2017年12月31日日曜日

パラノイア 推敲 5

フロイト理論の持つパラノイド心性

 ということでクライン理論にはあまりヒントが得られない以上、一歩遡りフロイトにその折人を求めてみよう。そこで私たちはいかにフロイトがパラノイド心性を持っていたかがわかる。フロイトはきわめて自己愛的な人生を送ったというのが、私のいつもの考えであるが、ふと考えてみると、彼は相当パラノイドであった。ここに「自己愛とパラノイアは表裏一体である」という私の定式化(大げさだ!)が成り立つのだ。フロイトの自己愛的なところを思い出そう。フロイトは「かまって、かまって」タイプだった。相手には自分の説を全面的に認めて欲しかった。しかしそれは相手が自分から離反するのではないか、という恐れとない交ぜになっていた。フロイトはたとえばユングから殺されるのではないか、と恐れた。ユングは自分の座を奪うのではないか、と思ったのだ。別にユングがフロイトの説に関心を示さないのであれば、それでいいではないか。ユングはユングの道を歩んでいくのだ。ほっとけばいい。ところがフロイトは一歩も二歩も進んで、ユングが自分を追い落とす、と考えた。まるで自分の座は唯一絶対のものであり、ユングが自分の説を進めることが、フロイト自身の占めている座を奪うことと同じことのように考えている。相手の離反は、自分を殺すことと同じ、とはどういうことか。
こう考えていくと、フロイトがなぜエディプス・コンプレックスにこだわったかも少し判る気がする。息子が父に敵意を持つのはあることだが、彼の場合「父親殺し」へと発展した。それはフロイトが実際に、父ヤコブが死んだ後に、父親を殺したい衝動を持っていたことを自覚したからだろうか? しかしこう考えると逆に問いたくなる。父親を殺すことを抑圧された願望として持ち続ける息子などどれほどいるのだろうか? フロイトが仮にそのようなものを自分の中に見つけ、それを普遍化してエディプス・コンプレックスと名づけたとしても、いったい同様の人がどれほどいるのか? あるいはフロイトは本当にそのようなものの存在を信じていたのだろうか?彼自身がそれをドラマタイズしたのではないか? しかしそう考えると不自然なことが多い。それは彼が弟子たちに対して示したパラノイアから明らかだ。
フロイトの猜疑的な面はおそらく若い頃からあったらしい。マルタさんと婚約している間は、婚約者に近づく可能性のある男性に激しい嫉妬を燃やしたという。彼にとっては、人と接近することは後に離反した際に激しい敵対関係に入ることを意味していた。ブロイアーと類催眠説をめぐる意見の違いから分かれた後、フロイトはウィーンの道で彼にであっても無視したという。あれだけ資金を援助してもらった恩人にしてそのような程度を示すのはなんと恩知らずなのだろう。フリースと分かれた後に、フロイトはすぐに彼からの手紙を焼き捨ててしまったことが知られている(他方ではフリースはフロイトからの書簡を大事に取っていたので、後にそれが書簡集として全面的に公表されたわけである)。そしてユングに対する敵対心や、ユングから追い落とされる恐怖。またフロイトは自分の息子たちが医師になることを禁じたという。彼らの「父親殺し」を恐れたからであろう。フロイトにとって、自分の説を相手が全面的に受け入れないことは、相手が自分を攻撃していることと同義だったらしい。そして当然ながら自分も敵意を受ける。しかし彼はその敵意をこう正当化したはずだ。「彼が父親殺しの願望を持つからだ。」 フロイトはユングからの父親殺しの願望をかなり強烈に感じたらしい。それが例の失神のエピソードにつながる。
フロイトにとっては自分から相手に向かう敵意は、容易に反転したようだ。ユングの場合にも最初はどちらからどちらに敵意が向いたかは分からない。しかしエディプス理論に異を唱える弟子に対して自分から向いた可能性がある。そして容易に反転して、パラノイアが生じる。そしてそれはまさに、シュレーバー症例を通してフロイトが示した有名な定式化に示されている。
迫害妄想:私は彼を愛さない → 私は彼を憎む 
     → 彼は私を憎む」(投影)
これがフロイトの心で起きていたことの反映だとするとどうなるか。
彼は私のリビドー論を信じない → 私は彼を憎む
    → 彼は私を殺そうとしている

そしていわゆるPIはまさにこのプロセスということが出来るだろう。

2017年12月30日土曜日

M 推敲 1

よくわかっていないのに、もう推敲である。

 Mindfulness(以下「M」と表記) とは注意深さ、留意すること だからヘンな言葉だ。Be mindful, that・・・ という表現は、~を心にとどめよ、という意味である。だからマインドフルネストは、仏教用語の sati に由来し、ある種の覚醒、とか視野を広めること、高次の視座を獲得すると言った特別の意味を担っていたと言えるだろう。しかし現在用いられているこの語の意味は、今現在起きていることに意識を向けること bringing one's attention to experiences occurring in the present momentという意味である。そこでその意味でのマインドフルネスについて、以下「M」と表記することにする。 
 
この言葉を広めたのは、なんと言ってマサチューセッツ大学の Jon Kabat-Zinnだった。彼によって普及されたマインドフルネスストレス低減法Mindfulness-Based Stress Reduction (MBSR)がここまで大きな広がりを見せているのは、それがうつ病や不安、種々の身体症状や依存症などのさまざまな問題に効果をもたらし、それが人々にwell-being 安寧をもたらすことが明らかになったからである。それにより学校、病院、刑務所、企業などで広く取り入れられるようになったのだ。
   ここでMの要点をまとめておく。マインドフルネス(これ以降「M」とだけ表記しよう)の中核にあるのが呼吸法ということになる。何しろ吸うのも吐くのも710秒程度、というのが以下に遅いかが分かるだろう。それがすでに注意をひとつのことに集中するということへ向かわせる。これほどゆっくりの呼吸というのを私たちはしないから、自然と意識が呼吸に向かうのは当然かもしれない。そしてその間は少なくとも嫌なことは考えないことになる。ここがポイントだ。

 ただしもちろんMBSRは呼吸法には限らない。要するに今、現在のことに注意を払うわけであるから、たとえば体全体の感覚に意識を向け、おきていることを感じ取るというのでもいい。心臓の鼓動だっていいだろう。そのうちに人は注意を向けるという状態から容易に、アイドリング状態になっていく。つまりどこにも意識を向けていない状態だ。その場合には「イケナイ、イケナイ」「邪念、邪念」などといって注意を元に戻す努力をする。それが基本となる。

2017年12月29日金曜日

マインドフルネス 早分かり 5

ここでタレンさんの論文を読んでみる。

(Adrienne A. Taren, J. David Creswell, Peter J. Gianaros (2013)  Dispositional Mindfulness Co-Varies with Smaller Amygdala and Caudate Volumes in Community Adults. Pros one 8(5) e64574) 
この研究は特性マインドフルネス dispositional mindfulness についてのものだ。要するにマインドフルネスは気付きであり、それは常に行われている。すると人の日ごろのマインドフルネス的な特徴が抽出される。それが MAASMindful Attention Awareness Scale) マインドフル注意気付きスケール というわけだ。それを使って、それが高い人は、脳の一部の大きさが異なるかどうかを調べるという、画期的なテストである。その結果この検査では、「マインドフルな人 mindful individual」 では右の扁桃核の大きさが小さい、という結果が得られたという。すごい! (ちなみに左の扁桃核は、情緒的な言葉を扱うという。まあ言語野に近いからね。)
 ところで MAAS Mindful Attention Awareness Scale MAASBrown & Ryan, 2003)というのがあるという。15項目が掲げられている。これが低い人が、「マインドフルな人」というわけだ。そんな人になりたいものだ。しかしこれが低い人(ほとんどの項目がアルアル、な人)はかなり ADHD 傾向が強いとも言えるのではないか。でも私自身にもかなり当てはまっている。怖いくらいだ。
  •         気づいたら注意を払わずに何かをしている
  •         自分のしていることをあまり意識しないまま,自動的に動いている気がする
  •         自分のしていることを意識しないまま,機械的に仕事
  •   や課題を行う
  •        人の話を聞きながら,気づいたら何か他のこともしている
  •         達成したい目標のことばかり考えてしまい,そのために
  •   していることがおろそかになる
  •        作業をする際,十分に気を配らずにさっさと終わらせる
  •         自動操縦のような状態でいたため,どこかへ行ってから,
  •   なぜそこに行ったのか分から なくなる
  •        今起きていることに集中し続けることが難しいと感じる
  •        不注意や考え事が原因で物を壊したりこぼしたりする
  •        身体的な緊張や不快感が明確になるまで,なかなかそれ
  •   に気づかない
  •       気づいたら将来や過去のことで頭がいっぱいになっている
  •         歩いて目的地に向かう際,道中の体験に注意を払わずにさっさと行く
  •         生じていた感情に後から気づく
  •        初めて聞いた人の名前をすぐに忘れる
  •  ・  食べているということを意識せずにおやつを食べている

2017年12月28日木曜日

マインドフルネス 早わかり 4

 もし自分が座っている椅子にあたっているお尻の感覚に注意を払うとする。今日そんなことを考えたのはこれが初めてとなる。それを良く感じてみる。あるいは足の指先を動かして、それが靴の底と反発する感覚を感じてみる。もうこれがMの始まりであるというのだ。そしてこれは古来仏教の僧が行っていた瞑想であるという。それがおお流行で、今はGetSomeHeadSpace.com などのサイトに何百万人もつながっているというのだ。そして心の問題だけではなく、慢性疼痛、嗜癖、耳鳴り、過敏性大腸症候群、癌などにも効果があるという。本当だろうか?
そして脳科学がMの脳に与える影響を明らかにしている。
MRIスキャンによれば、扁桃核が8週間のマインドフルネスの練習により、明らかな萎縮を見せたという。(図は扁桃核の位置を赤く示しただけである)。それとは逆に、前頭前野、すなわち自覚や集中、決断などの高い脳の機能を司る部位は厚みが増すのである。そして機能的な結合性 functional connectivity は、扁桃核とその他の部位が一緒に興奮する傾向は下がり、注意と集中の部位は一緒に興奮するという。
 もう一つ一緒の興奮が起きなくなる部位として、前帯状皮質(不快に関連する)と、一部の前頭前野の一部が挙げられるという。本当はどうなんだろう?ということで彼の論文の抄録にあたってみた。
Grant JACourtemanche JDuerden EGDuncan GHRainville P.2010Cortical thickness and pain sensitivity in zen meditators. Emotion. 2010 Feb;10(1):43-53.
まあはっきりしたことは書いていないものの、禅僧は前帯状回の背部が部厚かったという。
この研究を進めているエイドリアン・タレン先生。写真も彼女の論文から来たものだ。論文がただでネットで手に入る!やった! ネット社会万歳。どうやらMの最大の目標は、扁桃核を孤立させるということにありそうだ、という。わかるわかる。 
 エキスパートたちは、痛みの体験についても面白い研究をしているという。Mを行うとずっと痛みが減るという。しかし痛みに関する部位は逆に活動が増しているという。しかし刺激や情動を評価する部位は活動が非常に減っているという研究が、なされているとも言う。(Joshua Grant, a postdoc at the Max Plank Institute for Human Cognitive and Brain Sciences in Leipzig, Germany

2017年12月27日水曜日

パラノイア 推敲 4

ということで以下の7項目。訳してみた。
A  最初はリビドーと攻撃性は一緒になっているという。だから口唇期の最初の吸い付き段階 sucking stage でそれは見られたという。ここに関わる感情は強烈だ。例えばそれはグリード(貪欲さ)であり、不安であるという。
B  対象は部分対象であり、その典型は母の乳房である。(哺乳瓶、という場合もあるかもしれないなあ。ミルクの出が悪い哺乳瓶は、「悪い哺乳瓶」とか …)
C  この部分対象は最初から、良い、と悪いに分かれる。それはもともとおっぱいそのものの「良い」「悪い」があるからだが、それと同時に子供も愛と憎しみを投影するからだ。
D  このように分かれた良い対象と悪い対象は、互いに比較的独立した関係を有し、それぞれが個別に投影や取入れの対象となる。
E  良い対象は理想化される。それを取り入れることで、乳児は迫害不安を防衛できる。悪い対象はその逆で、恐ろしい迫害者である。それを取り入れることで乳児は、内因性の破壊の恐れを体験する。
F  自我は、この未統合ゆえに、不安への耐性がきわめてわずかしかない。防衛の手段として、分裂や理想化以外に否認を用い、それにより迫害対象からすべての現実や、対象への全能的なコントロールを奪おうとする。
G  これらの最初に取り入れられた対象が超自我の中核を形成する。
 とにかくパラノイアとは、クラインの理論では、自分が持っている破壊性、死の本能に由来するということになる。これはもう問答無用といえるだろう。そういう世界観であり、この前提から始まるのだ。私はパラノイアの起点は愛されなかった恨みと考えたい。こちらはむしろ性善説だ。もちろんすべてのケースにそれが言えるとは考えない。ただしこの性善説と性悪説、実はあまり結果的に変わらないことになる。というのは愛されなかったという体験は、かなり主観的なものだからだ。親が子供を愛していたつもりでも子供がそれを受け取らなかったら、子供の怒りはあたかもプライマリーなものとなるとは言えないだろうか。ここに加害者なきトラウマといういつものテーマが浮かび上がってくるのだ。

2017年12月26日火曜日

マインドフルネス 早わかり 3

 ノルトフの本では、DMNは悪者ではなく、むしろ脳の活動の基本として扱われる。それが「安静時活動 resting-state activity」だという。それがDMNの活動に対応するわけだが、このDMNはアルツハイマー病においてその活動が最初に低下する部位としても知られるともいう。ということは認知症ではこの大事な部分、心がポカーンとする部分がかえって侵されているというわけだ。ところでこの安静時活動の際に活躍するというのが、正中線領域(大脳皮質正中内部皮質構造、CMS)というのだが、ここでDMNに活躍する部位を思い出そう。そう、「扁桃体、海馬、後部帯状皮質(PCC)、内側前頭前野(mPFC)」の4つだった。つまり一緒ということになる。
この部分の活動についてはいろいろ書いてあるが、それは自己に特定的な刺激に特に対応する。また脳の一部でしか処理されていない情報は無意識にとどまるが、それが脳全体に広がる際に意識が生まれる。そしてその際ゲートキーパーの役割を果たすのが、前頭前野・頭頂野であるという。
ここで興味深いことが知られている。「うつ病においては自己焦点化や身体焦点化が高まり、同時に環境焦点化の減退が見られる。」つまり自分の自己意識や身体についての意識が過剰に高まる一方で、外界からの情報の処理が低下しているのだ。それはCMSの一部の活動高進と、正中線外の領域、例えば背外側前頭前皮質(DLPFC)などの側方の領域の活動は低下していることが分かっている。先ほどの言葉に直すと、DMNが過剰に亢進し、TPNの低下となる。ということは過剰なマインドワンダリング、他方で思考は空回り、という状態が欝にはみられることになり、するとマインドフル瞑想が効果を発揮するということになる。どうやらDMNTPNはどちらが良い、悪いというよりは適度なバランスが必要である、ということだろうか。瞑想にも確か焦点付けするものとしないものがあるな。

2017年12月25日月曜日

パラノイア 推敲 3

メラニークラインの理論によれば、最初の4か月の対象関係はその後もある程度見られるのであるが、それはパラノイア的でスキゾフレニア的である、というのだ。そこでパラノイドポジションとはどういうものかといえば、攻撃的な本能がリビドー的な本能と並行して存在するが、前者がことに強い、という。対象はよい、悪いに分かれ、取り入れ introjection と投影 projection がその心の機能の主たるものとなる。不安がきわめて強いが、それは悪い対象から迫害される persecute といったものだ。さてここからややこしくなるぞ。
クレペリンから引き継がれたターミノロジーでは、パラノイドはパラノイアと似ているが、妄想は解離という点でパラノイアとは違うという。つまりパラノイドとパラノイアは、ドイツ語では違う、というのだ。つまりはパラノイド paranoid とパラノイアック(paranoiac パラノイア様)とは違うが、英語ではごっちゃになってしまったという。えーい、めんどくさい!! こんなこと必要なのかな。そしてクラインもこのことには無頓着だったという。彼女は最初はこの言葉の前に「persecutory phase 迫害的なフェーズ」という言葉を用いていたというのだから、最初からこの意味だったというわけだ。クラインは子供がファンタジーの中で迫害されるという不安を、「精神病的な子供」に見たとされる。まあこれはオーティズムのことだろうな。あるいは解離か。
最初はクラインはこれをアブラハムの分類の、「第一肛門期」に位置づけたが、そのうち口唇期に持って行ったという。この考えはクラインの Some Theoretical Conclusions regarding the Emotional Life of the Infant’ (1952)に詳しく書かれているというが、決して読む気になれない。その代りラプランシュたちは要点をまとめてくれている。あとは明日。


2017年12月24日日曜日

マインドフルネス 早わかり 2

 ここから少し自由連想だ。そもそもDMN、つまりマインドワンダリングの何が悪いのか、ということになる。要するにこれをしていない時間を増やせ、シーソーのようにワンダリングを抑制し、DLPFCも海馬も厚くなり、扁桃核が小さくなるよ、ということなのだ。しかしそれほどマインドワンダリングはいけないことなのだろうか? 例えば創造性について考えよう。自由連想でもいい。これはおそらくワンダリングからしか生じないのだ。ワンダリングは、言わば意識的な活動の力をふと緩めること。無意識に身をゆだねること。私は恥ずかしい話だが、ネクタイの結び方が時々わからなくなる。まあネクタイはいつも持ち歩いていても、実際に締めるのは年に1回か2回だから忘れても仕方がないが、問題はどうやって締めるのかを思い出そうとすると、かえって締められなくなることだ。何も考えないようにして手を動かすと自然と締められる。これはマインドワンダリングの一つの働き方だ。意識するとできなくなることはこのように多い。それにだ! 私たちはある種の意識的な活動を決行しているものだ。私がこうやって文章を書いている時も、数秒~数十秒の間集中して、つまりTPNを発揮して文字を打ち込み、それからコーヒーを一口飲む。たちまちワンダリングに逆戻り。これを繰り返しているのだ。半分はTPN,半分はリラックス。つまりいつでもやっていることなのに、どうしてマインドフル瞑想がいるのだろう? どうしてそれだけで、いつもは肥大することのないDLPFCが肥大するのだろうか? それと呼吸との組み合わせなのか? よくわからない。今一つ分からないのは、TPNは、意識の集中によるストレスとも関連があるということだ。あることに集中することは、交感神経刺激にもなり、ストレスホルモンであるコルチゾールも分泌し、海馬を小さくするはずである。ところが逆にマインドフルネスでは、海馬は大きく、扁桃核は小さくなるとされる。これはどういうことだろうか?
 疑問は続くが、先に行こう。今年の初めに書評をしたのが、ゲオルク・ノルトフ (), 高橋  (翻訳) 「脳はいかに意識をつくるのか脳の異常から心の謎に迫る」(白揚社, 2016年)という本。そこに出てきたのが、安静時活動という概念だが、これなどまさにデフォルトなのだ。ちょっと引用しよう。自己引用だから問題ないだろう。
 
脳における「安静時活動 resting-state activity」への注目であるという。それが「デフォルトモードネットワーク」の活動(アルツハイマー病においてその活動が最初に低下する部位としても知られる)に対応するのである。正中線領域(大脳皮質正中内部皮質構造、CMS)自己に特定的な刺激に特に対応。脳の一部でしか処理されていない情報は無意識にとどまるが、それが脳全体に広がる際に意識が生まれる。そしてその際ゲートキーパーの役割を果たすのが、前頭前野・頭頂野であるという。うつ病においては自己焦点化や身体焦点化が高まり、同時に環境焦点化の減退が見られる。つまり自分の自己意識や身体についての意識が過剰に高まる一方で、外界からの情報の処理が低下しているのだ。それはCMSの一部の活動高進と、正中線外の領域、例えば背外側前頭前皮質(DLPFC)などの速報の領域の活動は低下していることが分かっている。

2017年12月23日土曜日

パラノイア 推敲 2

パラノイアが私たちの生存にとって必要不可欠なものだとしたら、どうしてパラノイアはこころの病理の一つとして論じられるのだろう? それは私たち人間は(そしておそらく動物も)敵に注意を払うというモードと、安心して食事をし、睡眠をとるモードのバランスをとっているからであり、それが崩れた場合が問題とされるからだ。このバランスについては、前者は交感神経系、後者は迷走神経系と、大雑把に分けて考えることが出来るだろう。両者が常に緊張することは生体にとって健康をもたらさない。特に私たちの生命活動の大部分が天敵から身を守ることに費やされるとしたら、常に交感神経系が緊張を強いられ、それによるストレスは私たちの寿命を極端に短くするかもしれない。先日テレビで野良猫と飼い猫の寿命の違いについて放映していたが、前者はそのストレスのせいで飼い猫よりはるかに短いという。飼い猫は10年以上生きるのに、野良だと2~4年だという情報もある。そして野良の短命に多くの原因はあるものの、ストレスはその大きな要因であり、ストレスホルモンであるコルチゾールの過剰分泌は、免疫力の低下をもたらすのだ。ただしもちろん野良猫が短命である大きな理由は感染症であり、個体間の生存競争により命を落とす率がそれだけ高くなるからだ。そして人間の寿命が昔は非常に短かったことも同様の理由によるのである。(江戸時代の日本人の平均寿命は3040歳だったという。もちろん高い乳児死亡率もここには含まれている。)
 話が脱線気味だが、パラノイアは私たちの生活において、やはり非日常であり、一時的に動員されはしても、やがて解かれる心の状態ということが出来るのだ。そしてそれは必要に応じて、いわば手段として用いられるものなのであるが、時に人はパラノイドのループにはまり込んでしまう。つまり傍から見たら不必要だったり、非合理的だったりする形で人は猜疑的になる。これがいわば病的なパラノイアであり、それが私たちの関心の的なのである。
メラニー・クラインの理論
ということでどうしてもここまで戻るしかない。パラノイアといえば、クラインの妄想分裂ポジション(paranoid-schizoid position)(以下、PSと表記しよう)を論じないわけには行かないからだ。
クラインは、PSを発達早期、生後4~6 ヵ月の乳児の心の状態として論じたことで知られる。そこでは心は快、不快に基づく反応で占められ、自分に不快を与える相手(もの)を「悪い存在」とし、快を与えてくれる相手(もの)を「良い存在」とした。乳幼児の体験がまだ部分対象関係にとどまるうちは、赤ん坊はよく出るオッパイをよい存在、そうでないオッパイを悪い存在として「分裂」する。でもそれにしてもどうしてパラノイドポジションって言うんだろう?よしラプランシュ・ポンタリスの精神分析辞典で調べてみよう。ということでまずは英語版によるその定義を PepWeb からダウンロードし、コピペしよう。 

Paranoid Position

D.: paranoide Einstellung.–Es.: posición paranoide.–Fr.: position paranoïde.–I.: posizione paranoide.–P.: posição paranóide.
According to Melanie Klein, a mode of object-relations which is specific to the first four months of life but which may also be met with subsequently, in the course of childhood and particularly in paranoic and schizophrenic states in the adult.
The paranoid position is characterised as follows: the aggressive instincts exist from the start side by side with the libidinal ones and are especially strong; the object* is partial (chiefly the mother's breast) and split into two: the ‘good’ and the ‘bad’ object*; the predominant mental processes are introjection* and projection*; anxiety, which is intense, is of a persecutory type (destruction by the ‘bad’ object).
(以下略)

2017年12月22日金曜日

マインドフルネス早分かり 1

Mindfulness(以下「M」と表記)とは注意深さ、留意することを意味する。だからMとはヘンな言葉だ。Be mindful, that・・・ という表現は、~を心にとどめよ、という意味である。するとMとは、ある種の覚醒とか視野を広めること、高次の視座を獲得するといった特別の意味を担っていたと言えるだろう。Mとは呼吸に意識を集中し、雑念が浮かんだら批判することなく流し、再び呼吸へと向かう。呼吸法の時は例えば7秒かけて吸い、10秒かけて吐く。それを意識しておこなう。瞑想の場合には普通の呼吸でいいが、Mの場合は呼吸に意識を集中するのだ。
 ここでMの要点をまとめておく。Mの中核にあるのが呼吸法ということになる。何しろ吸うのも吐くのも710秒程度、というのがいかに遅いかが分かるだろう。それがすでに注意を一点に集中することへ向かわせる。これほどゆっくりの呼吸というのを私たちはしないから、自然と意識が呼吸に向かうのは当然かもしれない。そしてその間は少なくとも嫌なことは考えないことになる。ここがポイントだ。
ここで脳のネットワークの問題が出てくる。DMN(デフォルトモード・ネットワーク)とTPN(課題陽性ネットワーク)と呼ばれるもので、両方はお互いに相手を抑制する。つまり両方が同時に興奮するということはないわけだ。DMNはいわばギヤがニュートラルに入っているような状態であり、精神のどこにも焦点がない、ということだ。あるときの回想、白日夢などを行うときにその部分が興奮しているという。そしてTPNは何かを意識的に集中して行うときに興奮する。
 さてここからがややこしい。DMNの機能をつかさどるのは、扁桃体、海馬、後部帯状皮質(PCC)、内側前頭前野(mPFC)。記憶の情緒部分は扁桃体から、時空的部分は海馬から来る。PCCはそれを統合してmPFCが実際にそれを回想する。これらの四部位が活躍する。
 TPNはこちらも四つだ。島、体性感覚野、前帯状皮質ACC、そして後背前頭前野DLPFCTPNでは内部感覚が島を通して、外部感覚は体性感覚野を通して体験される。その両方の体験に働いているのが、DLPFCである。
 さてDMNTPNは両方同時に興奮しないという点が重要だ。つまり呼吸に意識を集中することでDMN=嫌なことの回想を抑えることが出来るのだ。さてこの、TPNをなるべく保つことでDMNを抑えるという作業は、練習により習得することが出来るのだ。問題は、DMNTPNのバランスをいかに上手くとるかということらしい。クヨクヨ思考はDMNが過剰に働いていることであり、それは精神衛生上よくないということが分かっている。すると要はいかに心がDMNに過剰に陥ることを防ぐか、ということが問題なのだ。

2017年12月21日木曜日

パラノイア 推敲 1

私に与えられたテーマは「パラノイド」であるが、これはパラノイアの形容詞である。パラノイアには様々な日本語訳があるが、一応被害妄想、として話を進めたい。パラノイアは至る所で見られる。勿論有名なフロイトのケース「シュレーバー」のような、よく知られたパラノイアのケースもある。しかし実は私たちがかなり頻繁にプチ・パラノイアを経験している。明らかな妄想を帯びたパラノイアは魂を消耗するが、過剰に警戒するのはむしろ事故や予想外の出来事を未然に防ぐためには欠かせないプロセスであったりする。最近新幹線の台車に生じた亀裂が話題になったが、これまで重大事故が起きなかった新幹線の整備の仕方は、それこそ整備の際のレンチの置き場所まで細かく規定されている。(テレビでやってた。)「石橋をたたいても渡らない」ほどの注意深さや警戒心が最終的に安全につながるとしたら、パラノイド傾向は適応的であるとも言えよう。疑い深さという性格傾向が人に受け継がれていき、決して淘汰されないとしたら、それは疑い深い人がそれだけ生存率が高いということだろう。草をはむガゼルを思えばわかるとおり、粗忽で不注意な個体はあっという間にチータの餌食になり、子孫を残せないのだ。あるいは国と国の間を考えよう。両国の間に浮かぶ小さな島の領有権が、国と国との紛争になるのである。そこ際にパラノイド傾向を発揮しない国など聞いたことがない。
これに関して思考実験をしてみる。ある部族なり集団があるテリトリーを守っている。そこは地形によりかなり明確に他の集団とはテリトリーが分かれているとしよう。たとえばある小川のこちら側がA族。向こう側がB族。ところがB族とみられる人間が川を渡ってこちらにやってきて何かを物色しているとする。明らかに外部からの侵入である。そのようなときにA族が「ま、いいか。気にしないことにしよう。」と気にしないなどあり得るだろうか? たちまちA族の主だった人間は対策を考える。(私はそのようなときは「まあ、いいんじゃないの?」と言い出して、「とんでもない!」と皆に言い負かされるタイプである。)A族の主流の意見は、必ず「放っておいたらこちらが侵食されてしまう。早いうちに食い止めておかないと。」これがいかなるときも正解なのだ。動物界を見ればこちらが絶対に優勢になることは間違いない。なぜなら縄張り意識が強く、被害的な考え方を持つ個体こそが生き残ってきているからである。私のようないい加減な人間は、あるいは部族はあっという間に淘汰されてしまうはずだ。だから現在生き残っている個体は押しなべて、相対的に利己的で被害的になりやすく、また好色(子孫繁栄に励む!)なのである。「被害的」であることが、他者からの侵入の可能性を過大評価して自己防衛、他者の排斥に走りやすい傾向であるとしたら、それこそが生命体が生き残るための最も大事な要素の一つと考えていいだろう。なんか同じこと繰り返して言っているな。どこが「推敲」なのだろう。

2017年12月20日水曜日

関係精神分析(福岡版) 4

関係精神分析の今後の可能性

RPの可能性や限界についても触れたい。私がこれまでに述べた精神分析に関するさまざまな疑問や懸念は、今でも私の臨床上の中心テーマであり続けている。しかしそれらの問題に今ではさほど悩まされてはいない。「正しい精神分析をおこなっていないのではないのか?」という超自我的な声からは、最近はかなり解放されてきているし、私がこれまでに抱いてきた疑問や問題意識は生じる根拠があったのだと安堵がある。そしてその理論的な支えを提供してくれるのが、精神医学と精神分析との架け橋を試み続けるBayler CollegeGlen Gabbard、舌鋒鋭く伝統的な精神分析理論の批判を展開するOwen Renik、「自己の使用use of self」のTheodore JabocsWinnicottを援用しつつ独自の「自己と対象」に関する新たな境地を開くJessica Benjamin、そしてメンタライゼーションの議論を通して新風を注ぎ込むPeter Fonagyといった人々である。そして彼らは関係精神分析に直接、間接に貢献し、いわば同じ空気を共有しつつ精神分析のあるべき姿を追求している。
精神分析の基本原則に徹することで生じるさまざまな矛盾、中立性や匿名性が内包する諸問題、患者の側に立った視点の欠如、無意識の不可知性等の問題や視点は、関係精神分析の機関紙とも言える「精神分析的対話」を紐解けば、異なる論者により繰り返し取り上げられていることがわかる。彼らが異口同音に指摘するのは伝統的な精神分析理論の限界や問題点であるが、それらは患者主権の治療を目指すというヒューマニズムに一貫して裏打ちされているように感じられる。彼らの議論はいかに過激で偶像破壊的であっても、精神分析を侵害するのではなく、逆にそれに活力を与え、新しい精神分析を構築するというエネルギーに満ちているのである。
RPの文献を読むと、彼らの間にも様々な立場の相違があることがわかる。先述の通り、そもそもの関係精神分析の火付け役であるGreemberg, Mitchellは、「精神分析理論の展開」の刊行の後ほどなくして別々の道を追求しているように見える(7)。また理論的には非常に近いように思えるMitchell Robert Stolorowは互いの議論の相違点をことさらに強調する傾向も見られる。しかし私にとってはそれらは彼らが共有する「大同」のもとでの「小異」に属するもののように思えるのである。むしろその種の議論がRPをさらに活性化していると考えるべきであろう。
さいわいRP自体が様々な立場を含みこんだ「アンブレラ理論」であるために、その中心的な主張、譲れない基本的な論点を同定しにくいという事情がある。ただしRPにおいて頻繁にテーマとして取り上げられ、先駆者ミッチェルが強く主張した治療者と患者の二方向性、ないし二者性という概念は数多くの論者に共有されているように見受けられる。これらの概念は、治療者と患者の主観的体験は常に相互的に影響を及ぼし、決して互いが孤立した心としては存在しないという視点を強調するが、この論点を突き詰めれば、患者(ないしは同様に治療者)の内的体験にはことごとく関係性が反映されていることになりかねない。このことはすでに見たMills の議論には含まれていないが、ある意味では最も多く聞かれるRPに対する疑問ないしは懸念と言える。最後にこの点について言及しておきたい。
たとえば治療者が患者とのセッション中に眠気を感じたとする。二者心理学的にはそこには患者との関係性が常に影響していることになるだろう。しかしこの議論を推し進めることは、「何もかも関係性」というあまり生産的とはいえない議論へと陥りかねない。たとえば「眠気は結局は患者の側から投げ込まれたものであり、投影性同一化の産物である」という議論の極端さに通じてしまう危険性があることになる。しかし立場によってはその治療者の眠気を、もっぱら彼個人の生活上の不摂生や服用中のアレルギー薬の副作用ととらえる臨床家がいてもおかしくない。関係精神分析をどこまで念頭に置き、どこまで用いるかは、個々の臨床状況で常に問われ続けなければならない問題である。
この問題に関する私自身の立場はきわめて平凡で常識的なものと考えている。それは患者治療者間の二方向性という視点はあくまでも臨床上役に立つ限りにおいて用いるべきであるという立場である。患者の心に生じることがことごとく二者関係を反映しているとは、常識では考えにくいであろう。治療場面で患者が見せる言動には患者独自の病理がある程度は反映されているであろうし、生来の気質や欲動の強さも影響しているかもしれない。その意味では私は前出のグリンバーグのミッチェルに対する批判にも一理あると考える。それでも関係精神分析的な視点が意味を持つのは、治療状況において二者性への認識がしばしば治療者の前提から抜け落ちるという現実があるからだ。
実は同様の議論は古典的な分析理論にも成り立つと私は考えている。患者を前にした治療者が時にかなりの客観性発揮し、患者よりも現実を的確に見極めることもありえると思う。治療者が患者に比べて洞察力に優れ、情緒的にはるかに安定していて、患者の話を聞きながら、言外に含まれるメッセージやその無意識内容をかなり的確に聞き取ることが出来ることもあるだろう。そのような場合には治療は伝統的な精神分析理論にしたがった一者心理学の路線で治療が進んでも何ら問題はないと考える。ところが実際にはこのような理想的な治療過程はごくまれにしか生じないであろうことも私たち臨床家の多くは認識しているはずである。だからこそ常に古典的な分析理論に潜む危険性を常に問い続ける心がけが必要なのである。
関係精神分析の提示する視点は、ある意味では極めて常識的であり、かつ心の働きのリアリティを反映したものであるが、同時にかなり洗練され、それを維持するために常に知的な労力を必要する性質のものでもある。そしてその視点は、臨床家が患者を前にして感情の波に呑み込まれたり、自己愛の満足を体験したりする際に一番見失う性質のものでもあるという点は、実は関係理論を学ぶ上で明確に理解しておくべきものと考える。

なおこの文章は、筆者が「関係精神分析入門」(岩崎学術出版社、2009年)の第一章として発表したものに加筆修正を加えたものである。

2017年12月19日火曜日

パラノイア 8

人間関係の基本としての win-win 状況

そもそも人と人はどのように関係するのか。「彼とは気が合う、話が合う」とはどういうことか。それは両者がある種の心地よさをともにしている状況、今風の言い方をするならば、ウィンウィンであるということである。阪神ファンの応援席に行けば、すぐに仲間になれるだろう。阪神が勝てば一緒に盛り上がり、負ければ一緒に慰めあう。阪神という球団について熱く語る者どおしは当然「話が合う」だろう。また恋人同士は、お互いを深く知り合うことが快感となるから、カタク結ばれるわけだ。さてウィンウィンは一種のファンタジーであることは分かるだろう。自分の求めるものを相手も求めているというファンタジー。二人は運命共同体であり、相手は私の喜びを喜びとし、自分も相手の喜びを自分の喜びとする。会社同士が合併したり契約を結ぶ場合も同様だ。また店と顧客だってそうである。270円のサンドイッチを持ってレジに並ぶ。向うは売りたいしこちらは買いたいから商品の購買は両者にとってウィンウィンとなり、店員は「有難うございました」と言ってくれる。こちらも空腹を満たすためのサンドイッチは270円の対価を払っても惜しくない、自分にとって有利な買い物だ。

ところがウィンウィンはまたある種の臨界状況でもある。両者の利害のバランスがちょうど取れた付近で商人の値段が決められている。ところが臨界状況は容易にどちらかに傾いてしまう。両者のバランスが崩れていれば、たちまち商品を求めて客が殺到し、あるいはその商品は見向きもされずに在庫の山となり、会社に損害をもたらす。ウィンウィンはそのようにかなり主観的で、危うげで,刹那的なものである。それは容易にルーズ・ウィンに傾いてしまう。そしてそのときに顔を出すのが、例のパラノイアである。

2017年12月18日月曜日

関係精神分析(福岡版) 3

関係精神分析の端緒-GreenbergMitchell による新しい提言

1983年のGreenbergMitchell による「精神分析理論の展開」がいかにエポックメイキングな出来事であったかについてはすでに述べた。私がメニンガー・クリニックに留学した当時、特徴のある焦げ茶色の本書がどのスタッフのオフィスの本棚にも見られたのを思い出す。それほどアメリカの精神分析ではこの本が熱狂を持って迎えられたのだ。(他方ではわが国においては「精神分析理論の展開」(邦訳)2001年に出版されたが、特に大きな話題とはならず、現在は絶版となっている。
「精神分析理論の展開」はフロイトにはじまり、Klein Fairbairn に引き継がれていった精神分析の流れを網羅的に概説し、その中で対象関係論的な流れが生まれ、発展した経緯について解説した労作である。その中で彼らが定式化したのが欲動・構造モデルと関係・構造モデルであるが、後者の「関係 relational」という用語が、その後の関係精神分析へと発展することになった。メニンガーのようなどちらかといえば保守的な色彩の強いクリニックでも本書が広く読まれたということは、サリバン派を精神分析理論として認知し、対象関係論に含めるという考えがさほど抵抗なく受け入れられる土壌が出来上がっていたことになろう。
しかし関係精神分析の始まりを「精神分析理論の展開」から見出そうとしても、一種の肩透かしを食らうことになる。それは二つの意味においてである。一つは、関係精神分析という言葉はこの書にはまだ出てこないからだ。この本では依然として対象関係理論のことを論じている。そもそも「精神分析理論の展開」の原題は、「Object relations in Psychoanalytic Theory 精神分析理論における対象関係」である。そもそもこの書は形の上では対象関係理論の本だったのだ。ただ関係を重んじる立場として Fairbair nSullivanにそのエッセンスを見出したことの意味は大きい。それにより対象関係理論の本流とも言うべき Fairbairn の理論に、在野のSullivan の奔放さや自由さが合流したことになる。著者の二人がおそらく持ち続けていたであろう願望、すなわちSullivan派をアメリカの精神分析の本流につなげたいという希望もおそらくこれによりかなえられたことになる。

RPに対する批判

本稿ではRPの具体的な理論には立ち入らないが、現代の精神分析においてこれまで見てきたRPに対する反対の立場を取る分析家も少なくない。Mills RPについての批判について論じる上で、まずRPの特徴を幾つかを挙げている(Mills, 2005)。それらは第一に、従来の匿名性や受け身性、禁欲原則への批判であり、第二に治療者が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたことであり、第三にRPの持つポストモダニズムという性質である。
 これらのうちの第一については、ここにRPの真骨頂があるといえるだろう。従来の精神分析で一般に非治療的とみなされていた介入、例えば自己開示などは、これが治療可能性を含んでいる以上はRPにおいてはその可能性がさらに追及されることになる。また第二については、RPは臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたと言える。RPの分析家たちは、学会でも自分自身の心についてより多くを語り、また臨床場面でも自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまり彼らは治療者としてよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求める立場からは明らかに距離を置くことになる。第三に関しては、RPにおける治療者のスタンスは紛れもなく解釈学的でポストモダンなそれであり、そこでは真実や客観性、実証主義などに関して明らかに従来とは異なる態度が取られている。
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?まず非常に明白な事柄から指摘しなくてはならない。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。Freud が精神分析において目指したのは無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
Freudは「無意識こそが真の心的現実である the unconscious is the true psychical reality (Freud , 1900. p. 613)と述べた。あるいは「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processes(Freud, 1925, p. 70) とも言っている。意識的な体験を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは反論できないことになろう。この問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の俎上で扱うことの適切さにさえ議論が及びかねないのである。また欧州の精神分析においては、RPは分析理論における著しい退行を意味するという激越な批判もある(Carmeli, Blass, 2010)。それによれば関係論的な旋回は伝統への挑戦であり、これまでの精神分析における技法や慣習を蔑ろにし、分析家の持つ権威を奪うとともに、かえってある種のパターナリズムに陥っているという。英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、RPに対してこのようなほとんどアレルギーに近い反応が見られるのもわからないではない。
しかしより微妙な文脈で行われる批判には、それだけ注意が必要と思われる。ここではRPに対して詳細な批判を行っているMills2005)の論文を手引きにして論じたい。このMills RPに対する批判の中で筆者が妥当と思われる論点をひとつ選ぶならば、それはいわゆる「間主観性」の概念に関するものである。それは「精神の構造は、少なくとも精神療法の場面で扱う限りにおいては、他者との関係に由来する」(The International Association for Psychoanalysis and Psychotherapyのホームページによる(http://iarpp.net/who-we-are)とするRPの方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。
間主観性の概念は、RPにおいては Robert Stolorow, Thomas Ogden, Jessica Benjamin らにより精力的に論じられている。論者によりそれぞれニュアンスは異なるが、概してその論調は存在論的であり、「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24) という理解に代表されよう。そしてこの意味での間主観性は心が生じる一種の場としてとらえられる。
Millsはこのような間主観性の概念は、それが個を埋没させる傾向にあるという点で問題であるという。そして例えばOgden (1994) の次のような主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは非分析者、そしてもう一つは第三主体 the analytic thirdである (p. 483)Mills はこれについて、「そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性 agency の存在はどうなるのだろうか」と問うのだ。Millsはここで随伴現象 epiphenomenon という概念を引き合いに出す。随伴現象とは全世紀初頭にWilliam James により提唱された概念で、心は脳という物質に随伴するものあり、物質にたいしては何の因果的作用ももたらさないという説である。「間主観性も結局は随伴現象であるが、それに対してなぜそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(p.162)というのがMillsの批判の骨子であるが、これは本質的な問題提起ともいえる。Giovacchini1999)は、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」といういい方すらしているという。
ちなみにここで筆者の考えを差し挟めば、このRPへの批判は、「無意識が人間を支配する」というFreudの考えに対する異議に通じるという印象を受ける。無意識の重要性を前提とする精神分析を外側から批判する人々の多くは、人間の持つ主体性が無意識という装置やリビドーの影に埋没することに不安や疑義を持つであろうし、精神分析の内部にあるRPの立場もそこに発している。ところが今度はRPにおける関係性や第三主体は単なる随伴現象であるにもかかわらず、その「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。
 このRP批判とFreud批判がパラレルに考えられるという事情は、関係性のマトリックスないしは第三主体もFreudの無意識も、結局はあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰着されるのであろう。人間は一方では脳や中枢神経ないしは生理学的な基盤に既定され、他方では他者との関係性や社会の中に埋め込まれている。両者はきわめて複雑で予想しがたい動きを示す。これらのいずれのみに焦点を合わせることは人間を総合的に理解することにはつながらない。RPがリビドー論を棄却しえているのかを問うたGreenberg と、上述の間主観性批判は、あたかもその二つの視点からRPを牽制していると考えられるのではないだろうか。

2017年12月17日日曜日

関係精神分析(福岡版) 2

関係精神分析の本質とは何か?

RPは物事の本質を見出す姿勢そのものに懐疑的である。したがってRPの本質を議論すること自体が矛盾する試みと言えるため、そこで論者たちが有する共通理解について述べるにとどめたい。関係精神分析の本質は、臨床場面で患者と治療者の間に生じる治療者と患者の二者関係、ないしは二方向性を重視する立場である。治療関係において生じるのは、結局は二人の人間の間のやり取りであり、当然のことながら両者は互いに影響を及ぼし合うことになる。RPはそれを前提として精神分析の理論を組み立てるという立場を取る。フロイトの示した古典的な精神分析モデルは、治療者は患者の自由連想に耳を傾け、その無意識的な欲動を解釈することを治療の本質として捉えていた。それは観察するものとされるもの、知るものと知らざる者、治すものと直されるものと一方向性を確かに有していた。しかし実際には治療者は客観的な観察者にとどまることはできない。その言動や振舞いは患者の自由連想に反映され、またその連想内容は翻って治療者に影響を与える。関係精神分析において強調される二者性は、治療者と患者は各瞬間に影響を及ぼしあっているという現実を指し示しているのである。
「精神分析理論の展開」に置けるそのような立場を、GreenbergMitchellは、フロイト的な欲動論的立場に対するアンチテーゼとして位置づけた。しかし同様の主張は米国において1970年代より複数の分析家によりなされている。それが古典的な視点に立ったいわゆる一者心理学とは異なる、二者心理(5)の立場である。精神分析を患者との相互的なかかわりの中で創造される過程として捉える関係精神分析は、その理論的な系譜としては、いわばこの二者心理学の発展形と言える。
このような関係精神分析の立場はまた、いわゆる社会構築主義のそれとも多くの点で重なり、現代的な人間の知のパラダイムの展開、とりわけポストモダニズムの影響を大きく受けている。しかし関係精神分析は単に一つの理論的な立場には留まらない。その人間観や背後に流れるヒューマニズムにこそ大きな特徴がある。以下に述べるとおり、それは患者の立場の重視、ひいては人間性の尊重という姿勢に貫かれているのだ。そこで強調されるのは、精神分析療法を実践する上で最も生産的なのは、治療技法を超えた治療者と患者との出会いの体験であり、関係精神分析はそれに理論的な根拠を与えてくれるからである

古典理論から関係精神分析への橋渡しとしての対象関係論

関係精神分析がフロイトの欲論的な考えに対するアンチテーゼとして出発した経緯については既に触れたが、同様の主張をいち早く行ったのは英国に端を発した対象関係論であった。フロイトは基本的には理科系の人間であり、人間の精神を機械論的ないしは本能論的な視点から捉え、対象とのかかわりも結局はリビドーの満足を目指したものであるとみなす傾向があった。彼は何よりも科学者として、精神分析を一つの学問体系に仕上げることに懸命であった。その場合必然的に治療とは一種の実験的な色彩を伴い、患者はその実験の対象であった。もちろんフロイトはヒューマニスティックな側面も併せ持ち、精神分析を人類の発展に役立てたいとは思っていたが、患者と主観的、情緒的にかかわるという志向性は薄かった。彼にとって治療とは患者の欲動の処理に伴う病理に対処するものとされ、その意味で典型的な一者心理学といえた。
英国においてIan Suttie Melanie Klein, Ronald Fairbairn らにより始まった英国対象関係論の中心的な視点は、「対象にかかわろうとする主体の欲求が中心的立場を占める」(24)ことであり、その点でフロイトのこの欲動論的な立場と一線を画しものであった。
ただしそれとは別に、フロイト自身の理論形成の中に対象関係論的な視点が芽生えていたことは、フロイトの理論をわが国に導入することに貢献した小此木啓吾が繰り返して強調していた。フロイトのその側面はMelanie Kleinに受け継がれ、FairbairnHarry Gntrip等に多大な影響を与えたのであった(23)。小此木によれば、フロイトの精神分析的な認識の根源は「心的現実性」であり、それに基づいた超自我形成論こそ、フロイトにおける対象関係論の出発点であった。例えばエディプス・コンプレックスをめぐって生じる心的機序を考えれば、父母への同一化と、それにより内在化された父母像が超自我となると説明された。さらには超自我の過酷さも、子供が持つ内的な破壊性(死の本能)の投影されたものであるとする。そして「悲哀とメランコリー」(2)に見られる内的対象の議論もまた対象関係論の萌芽となった。

サリバンと対人関係学派

先に述べたGrennberg Mitchellは対人関係学派の拠点ともいえるニューヨークのホワイト研究所(William Alanson White Institute)の出身である。関係精神分析が生まれる切っ掛けとなった「精神分析理論の展開」が、彼らがホワイト研究所で用いていた教材から生まれたという経緯を考えると、関係精神分析の萌芽は対人関係学派にあり、その源流はHarry Stuck Sullivanその人にあったとも言えよう。
Sullivanサリバンは米国で統合失調症との治療的なかかわりを通して独自の理論や治療観を生みだす一方では、当時のドイツ精神医学のクレペリンEmil Kraepelinに見られる理論的、科学主義的な姿勢を批判した。Sullivanサリバンはフロイトからも大きな影響を受けたが、同時にその中にクレペリンに見られる科学主義を感じ取り、それに対する疑義を持っていたことが伺える。
後に関係精神分析に継承される形で再評価されることとなったサリバン派の理論が、アメリカの精神分析では長い間亜流に位置づけられていたこととは特筆に値する。サリバン派は在野にあるものにのみ許される理論的な自由度や独自の主張を獲得していたのである。Sullivanは正式な精神分析のトレーングを経ることなく、それだけその伝統に縛られることも少なかった。そして不安を基にした独自の精神病理を考え出すとともに、現実の患者との生きたかかわりを強調し、「関与しながらの観察participant observation」という言葉を残した(26)。彼が主として扱った患者が統合失調症の患者であったことも、その理論形成や治療観に深い影響を及ぼしていたと考えられる。

Sullivan自身はClara Thompsonを通じて精神分析理論から学ぼうとする姿勢を保ち、精神分析学会との関係をむしろ望んだとされる。彼らは実に9年間ほど、彼らのホワイト研究所における研修がアメリカ精神分析協会に認可されるべくアプローチを続けたというが、結局受け入れられなかったと言われる(28)。結局ごく最近になり、ホワイト研究所は米国精神分析協会から正式な認可を受けたという経緯がある。

2017年12月16日土曜日

関係精神分析(福岡版) 1

関係精神分析

この●●セミナーで関係論ないしは関係精神分析を一つのトピックとして取り上げていただいていることは非常に光栄である。関係精神分析(relational psychoanalysis, 以下RPと記す) は、米国における現代的な精神分析理論の様々な流れの総称といってもいい。そこでは古典的な分析理論に対して相対主義的な立場を取るあらゆる動きが学派を超えて集結し、さらなる広がりを見せている。それらの動きとはコフート理論、間主観性理論、乳幼児精神医学、外傷および解離理論、脳科学などである。このRPの動きは、特に北米圏では確実に拡大を続けているという印象を受ける。ただしわが国では関係精神分析についての発表やセミナーは非常に少ないというのが現状である。

関係精神分析の歴史と全体的な流れ

 RPは様々な流れの総体といえるが、その具体的な切っ掛けは1983年に出された著述である。Jay GreenbergStephen MitchellによるObject Relations in Psychoanalytic Theory(精神分析における対象関係理論)」(6)(邦訳題「精神分析理論の展開」)である。同著の大ヒットがRPの大きな流れを導いたといえよう。彼らはその本で、英国における対象関係論と、米国の対人関係理論にある共通項を抽出した。それが関係性という考え方を用いたのである(4)。それが対象関係論とも対人関係論とも異なる独自の理論(RP)として成長していくことになった。RPの事実上の学会誌といえる「Psychoanalytic Dialogues」も1991年に Mitchell により創刊された。このジャーナルは、最初は Mitchell の率いる小さなグループの手によるものであった。しかし今では数百の著者、70人の編集協力者を数え、年に6回刊行されている。このようにRPの流れには Mitchell という希代の精神分析家のカリスマ性と強力なリーダーシップが貢献していたが、彼は200012月に心臓発作で急逝した。こうしてその偉大な創始者かつリーダーを失ったRP は、翌年には彼の遺志を継ぐ形で国際的組織 IARPPThe International Association of Relational Psychoanalysis and Psychotherapy、関係精神分析と関係精神療法の国際協会)を結成したのである。
そもそもPRをめぐる動きとはどのようなものなのだろうか? RPはそれ自体が明確に定義されることなく、常に新しい流れを取り入れつつ形を変えていく動きの総体ということができる。RP をめぐる議論がどのように動いていくかは、予測不可能なところがある。とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義や平和主義に向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、倫理的な配慮がその基本的な方向付けを行っている。精神分析におけるこれまでの因習や慣習は、それが臨床的に役立つ根拠が示されない限りは再検討や棄却の対象となるだろう。
RPの繁栄はそれに関する学術的な論文や出版物、ないしは教育に支えられている。ある論文が学術的な価値を持つためには、それが革新的、新奇的な部分を供えなくてはならない。従って新しい論文や著作の多くは精神分析の中でも革新的な色彩を持ち、その性質としてはRPの色彩を有することになる。そもそもRPが非常に学際色が強く、そこにさまざまな学派や考えを貪欲に取り込み、枝葉を広げていく傾向や、臨床に応用可能なら何とでも手を結ぼうという開放性が一種の熱気や興奮を生み、それがこの学派に勢いを与えている。そしてそこにはそれらの熱狂を支える幾人かのキーパーソンがいる。具体的には故 Stephen Mitchellをはじめとして、Peter Fonagy  Allan Schore, Jessica Benjaminといった人々が浮かぶ。
このようなRPの流れは、全体として臨床上の、ないしは学問上位の自由や独創性を追求する流れに重きを置いたものと言えよう。しかしそれは必然的に伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場からの抵抗を当然のごとく受ける。本稿ではその事情についても後に触れたい。
 ちなみにわが国の現状においては、臨床家の間で、関係精神分析に対する賛同の声や反論が聞かれる以前に、そもそもその存在が十分に認識されていない。米国を含む諸外国ではかなり存在感を増していることとは非常に対照的であるし、また非常に残念なことと言わなければならない。