2017年5月19日金曜日

未収録論文 ⑬

こんなのもあったなあ。日の目を見るだろうか?
死生学としての森田療法

2014年 第31回日本森田療法学会 特別講演2.(森田療法学会雑誌 第25巻第1号、p.17~20)

1.はじめに ― 受容ということ
 私の発表の要旨を一言で表現するならば、精神療法はどのような種類のものであっても、そこに確固たる死生観が織り込まれているべきであろう、ということであり、この発表では森田療法に絡めて私なりの考えを論じてみたいと思います。最初に示したいのは、フロイトの次のような言葉です。
 私が楽観主義者であるということは、ありえないことです。(しかし私は悲観主義者でもありません。)悲観主義者と違うところは、悪とか、馬鹿げたこととか、無意味なこととかに対しても心の準備が出来ているという点です。なぜなら、私はこれらのものを最初から、この世の構成要素の中に数えいれているからです。断念の術さえ心得れば、人生も結構楽しいものです。(下線は引用者による)』(フロイト:ルー・アンドレアス・サロメ宛書簡、1919年7月30日付)
 このフロイトの最後の部分は、私が常々感じていることでもあります。それはあきらめ、断念ということの重要さです。私は人間としても臨床家としても老齢期に足を踏み入れていますが、この問題は年齢とともに重要さを増していると感じます。これは森田療法的にいえば、とらわれの概念に深く関係しているといえます。
 この諦め、諦念のテーマは、日常の臨床家としての体験にも深く関係しています。日常臨床の中で私たちが受け入れなくてはならないのは、患者が望むとおりによくなっていかないということでしょう。勿論時には改善を見せる人もいます。しかしたいがいの場合その改善には限界があり、多くの患者は残存する症状とともに生きていかざるを得ません。このことをどこかで受け入れない限り、患者はその苦しみを一生背負っていかなくてはなりません。また臨床家としても、患者がこちらの望みどおりに治ってくれるとは限らないということをどこかで受け入れる必要があります。
 もう一つ私たちが手放さなくてはならないのが、治療的な野心です。私は過去にある患者から次のようなメールをいただきました。
 「先生にはがっかりしました。先生は研究者向きかもしれませんが、患者の気持ちは分かっていないと思います。」
「先生は患者に目を合わせずに、コンピューターにばかり向かっているんですね。」「先生の物忘れのひどさにはあきれます。処方箋のミスも多いし。」
 もちろんこのようなメールや手紙はあまり頻繁にいただくわけではないために、私にとっては印象深いものとなっているわけですが、一部の患者にとって私がとんでもない精神科医であるということを、私が受け入れることが必要であるということをこのメールは物語っています。それはつらいことです。しかしその文面(もちろん個人情報保護のために必要な変更は加えてありますが)をこのような形で公にできるのは、実は私はこれらのメッセージにあまり深刻に動揺しているわけではないということだと思います。そしてそのような心境に少しでもなれるとしたら、私の精神分析のトレーニングがある程度関わっていることになります。
    (これ以降も延々と続くので、以下略)