2017年12月6日水曜日

精神療法の倫理 (最終版) 前半

9割がた書き上げてほっといたら、なんと締め切りを過ぎていた! 急いで体裁を整えた。

精神療法の倫理 
Ethical problems in psychotherapy
                 
 
抄録
精神療法における倫理の問題は最近ますます重要視されるようになってきている。かつて精神分析においては、技法を正しく用いることが事実上倫理の問題を含みこんでいたが、近年になり理論が多様化し、またさまざまな種類の精神療法が提唱される中で、それらの共通項としての倫理的な姿勢の重要さが指摘されている。筆者は倫理的な二つの側面、すなわち「慣習的倫理」と道徳的倫理」という概念を紹介し、後者を中心とした臨床概念が関係精神分析における倫理的転回に集約される点について論じる。そして倫理的な問題が際立つインフォームドコンセント、個人情報と事例提示の承諾、および境界侵犯という療法家にとって身近な三つのテーマについても検討した。

索引用語)
慣習的倫理 conventional ethics、道徳的倫理 moral ethics、インフォームドコンセント informed consent


はじめに
精神療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の活動の隅々にまで関係してくる。まず簡単な事例を挙げることから始めたい。

[省略]

この治療者の行動は倫理的だったのだろうか? 
 もちろんこの問いに正解はないし、この治療者の行動の是非を論じることが本稿の目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、この治療者の行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を治療者である私たちは忘れがちだということである。それらの二つとは、
  「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という考えまたは原則に従った行動だったか?
   クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
である。そして筆者が長年スーパービジョンを行った体験から感じるのは、このうち①に関連した懸念が治療者の意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「治療者として正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にある治療者の頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告する際に、「それは治療者としてすべきではありませんね」と言われることを恐れているのかもしれない。それはすなわち上の①への懸念を促すことになり、それに従った場合は、事例の治療者のように「面談室での飲食は禁止」という治療構造は守られるだろう。しかしそれは同時に②を検討する機会を奪うことになりかねない。そしてその結果としてミネラルウォーターを拒まれたクライエントは、その好意を無視されていたたまれない気持ちになってしまう可能性も生じるのである。
 ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなろう。それは
1970年代より提唱されている、慣習的倫理か、道徳的倫理か、という分類である。その提唱者の代表であ Turiel, E13は、「慣習的なきまり conventional rules」と「道徳的なきまり moral rulesとの区別を挙げ、次のように説明する。「前者は地域や文化に依存し、守られなくても具体的な被害者は出ないが、後者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出る。」(9)
 この分類は前出の①,②におおむね相当すると言えるだろう。そして治療者が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなる可能性がある。もちろんこれら①、②の間に優劣の関係はない。これらは倫理の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。①を犯すことは、たとえば治療者として守るべき治療構造を揺るがすことになるかもしれない。しかし②を犯した場合には、目の前の患者の気分を損ね、治療関係に大きな影響を及ぼすかもしれない。治療者として常にこの二種類の倫理の存在を念頭に置くことはその治療関係を維持するうえでも極めて重要となるのだ。そしてその上で言えば、現在の精神療法の世界では、従来の慣習的な倫理を重んじる立場から、道徳的な倫理を重要視するという方向性が見られるのだ。この慣習的論理から道徳的な論理への移行は、特に精神分析的な文脈において顕著にみられたという事情を以下に示したい。
精神分析における倫理の問題

精神分析における倫理の問題については別の論考(12)で考察を加えているが、そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
 フロイトが精神分析の治療技法としてまとめたものとしては、匿名性、禁欲原則、中立性などの治療原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性も指摘されるようになった。精神分析の草創期には、「いかに倫理的であるか?」ということと、「いかに治療原則を遵守し、転移解釈に力を注ぐか?」ということの間に本質的な区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることこそが患者の利益(症状の改善ないしは自己洞察)につながると考えられたからだ。すなわちそこで主として問題となっていたのは、上述の Turiel の分類で言えば、「慣習的な倫理」であった。他方では当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るという、反道徳的な問題が後を絶たなかったが、フロイトはそれに懸念を表明してはいたものの、弟子たちを厳しく戒めることはなかった。
 やがて米国では1960、70年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果に関する研究への失望
(14)や、境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な治療原則を厳格に遵守するという立場よりも、実際の臨床場面で治療者がいかに支持的な介入を交え、柔軟に接するかに治療者の関心が移行したからである。さらにフロイト自身は実際には自らが唱えた基本原則からかなり外れた臨床を行っていたという報告(9)も、そのような変化の追い風になった。また「オショロフ VS チェストナットロッジ」の訴訟(薬物療法を行わずに精神分析を行ったことで回復が遅れたために、患者本人が病院に対して起こした訴訟)を通じて、精神分析においてもそれを開始する前に、その方針や利点やそれによる問題点などを明確に示して了解を取ることが必要とされるようになったのである。筆者はそのような流れについて、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」へと変遷したとして論じた(10)。たとえばGreenson、R の「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(6)というような分析療法を進める上での教えがこの「経験則」のよい例であろう。最近の米国精神分析協会による倫理綱領(2)もそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施すべし」と書いてはいない。むしろ以下の倫理項目(抜粋)はそれにある意味では逆行しているとの印象すら受ける。
・ 理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。(Competence 2)
・ 分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(Competence 3)
・ 患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。(Mutuality and Informed Conasent 5)

これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んで分析家の治療のあり方を具体的に示しているわけではない。むしろ分析家は治療原則に厳密にとらわれることなく、それを柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち匿名性や中立性の原則などは、「必要に応じて適用される」という形に修正され、相対化されざるを得ないのである。
 ただし禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち
「治療者側は自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」は、まさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」の方は関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。 
 ちなみに精神療法における倫理を考える上では、精神分析協会だけでなく米国心理学会の動きにも注目すべきであろう。米国においては精神分析に先駆けて1950年代には 倫理原則 ethics code を作成する動きが生じていた。これは第二次大戦で心理士が臨床に多く携わった結果として生じたことである。そこで生じた倫理上の多くのジレンマが、この倫理原則を作成する動因となった。現在では9回改訂されているが、
その最新版1は、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば「導入と応用範囲」には、 (1)専門家としての判断を許容する。(2) 起きうるべき不正、不平等を制限する(3)広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒するとある。すなわちここでも大きな流れとしては、細かな技法にとらわれず、より道徳的な倫理を重視するという立場がうたわれているのである。


(文献は省略)