2017年11月22日水曜日

甘えの裏側の病理 3

3.外国体験により解放される日本人たち

日本人は社会においてはこの種の心の読みあいに慣れてしまっていて、さほどそれを疑問に思ってはいないらしいが、それは非常に大きなストレスの原因になっているのではないかと私は考える。それは私が診療場面で何人かの患者から聞いた話からうかがい知ることが出来た。彼らは成人してから後、比較的長期にわたって外国滞在を体験していた。彼らのうち何人かが伝えているのは、海外に出ることである種の緊張感から解放され、伸び伸びと過ごすことが出来たという体験である。彼らの中には対人恐怖傾向を持ち、引っ込み思案を苦にしていた人も含まれていた。そのような彼らでさえ、海外での日常生活はある種の開放感を与え、一種の「目から鱗eye-opening」な体験となったという。
 彼らの滞在先は概ね英語圏であり、米国、カナダ、英国、ハワイ、オーストラリア、フィリピンと多様である。しかしいずれも対人間の煩わしさが少ないことに多少なりとも驚いたという。海外での滞在は思わぬ症状の改善をも生んだ。ある不潔恐怖を伴う強迫神経症を持つ若い男性は、語学留学をしている間の一年はその症状がほぼ半減していたと言う。リストカットの自傷行為を繰り返す20代の女性は、3か月間の米国滞在の間に一度も自傷が起きなかったという。彼らは特に英語が流暢とは言えず、日常生活におけるコミュニケーションで少なからず不自由さを体験していたはずである。
 彼らが語るのは、「外国に出ると、人がどう思っているかをいちいち考えなくてもいい。」という体験であった。そしてその理由を問うていくうちに、「彼らがそもそもこちらのことを気にしていないから、こちらが彼らのことを気にしないでも良いということがわかった」とのことである。もちろん彼らは外国では最初は異邦人として特殊な目で見られるかもしれない。しかしその際に浴びるのは、こちらに「気を使っている」視線ではない。「この人は自分に何をして欲しいと望んでいるのだろうか?」という視線でもない。もっぱら「この人は私のパーソナルスペースを侵してこないか」、という意味での注視である。そしてそうでないとわかると、彼らは注視をやめて、自らの関心事へと戻るであろう。もちろん彼らは困っている異邦人を助ける気持ちを持ち合わせてもいるかもしれない。その異邦人(すなわち私たちの同国人)に興味を持ち、積極的に助けの手を差し延べてくることもあるだろう。しかし通常は彼らはそこまで親切心が旺盛なわけではない。彼らは「もし必要ならそういってくるだろう(自分だったらそうするだろう)」ということを暗黙の前提としている。そこにあるのは、憶測や想像力を働かせず、またその必要もないという考えである。想像力はエネルギーを使うし、誤解も多い。特に多民族国家では相手の心を想像しにくい以上、自分が必要なものを相手に伝えるというルールなしには社会は成立しないであろう。そのために異郷で一人ぼっちでいる日本人は心細さを感じ、こちらのニーズを読んでもらえないことに憤慨するかもしれない。しかしその関係は相互のニーズを読みあう社会society of mutual mind-reading にはないある種の開放感を与えてもくれるのである。
 ここで思い出されるのは、土居健郎の甘え理論の発端となった異国体験の例である。「甘えの構造」(1971)の冒頭部分で、彼は次のようなエピソードを紹介している。彼は留学してまだ間もない頃、米国である家に招かれた際、「あなたは空腹ですか? アイスクリームがありますが」と問われた。彼は実際は空腹だったが、遠慮して「空いていない」、と答えた。そしてもう一度勧めてもらうのを期待したのだ。しかし相手は「あ、そう」と言ったきり、「なんの愛想もなかった」という。土居はこの時、そのアメリカ人にこちらの気持ちを汲んでほしかったのだ。当然日本での人間関係ではそうするのである。しかしそのやり取りが米国では生じなかったのだ。
 この体験が土居が甘えの考察へと導いた。土居はこのくだりを描いた際に細かい分析をしていないが、私がもしするとしたら、先ほどの「海外に出ることで解放感を味わった人々」のネガの現象として理解する。相手が何を欲しているかの読みあいは、時には喜びを生み、時にはストレスを生むのである。そのストレスとなる場合の方を考えよう。
 隣人が精神的な苦痛を体験しているとしよう。米国人も日本人も、相手の痛みを感じ取るところまでは同じだ。しかしそこから違うのが、相手がそれをどうして欲しいかを読み取ろうとするかどうかである。たとえば米国ではそれを読み取り、それに応じることを特に期待されない。しかし日本社会では、それを相手から「読み」、できる限り応じることを期待される傾向にある。苦痛を体験している人もまたそれを期待するのである。

この関係はうまく働けばいいのであるが、実は人は容易に相手の気持ちを読むことはできないのも当然のことである。すると時には出口のない循環的な展開が生じてしまう可能性がある。「相手の気持ちを読もうとする」 → 「相手に気持ちを読んでもらおうとしているかを読む。」 → 「相手に気持ちを読んでもらおうとしているかを読んでもらいたいかを読む」・・・・・。このうちのどのプロセスに不都合が生じても、あるいはそもそも気持ちを読んでもらおうとしている人が存在していなくとも、お互いに相手に誤解された、理解してもらえなかったという失望や恨みの体験を生む可能性がある。しかもそれはおそらく相手に表現されないであろうため、誤解はさらに大きくなる可能性がある。人はそれを避けようとして相手の気持ちを読むことを一切控えようとするかもしれない。しかしそうすることで「あの人は空気を読もうとしない」といわれ、社会から排除されてしまう可能性があるのだ。だから同じ日本人として認め合っている以上は、その関係から逃れることはできない。それにそのような関係をわきまえないことは、礼儀を知らないということになってしまう。なぜなら同様のお互いの気遣い、私が相互の心の読みあい mutual mind-reading と呼ぶものは日本社会に儀礼として定着しているからだ。例えば贈り物文化だ。そして贈り物を渡す時に、「つまらないものですが…」という常套句。時には「もしご不要な場合にはお捨てになって結構です」とまで言うことすらある。これは何を意味するのか。「あなたは欲しいでしょう?だから持ってきました。でも捨ててもいいんですよ。どうせつまらないものですから。」 相手が贈り物を迷惑がって捨てたい場合を想像して気遣っているのだ! しかしこれは微妙な形で相手を拘束することになる。相手にこちらの欲していることを読んでもらうのは心地よいが、同時に自分が何を欲しいかを押し付けられることでもある。「捨ててもいい」といわれてもらう贈り物を誰が実際に捨てることができるだろうか?日本流のおもてなしは侵入的ともなりうるのである。