2017年11月12日日曜日

ローゼンフェルドの自己愛理論 ⑧


最後に-ローゼンフェルドをいかに捉えるか?
ということで、最後にローゼンフェルドの議論をどのように捉えるかということです。
これまでにも論じたとおり、彼の出発点はフロイトのいう自己愛の概念です。そしてその治療対象は統合失調症でした。とするとカンバーグやコフートに見られるNPDと重なり合うのか、という疑問が生じます。投影同一化の病理を扱っている点で、事実上ボーダーラインについての議論ではないか?という議論は当然起きるべくしておきます。しかしここら辺の議論はあまり臨床的ではなく、むしろ概念をどのように整理するべきかということになり、重要ではありません。そこで最後に私の感想です。やはりRはどうしようもなくクライン理論に縛られているとしか言いようがないと思います。理論の系譜がそうだからです。ヨーロッパの学問の持つ限界と言えるかもしれません。そしてRの言う自己愛が結局は羨望や破壊性ということになると、自己がこうむったトラウマとか破壊性という文脈が出てこない。自己愛の病理はその人の持つ生まれつきの羨望や氏の本能の結果生じる、ということになりそうです。
でもローゼンフェルドは、子供の全能的なファンタジーは子供が小さく何もできない無力な存在であることから生まれる全能的なファンタジーであるとも言っている事を見つけました。ですから彼も環境を無視したわけではないということはいえると思います。私はこれ以上英国学派の病理的組織の議論にはあまり深入りしないことにしますが、それはやはり自己愛は、自己愛と傷つき、自己愛トラウマ、そこから派生する怒りという文脈が一番面白く、多産的で、臨床にも応用できると思うからです。そしてそれが私がお勧めしたい文脈です。
(付録)
ローゼンフェルドの症例はかなり提携的で分かりにくい。クライン用語の羅列、という気さえする。以下はその例である。


 ピーターはかつて精神病のエピソードを体験した。それからの分析のプロセスで、彼は多くの陰性治療反応を起こした。つまり彼は治療が進展すると、何も考えられなくなってしまうのであった。徐々に明らかにされたのは、彼の人格には極めて傲慢で優れている arrogant and superior 部分があるということだった。その部分は彼自身に、精神分析の解釈が誤りであるとささやきかけた。彼の精神分析における信頼感と協力が増し、私からの助力を受け入れようとすると、彼の全能な部分が、彼が弱くて劣っていることを批判した。ピーターはあまりにひどく馬鹿にされたため、彼が次回のセッションに現れたときは、ショックを受け、打ちのめされ、ほとんど粉々にされてしまった気がした。
・・・彼は週に一人や二人、売春婦を買うという生活をしていた。彼は娼婦との間で自分の征服欲を満たし、完全にコントロールするというファンタジーを満たした。彼は自分のある部分から脅しを受けていた。それは彼がいかなる前進も放棄し、特に分析家とのよい関係を諦め、全能で自己愛的な部分が支配するようにし、無制限のマスターベーションによる快楽に浸りさえすれば、すべてがうまく行く、という脅しを受けていたのである。しかし治療が進展すると、外界の人々に対する殺人的な怒りが出現し、それにより彼は誰かを殺したのではないかという脅迫的な不安に襲われた。このような殺人的な怒りは、彼が他人と自分に比べ、優れていると感じたときに生じた。つまり殺人的な全能の羨望は、彼の自己愛的な全能のコントロールにより隠されていたのである。