2017年6月18日日曜日

ほめる 7(推敲含む)

純粋なる「ほめたい願望」

まずは自分の体験から出発したい。私は基本的にはあることがらに心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたいと願う。たとえばストリートミュージシャンを見ていて、その演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言って楽器の箱にコインを多めに投げ入れたくなるし、見事な論文を読んだら、作者に「とても感動しました」と伝えたくなる。学生の発表がすばらしかったらそれを当人に伝えたい。その際に私は具体的な見返りを特に期待はしていない。もちろんそう伝えられた相手が「本当ですか? 有難うございます。」と喜びの表情を見せたら、一緒に喜ぶであろう。しかし相手が自分にとって遠い存在であれば、気持ちを伝えるメッセージを一方的に伝えるだけでもいいのである。
以下に更に検討するが、私にはこの比較的単純かつ純粋なほめることへの願望をとりあえず「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。まず発想として浮かぶのが、この願望はその他の願望が形を変えたものであるという可能性である。たとえば自分自身がほめられたいという願望から派生しているという可能性もありうるだろう。「人はほめることにより、その人はほめられることの身代わり体験をするのだ。」ちょっと聞くともっともらしいが、ほんとうにそうなのだろうか?人が簡単に身代わり体験を出来るのであれば、他者が喜んでいる姿を見ているだけで自分も満足ということになるが、もちろんそのようなことはあまり起こらないし、そもそも自分が相手をほめるという能動的な行為が必要となる理由を説明できない。またこれもあまりありそうにないが、「相手をほめることで、本当は自分をほめて欲しいのだ」という可能性はどうか。しかし私はほめた相手から「そういうあなたもすばらしいですよ」というメッセージは期待していない。もしそう言われても「いや、そういう意味ではないのですが・・・・・」とむしろ当惑するのではないだろうか。先ほども述べた通り、相手を賞賛するメッセージを残して立ち去るだけでもある程度満足するのである。