2017年12月9日土曜日

パラノイア 2

他人を疑い、常に天敵が自分を襲ってくることを警戒するのは、生命体にとって極めて重要なのだ。草食動物を見よ。常にきょろきょろビクビクし、肉食獣が迫りくる兆候に敏感になっている。外敵に対する注意を払うほんの合間だけ、草をはみ、水を飲むことが出来るのだ。もしそうだとしたら、パラノイアはどうして私たちにとって異常な状態と考えられるのだろうか? それは私たち人間は(そしておそらく動物も)敵にどの程度注意を払い、どの程度は警戒を解いて食事をし、睡眠をとるべきかの加減を知っているはずであり、その加減を失って過剰に被害的、防衛的になる様子がパラノイアとして観察出来るからだ。私たちの生命活動の大部分が天敵から身を守ることに費やされるとしたら、それによるストレスは私たちの寿命を極端に短くするかもしれない。テレビで野良猫と飼い猫の寿命の違いについて放映していたが、前者はそのストレスのせいで飼い猫よりはるかに短いという。うん、ネットで調べたらそう書いてあった。飼い猫は10年以上生きるのに、野良だと2~4年だという。そして多くの原因はあるものの、ストレスはその大きな要因であり、それによる免疫力の低下があげられるという。でも警戒心の強い猫がそれだけ殺されずに生き残っていくということにはならないのか? そうでない猫は子孫を残してさっさと死んでしまうということだろうか? 子猫の時に不用心で事故に遭ったり捕食されたりするよりは、とりあえず警戒心旺盛に生き抜き、交尾を2,3回余分にして子孫を残して死ぬ方がまだ生物学的に有利ということだろうか? ということは子孫を残すかどうかはともかく、長生きをしたいのであれば、被害妄想はあまり有利に働かないはずなのだ。個体として生き延びるためにはリラックスすること、あるいは不必要に警戒したり防衛的にならない方がいいのである。ということで人は警戒すべき人には適度な警戒をし、気を許せる相手には防衛を解く、というほどほどの人生を送ることで長く生きながらえていくのだろう。ところがある日突然、時には「どうしてあの人が?」と言われ、また「あの人には昔からそういうところがあった」と言われつつ、人はパラノイアのサイクルに入ってしまうことがある。なぜなのだろう。まだ全然本題に入っていないぞ。よくわからないからだ。そこで思いつくままに書くが、私の中ではパラノイアと恥とは結構近い位置にある。誰かに意図的に恥をかかされた、プライドを傷つけられたという種類のパラノイアはとても多い気がする。実例は一切出さないが、ある言葉が自分への当てこすりだったり、婉曲に自分のことを言っていたと「気がつく」類のパラノイアは、自分もそうだがその疑いをかけられた相手も大変である。それにおそらくそれを言った本人は気が付いていない。ところが誰かに深く恨まれてしまう。時には命を狙われることさえあるかもしれない。恨みを持った人が、場合によっては恨んだ相手を婉曲な形で中傷すると、今度はその人が不当に恨まれた、と思うかもしれない。何もないところから被害妄想が発展してしまうこともあるだろう。

ということで少し本題に近づこう。私は投影同一化(PI)という概念がとてもパラノイア的だと思う。PIとは精神分析の用語で、自分の中に、らしくないある感情が湧いた時、それが相手から投げ入れられたものとしてとらえることである。あるいはそのようなメカニズムを言う。土居先生はそれを「勘繰り」と言ったそうだが、そのように少し強引な仮説を設けることで人は何を獲得するのだろうか。それは「わかった」感であり、強力なナラティブの獲得なのである。ナラティブはそれほどに威力がある。それがどれほどにつらくても、恐ろしくても、それが世界で起きていることを説明してくれるのであれば、人はそれを喜んで受け入れるのである。