2017年8月19日土曜日

「ほめる」を三分の二にダイエット

私たちにとっての「ほめる」
はじめに

「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではある意味でタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられる傾向にあり、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりである。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な発想や介入は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、「欠点を探すんじゃなくていいところだけ見て、お前、すごいなと言ってやればいい」と語っている(1)。いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「ほめる」ことはそのための重要な要素の一つとみなされる。実際に私たちがあることを学習したり訓練を受けている場合、そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。「私はほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、それまでの人生で尋常でないトラウマを経てきているに違いない。

純粋なる「ほめたい願望」

まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や作品に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたくなる。たとえばストリートミュージシャンの演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、大き目のコインを彼の楽器ケースに投げ入れたくなる。私はこの素朴な気持ちを、純粋な「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち誰しもがもつものと想定する。この純粋なる「ほめたい願望」には愛他性(利他性)が関与している可能性がある。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。そのプロトタイプは母親の子供に向ける気持ちに見出されよう。ある人の行為や作品に感動を覚えた場合に、それを当人に伝えることが相手の喜びや満足感をもたらすとしたら、それは比較的自然な愛他性の表現とも考えられる。

以上純粋なる「ほめたい願望」について考えたが、これが発揮されない場合は数多くあろう。その理由の最大のものは羨望である。例えばある画家の絵画があなたの感動を呼ぶとする。しかしあなた自身も画家で、またその画家はあなたにとってライバル関係にあるという状況を考えよう。あなたはそのライバルの絵画の出来を素直に賞賛する気持ちにはたしてなるだろうか? またもしその画家との関係が最初から敵対的であるならば、「ほめる」などという願望は最初から起きない可能性ももちろんある。

技法ないしは方便としてのほめること

ところで「ほめたい願望」はある種の感動により引き起こされるわけであるが、刺激の多い現代社会において私たちが心から感動する機会は少なくなってきている可能性がある。それでも私たちは私たちが関わる生徒や患者をほめるということを止めないであろう。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならないからだ。ここに教育的な配慮から「ほめる」という必要が生じてくる。さらには社会生活を営む上では、さらに表面的で儀礼的に「ほめる」ことが多い。いわば純粋な願望に従うのではなく、技法として、方便としての「ほめる」である。もちろんこれを否定し去ることは出来ない。ただし次の様な例を考えていただきたい。

Aさん(20歳代、男性)は、小学校3年の体験を今でも明確に覚えているという。

(中略)
Aさんはこれを心の傷として今でも抱えているという。

これは教師の行為が純粋な「ほめたい願望」から出た場合には起こり得なかった悲劇だろう。

さてここまでは純粋な「ほめたい願望」と技法としてほめることをもっぱら対置的に論じてきたが、ここで両者を一概に区別することもできないという点にも触れておきたい。人のパフォーマンスや作品に私たちが感動を覚えない場合、それをパフォーマンスや作品のせいばかりに出来るだろうか? 当然そうではないはずだ。考えてもみよう。作品の評価は、それを鑑賞する人がどのような好みを持つかにより大きく異なるであろうし、またその人がどの程度関心を持ってその作品を鑑賞するかにもよる。人は基本的には自己愛的であり、自分自身の達成にしか注意が行き届かないことが多い。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでようやくその価値が感じられることが沢山ある。妻に家事の多くをしてもらっている夫は、少し想像力を働かせばいかにそれが大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、夕食時には食卓に食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、それに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。このように純粋な「ほめたい願望」と技法としてのほめることは、一見対立的であっても、実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。

親が子をほめる

以上は「ほめる」についての総論であったが、親として子をほめる場合は、そこに同一化や自己愛的な思い入れが関与する。たとえば私たちは、どこかの乳児がおぼつかない足取りで一歩を踏み出す様子を公園で目にしても、特別に感動することはないだろう。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、全く違う体験になる。子供がハイハイしていた時は、親は自分も心の中でハイハイしているのだ。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それはすばらしい成長の証であり、思わずほめてあげたくなるだろう。そしてこの同一化には自己愛的な思い入れが絡んでいる可能性がある。「さすがわが子だ」という部分である。

実はこの自己愛的な思い入れは、「ほめる」に大きく関係する。分かりやすい例に移し変えよう。わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を想定する。親は子供のうれしそうな顔を見て、子供に成り代わって喜ぶだろう。こちらが同一化による「ほめる」である。ところが親の頭に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ」なども含まれているに違いない。もし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子をほめながら、同時に自分をほめているという部分がある。こちらが自己愛的な思い入れということになる。

この後者が「ほめる」にどう影響されるかは、次のような思考実験をすればよい。子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えるのである。子供に強く同一化する親なら、子供が零点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさに同一化するだろう。親にとってもその結果は我がことのようにつらいことになる。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見た時の反応は、そのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由したものとはいえない。親は何よりも子供により自分のプライドを傷つけられ、恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。

ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスク・ハイリターンとなる。ほめることは子供の心に莫大な力を与えるかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しかねないだろう。だから自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の教師は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたという。おそらくそれは正解なのだ。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように、親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。

ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。

治療者が「ほめる」

臨床場面や臨床場面で「ほめる」ことについての考察はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。結論から言えば、そこにもやはり純粋な「ほめたい願望」が本質部分としてなくては、その価値が損なわれるであろうということである。治療者は来談者と長い時間をすごし、親の子に対するそれに似た思い入れが生じておかしくない。ただし親子の関係とは異なり、治療者と患者のかかわりには別な要素が加わる。それは治療者がそれにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。有料の精神療法のセッションの場合は、患者との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。他方では、治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるために、職業的なかかわり以外ではドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。治療場面外での相手との接触はむしろ控えられ、そうすることが職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。おそらく技法としての「ほめる」もここに関与してくるであろう。患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「治療的」な配慮からほめるという事も起きるべくして起きるだろう。この臨床場面における「ほめる」について、より詳細な考察を試みたい。

現代的な精神分析においては、治療者と患者の現実の関係性に重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを両者がいかに共有していくかが重要となる。そしてもちろん「ほめる」という行為もその意味が共有されることになる。通常私たちが日常的に体験する「ほめる」はいわば単回性のやり取りであるが、継続的な治療関係の中での「ほめる」は、それそのものの効果や是非を問うべき問題というよりは、その行為自体がさらに共有され、吟味されるべきものである。

さらには「ほめる」という行為の持つどこか「上から目線」的な雰囲気自体も問題とされよう。治療者と患者の関係は基本的には平等なものである。平等な関係においては本来「ほめる」ということはそのかかわりにおける意味を考えずに行われた場合にはエナクトメントとして扱うべきであろうし、場合によっては治療者の側のアクティングアウトとさえ呼ばれる可能性もあろう。

ここで具体例を挙げて考えよう。

ある患者Bさんが、最近週一回のセッションを休みがちになっていた。Bさんは遠方に住み、時間をかけて来院するため、治療者はそのことが関係しているのではないかと懸念していた。ところがここ1,2ヶ月はBさんは毎週来院できるようになったとする。治療者はその成果を嬉しく思い、「最近は毎回いらっしゃれるようになりましたね。よくかんばっていらっしゃいますね。」と「ほめ」たとしよう。治療者は自分の正直な気持ちを伝えたことになる。そしてそれを伝えられたBさんもその瞬間はそれなりに嬉しく感じたとしよう。

ここまでで終わった場合には、ごくふつうの「ほめる」という現象が治療関係においても生じた例ということになる。ところがこの背景には別の事情があったとする。Bさんが以前治療に来れなかった時は、治療者がいつも黙ったままで適切な反応をしてくれていない、と感じ、それをうまく治療者に伝えられないままに、治療動機が失なわれつつあったのである。それでもBさんはそのような自分に叱咤して毎回きちんと来ようと決めたのだ。しかしそれに対する治療者の「よくがんばっていますね」という言葉を聞き、Bさんは治療者がただ来院することが治療の進展を意味するという単純な考えを示しているに過ぎないという気持ちを抱いた。そして結局治療者は相変わらずセッション中に黙っていることが多く、Bさんのそれに対する不満は変わらなかったのである。

このかかわりを考えた場合は、治療者の「ほめる」はかなり治療者の思い込みや自己愛に基づいたものとなり、「ほめる」本来の役割さえも果たしていないことになる。それよりは、依然として「ほめる」部分を含んでいだとしても、次のような治療者のかかわりの方がより精神療法的ということになるだろう。

「あなたが治療に毎回来院できるようになっていることは喜ばしいと感じますが、あなたはどのように感じますか?」

これは治療者がBさんの毎回の来談を歓迎している一方で、そのことをBさんはどのように考えているのか、Bさんは自分とは異なる体験をしているのではないか、という顧慮を示していることになる。もちろんこれをきっかけにBさんが治療者への複雑な思いをすぐに語れるというわけではないであろうが、少なくとも治療者が毎回の来院イコール改善という単純な考えに留まってはいないことを暗に伝える役割を果たすであろう。あるいは治療者は、来院イコール改善と思いたい自分が一方にはいても、他方にはそれとはまったく異なる捉え方をする可能性のある別の主観(すなわち患者)の存在を認めるという意思表示をしていることになる。これに対してBさんが「そこをほめられると複雑な気持ちがするのです・・」と語り出したとしたら、そこから真の治療的なかかわりが始まると言っていいだろう。Bさんをほめたいというのはあくまでも治療者の主観的な体験であり、それがBさんの体験といかに異なるかという違いを照合することが治療的な意味を持つのである。すでに述べたが、「ほめる」はそれ自体がエナクトメントであり、「ほめっ放し」は相手の感じ取り方との照合の部分をおざなりにする可能性があるのだ。

ところで上記の例は、「ほめる」という行為が含みうる複雑な事情を表している。この事情は心理療法にとどまらないが、一応臨床場面に限って論じよう。治療者が「ほめる」という行為は、治療者が純粋な「ほめたい願望」に基づいて行ったとしても、相手に少しも響かない場合があるのだ。来院自体は患者にとって当たり前のことで、それを機会に近くでの買い物を楽しんでいるなどと言う場合を考えよう。「よくかんばって毎回いらっしゃいますね。」はクライエントにとってはほめ言葉としてまったく響かないどころか、むしろ後ろめたさを覚えさせるものかもしれない。更には時間をかけて来院することには特に苦はないが、セッション中に何を伝えていいかが分からなくて四苦八苦している患者にとっては、来院そのものをほめられることの意味は少ないであろう。来院すること自体に非常に苦労し、その苦労を治療者に分かって欲しい場合にはじめてこの言葉はほめ言葉としての意味を持つのである。

ただし治療者が患者の来院そのものを成果と感じ、喜ぶ場合には、それを伝え、その患者の感じ取り方を含めて考えていくことは、むしろその治療者にとって意味がある可能性は無視できない。本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。それは患者と共有されていると思う限りにおいて口にされることで患者の治療意欲を大きく高めるであろう。たとえ患者がその喜びを当座は感じていなくても、将来きっと役立つであろう試練を味わっていると治療者が思う場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。

最後に治療者がほめることの技法部分についても付け加えたい。これは特に治療者が感動しなくても、ほめることが患者にとって必要である場合にそれを行うという部分である。私がこの技法としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。先ほどのBさん例をもう一度使おう。この場合は患者の治療意欲は十分であったが、体調不良や抑うつ気分のせいで、セッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」

本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。

(1)(高橋尚子、小出義雄、阿川佐和子 阿川佐和子のこの人に会いたい 342 週刊文春、2000年6月1日号)