem とも関連しているらしい。日本語ではいわゆる「人身攻撃」と訳される。Aさんが「盗みはいけない!」(X)と主張しても、そのAさんが窃盗を犯して前科がある場合には、「こんな人の主張はあてにならない」となる。つまりロジックそのものではなく、それを主張している人を信頼性に乏しい、という理由でX自身を却下するのである。

調べている途中で出会ったのが「燻製ニシンの虚偽(red herring)」 これも面白そうだ。推理小説などで、真犯人をカモフラージュするために、最初の部分ではその人の善良さを表すエピソードを挿入したりする。実際は猟犬を惑わすために、獲物とは別の方角に、匂いのきつい燻製ニシンを置いておく、という意味だったらしい。

ということでますますフロイトから離れていく・・・・・。