2017年8月20日日曜日

第3章 解釈を問い直す (2)① いかに学びなおしたか? ①

1.技法の概要
解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義される。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考える。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素とは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009) ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのかについて、少し振り返っておこう。 本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。
「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねないだろう。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992)というホフマンの提言もその意味で頷ける。
もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような視点が有用と考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いていますが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。目の前の患者さんの背中に文字が書いてあり、患者さんはそれを直接目にすることができないとする。そして治療者はその患者さんの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者さんが部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?

もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さに通じていると言えるだろう。ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味でである。患者もすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。患者はそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者さんとの共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

精神分析をいかに学びなおしたか? ①


脱学習をするのは自分ひとりである

先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方がひとつのテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土曜日の午後、日曜日の午前中にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、と言うことができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからの電話を受ける基準について、講師Aの言うことと、講師Cのいうことが違っていた。講義を聞く側としては混乱してしまった。」
実はこの講師Cは私のことで、講師Aはある精神療法の世界の大御所です。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Dさんとしましょう)が問題にされたのです。おそらく私のことだから、電話を取る基準として私自身が用いている甘くいい加減な基準を話し、A先生はその逆だったのだろうと想像します。
私はDさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、精神療法について考える上で非常に重要な点を私たちに考えさせてくれると思います。それがこの脱学習というテーマです。
私はこの世界では、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が一致していること自体がむしろ少ないのではないでしょうか?考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その両方ごとに正反対ということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)と言った具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。あえて、精神療法を「精神分析的」と「それ以外」、と言う乱暴なわけ方をすると、皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことは、どこかで正反対の二つのうちのどちらかを混乱せずに無事に選んでいらっしゃるわけです。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。でもそこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決めるときが来ます。頼りになる先輩はもはや確信を持って答えを出してくれないでしょう。あるいはあなたがXかな、と思っていたことについて、「絶対Yだ!」と言われてしまい、ついていけないと思うかもしれません。結局どこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。