2017年5月15日月曜日

未収録論文 ⑨

この論文など、完全に行き所を失っている。(後で調べたら、恥と自己愛トラウマに所収していた!)「秋葉原事件」についての論考の特集を組むから、書いてほしい、ということで、犯人の手記を読んだ考察を書いたものの、その書籍化の話は立ち消えになったという経緯がある。

「解」を読む  -診断的理解に向けて
(書き下ろし、としか言いようがない)

はじめに
 2008年6月8日、一人の男が秋葉原で17人もの罪のない人々を殺傷した悲惨でかつ恐ろしい事件。その犯人が発表した手記が本書「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。この小論では私は犯人でもあり筆者でもある男性をKTとだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか私は本稿で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。それゆえこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。だから彼の「解」を読んで感想を書く私達もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
      (これから延々と続くので省略)