2017年8月22日火曜日

自由意思は存在するか?

自由意思は存在するのか?

「頑張る」のは自由意思か?
私には年に一度、憂鬱な体験がある。目の前にいる中年の女性に、「頑張りが足りない、もっともっと!」とせかされ、全力を尽くす。しかしその女性は私が十分頑張っていないのではないかと疑いの眼差して、「もう一度行きますか?」などという。その女性の叱咤激励に少しでも応えようと、いやいやながらもう一度トライするが、結果は先ほどより悪い。そして「このところどんどん下がってますねえ」、などと言いたげなその女性の前から、気まずい思いでそそくさと退散するのだ。
そう、年に一回の健康診断の、肺活量の検査である。でも今年は少し変わった体験をした。「もっと吐けますよ、もう少し頑張って!」と必死の形相で私を叱咤する彼女を前に、「ひょっとしたらもう少し行けるのかな。」と思ったのだ。私は毎年ここでもうあきらめる時点で、ダメもとで喉を振り絞ってみた。すると意外にもちょっと余計に息がの度を通過するのを感じた。その女性の検査技師は満足そうに、「おや、去年の数値よりちょっと上がりましたよ。ここ数年で一番いいですね」と言い、「じゃ、今日はこの一回でいきましょう。」と許してくれたのである。(ちなみに聖○○病院の健康診断に何年も行っているので、コンピューターにはここ数年の私の情けない肺活量が登録されているわけだ。)
私は日ごろの臨床で、患者や子供や生徒に向かって「努力が足りない!」「もっと頑張れ」「まだまだ甘えがある」と言い続ける親や教師をたしなめる役割である。「彼はがんばれないから苦しいんですよ。そこを分かってあげてください。」というのだ。ところがその私が今日は頑張って結果を出し、検査技師にどや顔をさせてしまったのだ。「被験者が本気をだしてやっと肺活量は正確に測れるんだわ。彼はこの数年頑張りが足りなかったのよ。」私は今から来年を危惧している。おそらく来年はまた頑張りが足りなくて、今年の新記録をはるかに下回り、ひょっとしたらあの検査を3回繰り返されるか、あるいは根性のない還暦過ぎの男性として扱われるか、なのだ・・・・。
さてこのエピソードから人間の自由意思の話に持っていくのは飛躍かもしれないが、あるヒントが隠されている気がする。すくなくともこのエピソードは、いわゆる暗示やプラセボ効果と関連した問題が絡んでいると言えるだろう。人が全力を注いで何かをする場合、その「全力」には結構幅がある。人は自分の「全力」の「全力具合」をあまりわかっていないものなのだ。自らのバッティングを向上させるために全力を尽くそうと決めた高校球児がいたとしよう。彼は毎日に時間はバットを振る。しかし週に一日、日曜日は休息しよう、と思うかもしれない。すると「その昔、長嶋茂雄選手は盆も正月もなく一日バットを振り続けた」というエピソードを聞き(ちなみにこれは私が想像した話にすぎない)、この球児は自分が思っていた全力は、実は全力ではなかったことを知り、「もう少し全力で」(矛盾した表現である)素振りに専心するだろう。彼の全力は、まだ全力ではなかったということになる。人は「全力」をふるっている時も、様々な不安から、例えば「自分の体がそのために崩壊するのではないか」という予感から力をセーブするものだ。400メートル走の選手が全力で走ったとしても、彼が100メートル走の際に発揮する「全力」には及ばないはずだ。そんなことをしたら200メートルくらい行ったところで彼は力尽きてしまうだろう。おそらくこれ以上の力を出したら骨折してしまうのではないか、死んでしまうのではないか、という不安から、人は無意識的に自分に抑制を、ブレーキをかけているのであろう。するとたとえば、自分ならこれ以上は挑戦しないであろうと思えるレベルを超えていくライバルを見て、ふと自分もそのブレーキを緩めることになるのかもしれない。オリンピックの水泳の記録などを見ると、どうして各大会ことに世界新記録が塗り替えられていくのかが分からない。しかしここにはひょっとしたら「全力」と思っているレベルを、ひょっとしたら越えられるのではないかという新たな発想が、仲間の奮起により得られるからではないか? 人類の体力がそれほど右肩上がりに上昇するようには思えないからだ。
同様のことは、プラセボ効果や暗示によっても得られる可能性がある。日本の4人の若手の陸上の有望選手を考える。もしいきなり2人が100メートル9秒台を出したら、つられてもう一人くらい9秒台を出すのではないか? あるいは彼らに暗示をかけて、「あなたは今特別な薬を飲みました。これは100メートルを絶対に10秒未満で走ることが出来る錠剤です。実はこれを飲んで9秒台で走れなかった人はいません。」と伝えたとしよう。4人のうち信じ込みやすい一人くらいは9秒台を出せたりして。
ちなみに「全力を出す」ことへのブレーキは、おそらく生物が自己防衛として早くから身に着けているのではないだろうか。私事で恐縮だが、私は非常に体調を崩した時期があった。普段だったら自然にできることが、異様に体がしんどくてできない。たとえばベランダに積もった落ち葉を掃き掃除する、ということが出来ないのだ。そこで「できないと思い込んでいるからだけではないだろうか?」と考え、普段だったら自分がするような動作を起こしてみた。箒を持って、実際に庭を掃いてみたのである。私はそれを12分は継続することが出来た。その時私は「そうか、やはりやろうと思ったらやれたのだ!」と考えたのである。しかし数分後に驚くべきことが体に起きた。激しい疲労が襲ってきて、それこそ立ち上がることすらできずにそこにうずくまってしまったのである。「庭を掃くことすらできない」という私の認識は、それをもししたらすぐにでも動けなってしまうという予感や恐怖によりバランスがとられた結果だったのだ。そして事実私はその時に「庭を掃くことすらできない」状態だったというわけである。
「頑張るとはどういうことか?」「何が全力か」という話に戻る。私は、このテーマは認知的な問題に還元できると思う。人は頑張り、努力するとき、ある種の不安との綱引きを行っている。自分の体力や精神力の発揮できる量を示すダイヤルがあるとしよう。時計回りにいっぱいまで回すと、それが全力だ。するとそれ以上ボリュームを上げると体が崩壊し、あるいは倒れたり死んでしまったりするのではないかという不安は、ダイヤルを反時計回りに押し戻そうとしている力となる。その反時計回りの力はそれ以外にも暗示により、その時の不安の強さにより、彼女が応援していることにより、あるいは何かの偶発的な力により、その時々で異なるのだ。その結果として人はこれ以上はもうボリュームを上げられないと判断するところで「よし、これが全力だ。」と認識する。この認識は大体において正確なのだ。しかし反時計回りの抑制の力にはその時々でブレが生じ、その認識を狂わすことがある。そしてここでダイヤルはいっぱいに回しているな、と思うときにももう少し力を入れると、ダイヤルがもう少し時計回りに回せてしまう場合があるのだ。こうして見かけ上の記録は伸び、肺活量も偶然あがったりする(先日の私のように)。でも私はこの体験から次のような教訓を得たことになるだろうか?
「もうこれ以上はダメだ、と思うときに、もうひと頑張りしてごらん。きっと記録は伸びるよ。」
私は十中八九これはうまくいかないと思う。今日は私が根性を出した、というよりは「たまたま」だったのである。私の認識が少しくるっていたというわけだ。あるいは生徒が、子供が珍しく登校できたり、試験でいい成績を収めたとする。教師や親はこう言うだろう。「ほらね、頑張ればできるじゃない。」あるいは好記録を出しスポーツ選手なら、「今日は本来の自分の力が出せた」と言うかもしれない。しかし私は誓ってもいいのだが、今日の達成は次のような使い方をされてしまうのである。「お前さんが本気を出せば学校に行けることはわかっているよ。また怠けモードに入ったんだね。」あたかも「頑張る」、「全力を出す」のは自由意思の産物であり、人は頑張らないという意図的な選択をしがちであるかのようなロジックである。しかし、いつ自分がどこまでできるかは、実はざまざまなファクターにより重層決定されているのである。