2017年5月31日水曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑦ 


3.臨床上の二つの問題意識

私は精神分析のトレーニングを通じて次第に二つの問題意識を持つようになった。一つは従来の精神分析理論においては、実際の患者がもっぱら意識レベルで何を望み、何を必要としているのかに注目するという発想が希薄であるということである。それらは患者が無意識レベルで欲していることに比べれば重要ではなく、その患者の無意識を一番知る立場にあるのは分析家自身であるという前提が背後にあるかのように感じた。
もちろん精神分析は患者の無意識レベルでの体験が持つ意味を探る営みであり、無意識概念の奥深さこそ私が精神分析に最も惹かれた理由でもあった。しかし患者の意識レベルでの体験を理解し、扱うことなしには先述の「出会い」も生じず、肝腎の治療同盟を築くことも出来ないことも明らかであった。また意識レベルでのかかわりを軽視して、無意識にもっぱら注目するという治療者の態度が、しばしば冷たく突き放した印象を与えるということも問題であるように思えた。そしてそのような治療的なかかわりを、果たして患者自身が望んでいるのだろうかという疑問を感じることも少なくなかったのである。
精神分析を受ける側の患者が分析理論を十分に理解し、それを受け入れている保証はない。しかし精神分析的なかかわりが、一般の人々にとってはかなり特殊なものであり、患者にもその特殊性を感じさせる性質のものである以上、その事情を患者自身に伝えておくことはやはり必要であろうと思えた。ところが私が精神分析のトレーニングを受けた当時は、米国でも治療の開始の際に患者からインフォームドコンセントを得るということは、「余計なバイアスを与える」という懸念からむしろ行われない傾向にあった。私はそのような患者に分析的な治療を当たり前のように応用することにはどこかフェアではないと感じたのである。
従来の精神分析には実際の患者が意識レベルで何を望み、何を必要としているのか、という視点が薄いという考えを特に強くしたのが、精神分析的な「禁欲原則」を遵守し、実践しようとした時であった。精神分析的なプロセスにおいても、精神科治療においても、患者の側からはさまざまな要求が直接間接に持ち込まれる。「禁欲原則」は、基本的にはそれを直接満たさず、それを解釈という形で返すという方針を促す。しかし改めてそれを徹底して遵守するように心がけても、それは決して容易でなく、医師としての倫理に照らしても望ましくないと思われることもあった。
たとえば患者の「先生は何も言ってくれませんね。」というコメントに関して、治療者がそれを沈黙で返したり、「私が何も言わないことで、様々な感情が湧くのでしょうね。」という類の解釈により応じたりすることは、おおむねこの「禁欲原則」にしたがったかかわりと言えるだろう。しかしそのコミュニケーションとしての不自然さも手伝って、患者に多くのストレスを生むような気がし、私自身も冷たくアンフェアな治療者という印象を与えることが懸念された。そして当然のことながら、私自身が教育分析の中で、治療者からその様な対応を受けたり、そのような態度を感じたりした際には、さらにそれを実感したのである。
精神分析のトレーニングの過程でもう一つ出会った問題意識は、治療者として患者の無意識を知るということのあまりの奥深さ、複雑さ、ないしははっきり言ってそれは不可能であるという認識であった。臨床場面で聞く患者の自由連想には、それこそ数限りない解釈が可能であるように思えた。そしてそのうちのいくつかを解釈の形で返した際の患者の反応も様々であった。そして一つの解釈の妥当性を検討しようとする間にも患者は次々と連想を続け、新しい姿を見せることがあった。治療はさしずめ患者と歩む地図のない旅のように感じられた。治療は大概は私の予想も、そしてスーパーバイザーの予想さえも裏切る形で進行し、私は分析のトレーニングを続けながら患者の無意識を言いあて、解釈出来るような能力を獲得しつつあるとはあまり思えなかったのである。

こうして私は治療に関して徐々に不可知論的になり、治療者の立場として行っている自分のかかわりも、相当にその場の思いつきに任せた恣意的なものであるのではないかという思いが強くなっていった。そしてその意味では治療者としての私の心に生じていることと患者のそれとはきわめて近いことも実感されたのである。