2017年6月22日木曜日

ほめる 10 (推敲入り)

ほめることへの抵抗 羨望
それは上に述べたような事情、すなわち感動するものに出会うことは日常生活でむしろ希少であるということがあるだろう。そしてそれが私たちが日常生活で「ほめる」ような対象、すなわち私たちにとっての生徒や後輩や子供である場合には、その可能性がさらに小さくなるという事情があるかもしれない。しかしそれ以外にも大きな障害がある。その一つは羨望だろう。その作品が私が専門としている分野で発表され、その作者が私にとってライバル心を起こさせるとしたら、これは決して容易ではない。逆に悔しくて文句の一言も言いたくなってしまうだろう。その場合はその羨望の念が薄れるまで時間がかかり、それからやっと祝福を言うことが出来る状態になる。大体私のライバルAさんが立派な仕事をした時は、それに対して悔しいと思う私の方の認識が間違っていることになる。Aさんはこんな仕事は出来ないだろうと思っていたから、Aさんに先を越された、と思うわけである。ところがそこにはAさんが先を越さないであろうという私の想定があったわけで、それが間違っていたことが証明されたわけだ。そこで自分とAさんの関係の見直しが起きれば、素直にその人を祝福したいという気持ちにもなるだろう。ただしもちろんAさんと私との関係がそもそもよろしくなかったら、祝福したいなどとは最初から思わないであろう。そのような人の成功は腹立たしく感じるわけである。でもそのようなときにも私は「この人を祝福してみたらどうなるのだろう?」というファンタジーを持つことがある。Aさんが私の祝福を受け入れてくれるのであれば、Aさんとの関係性は全く違ったものになりかねない。
以上、純粋なる「ほめたい」願望を想定していろいろ論じた。これはおそらく基本として大多数の私たちが備えており、それが相互の発達を促進してきた可能性がある。というよりはそのような性質をある程度持ち合わせた個体が生き残ってきていると考えればいい。


以下に続く部分は、この様な前提のもとに、言わば各論としてのほめる、について論じることになる。