2017年5月31日水曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑦ 


3.臨床上の二つの問題意識

私は精神分析のトレーニングを通じて次第に二つの問題意識を持つようになった。一つは従来の精神分析理論においては、実際の患者がもっぱら意識レベルで何を望み、何を必要としているのかに注目するという発想が希薄であるということである。それらは患者が無意識レベルで欲していることに比べれば重要ではなく、その患者の無意識を一番知る立場にあるのは分析家自身であるという前提が背後にあるかのように感じた。
もちろん精神分析は患者の無意識レベルでの体験が持つ意味を探る営みであり、無意識概念の奥深さこそ私が精神分析に最も惹かれた理由でもあった。しかし患者の意識レベルでの体験を理解し、扱うことなしには先述の「出会い」も生じず、肝腎の治療同盟を築くことも出来ないことも明らかであった。また意識レベルでのかかわりを軽視して、無意識にもっぱら注目するという治療者の態度が、しばしば冷たく突き放した印象を与えるということも問題であるように思えた。そしてそのような治療的なかかわりを、果たして患者自身が望んでいるのだろうかという疑問を感じることも少なくなかったのである。
精神分析を受ける側の患者が分析理論を十分に理解し、それを受け入れている保証はない。しかし精神分析的なかかわりが、一般の人々にとってはかなり特殊なものであり、患者にもその特殊性を感じさせる性質のものである以上、その事情を患者自身に伝えておくことはやはり必要であろうと思えた。ところが私が精神分析のトレーニングを受けた当時は、米国でも治療の開始の際に患者からインフォームドコンセントを得るということは、「余計なバイアスを与える」という懸念からむしろ行われない傾向にあった。私はそのような患者に分析的な治療を当たり前のように応用することにはどこかフェアではないと感じたのである。
従来の精神分析には実際の患者が意識レベルで何を望み、何を必要としているのか、という視点が薄いという考えを特に強くしたのが、精神分析的な「禁欲原則」を遵守し、実践しようとした時であった。精神分析的なプロセスにおいても、精神科治療においても、患者の側からはさまざまな要求が直接間接に持ち込まれる。「禁欲原則」は、基本的にはそれを直接満たさず、それを解釈という形で返すという方針を促す。しかし改めてそれを徹底して遵守するように心がけても、それは決して容易でなく、医師としての倫理に照らしても望ましくないと思われることもあった。
たとえば患者の「先生は何も言ってくれませんね。」というコメントに関して、治療者がそれを沈黙で返したり、「私が何も言わないことで、様々な感情が湧くのでしょうね。」という類の解釈により応じたりすることは、おおむねこの「禁欲原則」にしたがったかかわりと言えるだろう。しかしそのコミュニケーションとしての不自然さも手伝って、患者に多くのストレスを生むような気がし、私自身も冷たくアンフェアな治療者という印象を与えることが懸念された。そして当然のことながら、私自身が教育分析の中で、治療者からその様な対応を受けたり、そのような態度を感じたりした際には、さらにそれを実感したのである。
精神分析のトレーニングの過程でもう一つ出会った問題意識は、治療者として患者の無意識を知るということのあまりの奥深さ、複雑さ、ないしははっきり言ってそれは不可能であるという認識であった。臨床場面で聞く患者の自由連想には、それこそ数限りない解釈が可能であるように思えた。そしてそのうちのいくつかを解釈の形で返した際の患者の反応も様々であった。そして一つの解釈の妥当性を検討しようとする間にも患者は次々と連想を続け、新しい姿を見せることがあった。治療はさしずめ患者と歩む地図のない旅のように感じられた。治療は大概は私の予想も、そしてスーパーバイザーの予想さえも裏切る形で進行し、私は分析のトレーニングを続けながら患者の無意識を言いあて、解釈出来るような能力を獲得しつつあるとはあまり思えなかったのである。

こうして私は治療に関して徐々に不可知論的になり、治療者の立場として行っている自分のかかわりも、相当にその場の思いつきに任せた恣意的なものであるのではないかという思いが強くなっていった。そしてその意味では治療者としての私の心に生じていることと患者のそれとはきわめて近いことも実感されたのである。

2017年5月30日火曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑥


2.精神分析のトレーニング中に生じた疑問

私がその後に米国で受けたトレーニングに関しては、そのエッセンスのみ拾って論じたい。まず私はトレーニングの開始早々関係精神分析に出会ったわけではなかった。また当時その理論について聞かされていたとしても、その価値を理解はできなかったであろう。私が所属していた精神分析協会では、患者に対して自由連想を促し、受身性を守りつつ転移解釈を行うというかなりオーソドックスな治療文化が成立していたし、私もその影響を受けつつトレーニングを開始した。しかしそこでも日本での体験と類似した経験を持つことになった。精神分析の基本原則に従った治療に伴ういくつかの疑問が生じたのである。
私は分析協会のトレーニングの一環として、分析的精神療法のケースを何人か担当することとなった。その治療過程で、従来の精神分析的なやり方にしたがっても治療に進展が見られない場合、私は「基本原則を用いることに徹していないからだ」というアドバイスと、「基本原則を柔軟に用いていないのだ」というメッセージを別々のスーパーバイザーから与えられることがしばしばあった。私はこの矛盾を自分なりに解決する以外になかったが、それは多くの困難を伴うものだった。私は最初は「基本原則に徹するべし」という前者のアドバイスに従ったが、受身性や匿名性を徹底させることによる治療的な弊害がさらに増したと感じられることがあった。しかしだからといって「治療原則を適切に、柔軟に運用なかったからだ」という理屈もなかなか受け入れることは出来なかった。なぜならそうすることは精神分析の基本精神とは相容れないように思えたからである。
分析的な方法はそれを突き詰め、純化することでその価値を生むということは、そもそもフロイトの治療原則に含意されている。フロイト自身の用いた純粋な金(「解釈」による精神分析的な手法)と、混ざりものの銅の合金(「暗示」の混入した治療方針)の比喩(3)や徹底操作の概念などは、いずれも精神分析的治療の徹底が治療の成功への鍵であるということを前提としていたはずである。それに受身性や匿名性は、それを純粋に追求することで弊害があるとしたら、それは理論的に破綻しているのではないか、それでは分析的精神療法ですらなくなってしまうのではないか、というのが当時の私が何度もたどった考えの道筋であった。
さらに私は精神分析のトレーニングと平行して、精神科のレジデントとして精神医学の再教育を受けたが、そこでは精神分析とは異なる療法を学ぶこととなった。つまり薬物療法以外にも認知療法、行動療法、集団療法、家族療法、バイオフィードバック、電気ショック療法等の、様々な治療的アプローチの基礎を体験したのである。そしてそれぞれに歴史的な背景があり、治療理念があることを知った。このことは精神分析的な考え方をかなり相対化した形で捉えなおすという体験へとつながった。
私は精神科医として患者とかかわりをも持つなかで、私なりに治療者としてのアイデンティティを模索していったが、そこで手ごたえを感じたのは、患者との情緒を伴った人間的な出会いであった。そしてそれが生じる機会は精神療法の構造を保った上でのかかわりには決して限定されていなかったのである。それは薬物療法に関する短い面談においても、朝の病棟での回診時でも、病棟のロビーで雑談をしている際にも生じることがあった。それには私自身の内側から自発的に患者に向かって表現された何かが関係しており、精神分析的な基本原則はそれに反省を加えたり、制限を与えたりして二次的に形を整えるものでしかなかった。私はそれを従来の精神分析理論と照合しようと試みたが、支持的な療法の文脈で生じた「パラメーター的」な関わりという漠然とした位置づけしか得られなかった。



2017年5月29日月曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑤ 

(2)関係精神分析へと向かった個人的な背景

1.           留学前の体験

本章の後半は私が関係精神分析へと向かった個人的な経緯について述べたい。端的に言えば、私が精神分析理論を学び、自分なりに吸収する過程で関係精神分析は必然的に出会い、また必要としていた理論であった。ただしこの経緯については、これまでに新しい精神分析理論1,2においてかなり触れたことでもあるので、その概要を述べるだけにとどめたい。
私が20年以上も前に精神分析を本格的に学ぼうと考えたのは、精神分析が精神療法の中でも最も洗練されているものと認識していたからである。そしてそのために開始した精神療法のトレーニングは、関係精神分析とはかなり異なる立場を前提としたものであった。具体的には、当時開始されて間もなかった慶応の精神分析セミナーで主としてフロイトの治療原則や初期の対象関係理論について学び、その内容を理解することに努めた。また出身大学の精神科の勉強グループでフロイト著作集を抄読し、カール・メニンガー Karl Menningerの「精神分析技法論」(1958)を熟読した。私はそこに描かれている転移や退行の概念および受身性、匿名性、禁欲原則の基本原則を実に整合的で説得力があるものと感じた。もう20年以上も前の話であるから「時効」であろうが、メニンガーの「精神分析技法論」を手にした次の週には、精神科外来の診察台をカウチに見立てて、外来患者に自己流の「自由連想法」を試みたほどであった。 
私はその後正式なスーパービジョンのもとに精神療法のセッションを持ち始めたが、そこでは受身性を重んじ、私から語りかけることは極力控えることで、患者に出来るだけ自由な連想を促した。セッションには沈黙が流れ、多少なりとも居心地が悪かったが、それが自由連想法であると理解していた。時にはその沈黙に促されて患者が語り出すことで治療が展開し、新しい局面が開けたと感じたこともあった。ただし患者によっては私の非介入の方針に戸惑い、結局ドロップアウトしたり、逆に治療者の私に人間としてのコミュニケーションを求めてきたりする場合もあり、その際の対応に戸惑うことも少なくなかった。
ある患者との最終セッションに、その女性の患者が「先生と最後に記念写真を撮らせてください!」とカメラを取り出したことがあった。私がどのように「中立性」を示そうかと戸惑っているうちに、通りかかった看護師がシャッターを切った。後にもらった写真には、笑顔の患者さんの横にこわばった顔の私が映っていて、「これじゃどちらが患者かわからないね。」と同僚にからかわれたことを覚えている。この写真は、フロイトの原則に従った治療を続ける上で私が感じていた迷いや戸惑いを典型的に示していたといえる。それと同時に明らかなのは、その時の私は、治療原則をいかに守るかに気を取られ、私との最後のセッションの思い出を残そうとする患者の気持ちを顧慮する余裕をほとんど持てないでいたということである。
後から考えると、通常の精神科外来での精神療法においては支持的な要素が多く必要とされるという現実を考えれば、私のこの体験は無理もないことかもしれなかった。しかし私は自由連想法や中立性の維持に関して迷いが生じるのは、それが自己流のものでしかなく、自分が正式なトレーニングを経ていないためのものであると考えた。その程度の謙虚さは幸い持ち合わせていたことになる。ただし今から思えば、それならいかなる時に、どのような事情で支持療法が用いられるべきかについての、分析理論に基づいた理解も私の中では不十分であった。
その後私は米国で精神分析のトレーニングを積むことになったが、それは日本の多忙な精神科の臨床を続けながらそれ以上の精神分析の勉強を続けることに限界を感じたからであった。それは私にとっては自然な選択であったが、私が当時いろいろな意味で身軽であったことも大きく影響していた。留学を終えた後の予定は一切白紙であったため、最終的に自分の求めるのもが精神分析でなくてはならないという束縛すらも感じなかったことも後から振り返れば幸いなことであった。


2017年5月28日日曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」④ 

6.「精神分析理論の展開」以後の動向とミッチェルの独自性の強調

関係精神分析の運動を推し進め、大きな流れを形成する原動力となったのはなんと言ってもミッチェルであり、その動きの中で、関係精神分析と対象関係論との間に一線が画されて行ったと考えるべきであろう。
ミッチェルは「関係性の概念」を含む3冊の著作を次々と発表し(18,19,20)、アメリカ心理学会のディビジョン第39部門(division 39やニューヨーク大学のポスドクにおける関係精神分析にもとづくプログラムを作り、機関紙「精神分析的ダイアローグPsychoanalytic Dialogues」を作り上げた後に、あたかも生き急いでいたように2000年のクリスマスに急逝した。そしてその喪が明けるとともに、国際的組織IARPPThe International Association of Relational Psychoanalysis and Psychotherapy、関係精神分析と関係精神療法の国際協会)が形成された。つまり関係精神分析は国際学会として正式な形で産声を上げたのである。

他方「精神分析理論の展開」の共著者であるグリンバーグとは見解のずれが生じたようである。グリンバーグは「精神分析理論の展開」の後に単独で著した「Oedipus and Beyond (7) の中で、「精神分析理論の展開」でミッチェルと共に最初に批判したはずの欲動の概念を再び採用する考えを表明している。そして「果たして欲動という考えを持たずに人の心に関する理論が形成されるべきか」と逆に問い直し、「関係性論者は葛藤という概念について特に弱い」と、あたかも自らは部外者であるがごとき書き方をしている(P89)。

2017年5月27日土曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」③

5.関係精神分析の端緒-グリンバーグ, ミッチェルによる新しい提言

関係精神分析はいつから始まったのかという問いに対する答は単純ではないが、それを象徴するような、エポックメイキングともいえる出来事は確かにあった。それが1983年のグリンバーグとミッチェルによる「Object Relations  in Psychoanalytic Theory」(直訳すると「精神分析理論における対象関係だが、邦語訳名は「精神分析理論の展開」であり、以下この名前で呼ぶこととする))の出版である(Greenberg, Mitchell. 1983)。私がメニンガー・クリニックMenninger Clinic に留学した当時、特徴のある焦げ茶色のカバーの分厚い本がどのスタッフのオフィスの本棚にも見られたのを思い出す。それほどアメリカの精神分析ではこの本が熱狂を持って迎えられたのだ。(他方ではわが国における「精神分析理論の展開」の人気は芳しくない。この翻訳書が現在絶版となっていることが何よりその証拠と言えるだろう。)
「精神分析理論の展開」はフロイトにはじまり、クラインやフェアバーンに引き継がれていった精神分析の流れを網羅的に概説し、その中で対象関係論的な流れが生まれ、発展した経緯について網羅的に解説した労作である。すでに述べたが、その中で彼らが定式化した欲動・構造モデルと、関係・構造モデルの「関係」という用語が、その後の関係精神分析へと発展することになった。メニンガーのようなどちらかといえば保守的な色彩の強いクリニックでも本書が広く読まれたということは、サリバン派を精神分析理論として認知し、対象関係論に含めるという考えがさほど抵抗なく受け入れられる土壌が出来上がっていたことになろう。

さて関係精神分析の始まりを「精神分析理論の展開」から見出そうとしても、一種の肩透かしを食らうことになる。それは二つの意味においてである。一つは、関係精神分析という言葉はこの書にはまだ出てこないからだ。この本では依然として対象関係理論のことを論じている。そもそも「精神分析理論の展開」の原題は、「精神分析理論における対象関係Object relations in Psychoanalytic Theory」であることに注意したい。そう、この本は形の上では対象関係理論の本だったのだ。ただ関係を重んじる立場としてフェアバーンとサリバンにそのエッセンスを見出したことの意味は大きい。それにより対象関係理論の本流とも言うべきフェアバーンの理論に、在野のサリバンの自然さや自由さが自然と合流した形でその理論に新規さや発展性が生まれたのである。そして著者の二人がおそらく持ち続けていたであろう願望、すなわちサリバン派をアメリカの精神分析の本流につなげたいと言う希望もおそらくこれによりかなえられたことになる。明らかに二人の作戦勝ちである。

2017年5月26日金曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」②

 
3.古典理論から関係精神分析への橋渡しとしての対象関係論

関係精神分析がフロイトの欲論的な考えに対するアンチテーゼとして出発した経緯については既に触れたが、同様の主張をいち早く行ったのは英国に端を発した対象関係論であった。フロイトは基本的には理科系の人間であり、人間の精神を機械論的ないしは本能論的な視点から捉え、対象とのかかわりも結局はリビドーの満足を目指したものであるとみなす傾向があった。彼は何よりも科学者として、精神分析を一つの学問体系に仕上げることに懸命であった。その場合必然的に治療とは一種の実験的な色彩を伴い、患者はその実験の対象であった。もちろんフロイトはヒューマニスティックな側面も併せ持ち、それを人類の発展に役立てたいとは思っていたが、そこに情緒的にかかわるという志向性は薄かった。そして彼にとって治療とは患者の欲動の処理に伴う病理に対処するものとされ、その意味で典型的な一者心理学といえた。
英国においてイアン・サティIan Suttie やメラニー・クラインMelanie Klein, ロナルド・フェアバーンRonald Fairbairn らにより始まった英国対象関係論の中心的な視点は、「対象にかかわろうとする主体の欲求が中心的立場を占める」(24)ことであり、その点でフロイトのこの欲動論的な立場と一線を画しものであった。
ただしそれとは別に、フロイト自身の理論形成の中に対象関係論的な視点が芽生えていたことは、フロイトの理論をわが国に導入することに貢献した小此木啓吾が繰り返して強調していた。フロイトのその側面はメラニー・クラインに受け継がれ、フェアバーンやガントリップ等に多大な影響を与えたのであった(23)。小此木によれば、フロイトの精神分析的な認識の根源は「心的現実性」であり、それに基づいた超自我形成論こそ、フロイトにおける対象関係論の出発点であった。例えばエディプス・コンプレックスをめぐって生じる心的機序を考えれば、父母への同一化と、それにより内在化された父母像が超自我となると説明された。さらには超自我の過酷さも、子供が持つ内的な破壊性(死の本能)の投影されたものであるとする。そして「悲哀とメランコリー」(2)に見られる内的対象の議論もまた対象関係論の萌芽となった。
このようにクラインの理論が実はフロイト自身の対象関係理論に大きく触発されたものであり、そのフロイトが心的現実を非常に重んじた以上、それは結局は対象関係論自身を大きく規定ないし限定するものでもあったといえるのだ。つまりはフロイトに対するアンチテーゼを唱えたはずの対象関係論も、ある意味ではフロイト理論の特定の側面と同根であり、そこで重んじられたのは内的世界および内的対象の概念ではあっても、現実の対象ではなかったのである。この点が、対象関係論が同じリビドー論に対するアンチテーゼとして始まった対人関係論と典型的に異なっていたのである。

4.サリバンと対人関係学派

先に述べたグリンバーグ ミッチェルは対人関係学派の拠点ともいえるニューヨークのホワイト研究所(William Alanson White Institute)の出身である。関係精神分析が生まれる切っ掛けとなった「精神分析理論の展開」が、彼らがホワイト研究所で用いていた教材から生まれたという経緯を考えると、関係精神分析の萌芽は対人関係学派にあり、その源流はハリー・スタック・サリバン Harry Stuck Sullivan その人にあったとも言えよう。
サリバンは米国で統合失調症との治療的なかかわりを通して独自の理論や治療観を生みだす一方では、当時のドイツ精神医学のクレペリンKraepelinに見られる理論的、科学主義的な姿勢を批判した。サリバンはフロイトからも大きな影響を受けたが、同時にその中にクレペリンに見られる科学主義を感じ取り、それに対する疑義を持っていたことが伺える。
後に関係精神分析に継承される形で再評価されることとなったサリバン派の理論が、アメリカの精神分析では長い間亜流に位置づけられていたこととは特筆に値する。サリバン派は在野にあるものにのみ許される理論的な自由度や独自の主張を獲得していたのである。サリバンは正式な精神分析のトレーングを経ることなく、それだけその伝統に縛られることも少なかった。そして不安を基にした独自の精神病理を考え出すとともに、現実の患者との生きたかかわりを強調し、「関与しながらの観察participant observation」という言葉を残した(26)。彼が主として扱った患者が統合失調症の患者であったことも、その理論形成や治療観に深い影響を及ぼしていたと考えられる。
前述のようにフロイトから対象関係論者にいたる内的現実の重視の傾向が、精神分析の基本的な視点であるならば、サリバンは現実の患者との関わりを何より重んじていたという意味で、いわば精神分析のもっとも重要な部分を換骨奪胎しており、その意味では伝統的な精神分析の立場からの距離は明らかであった。
サリバンに代表される対人関係学派が対象関係理論とどう違ったかについて、エドガー・レベンソンEdgar Levensonは次のように表現している。「違いは見掛けの背後に現実を見るか、見かけに現実を見るかの違いである、という。これも決定的に重要なのだ(12)」。つまり背後に物事の本質を見るか、現実のかかわりそのものに本質を見るかという点で、サリバン派の姿勢は対象関係論を含めたフロイト理論とは明らかに一線を画していたのである。

それにもかかわらずサリバン自身はクララ・トンプソンClara Thompsonを通じて精神分析理論から学ぼうとする姿勢を保ち、精神分析学会との関係をむしろ望んだとされる。彼らは実に9年間ほど、彼らのホワイト研究所における研修がアメリカ精神分析協会に認可されるべくアプローチを続けたというが、結局受け入れられなかったと言われる(28)

2017年5月25日木曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」①

今後しばらくは、「新しい精神分析Ⅲ」に向けた衣替えした文章である。

 いまや関係精神分析は、米国における現代の精神分析の様々な流れの総称といってもいい。そこにはコフート理論、間主観性の理論、乳幼児精神医学、外傷および解離性の理論など、古典的な分析理論に対して相対主義的な立場を取るあらゆる動きが学派を超えて集結し、さらなる広がりを見せているという印象を受ける。私は関係精神分析こそが、精神分析の将来を担う、あるいはその希望を託すことが出来る流れだと考えている。
 関係精神分析は1983年に、ある著書により産声を上げた。ジェイ・グリンバーグJay Greenbergとスティーブン・ミッチェルStephen Mitchellによる著書「Object Relations in Psychoanalytic Theory(精神分析における対象関係理論)」(6)(邦訳題「精神分析理論の展開」)である。彼らはその本により、対象関係論と対人関係理論の共通項としての関係性という考え方を用いたのである(4)。
 それが対象関係論とも対人関係論とも異なる関係精神分析 relational psychoanalysis として独自のメッセージを帯びて発展していった背後には、その著者の一人であるミッチェルという希代の精神分析家のカリスマ性と人間性、そして強力なリーダーシップがあった。従来精神分析の学派の多くは、それぞれ一人の偉大なリーダーシップと共に発展してきた。クライン学派、ユング派、ラカン派、サリバン派等はその例である。関係精神分析はミッチェルの名前を冠してはいないが、いわばミッチェルが育て上げた学派というニュアンスすらあったのである。ミッチェルは2000年12月に不幸にも急死したが、その遺志は明確な形で現在も受け継がれている。

2.そもそも関係精神分析とは何か?

 関係精神分析の本質は、臨床場面で患者と治療者の間に生じる体験のリアリティを追求することにある。それはひとことで言えば同理論が強調する治療者と患者の二者性、ないしは二方向性である。治療関係において生じるのは、結局は二人の人間の間のやり取りである。当然のことながらお互いがお互いに影響を及ぼし合うのだ。それを前提として精神分析の理論を組み立てるという立場である。フロイトの示した古典的な精神分析モデルは、治療者は患者の自由連想に耳を傾け、その無意識的な欲動を解釈することを治療の本質として捉えていた。それは観察するものとされるもの、知るものと知らざる者、治すものと直されるものと一方向性を確かに有していた。しかし実際には治療者は客観的な観察者にとどまることはできない。その言動や振舞いは患者の自由連想に反映され、またその連想内容は翻って治療者に影響を与える。関係精神分析において強調される二者性は、治療者と患者は各瞬間に影響を及ぼしあっているという現実を指し示しているのである。
 関係精神分析の事実上の創始者であるグリンバーグとミッチェルは、このような自分たちの立場を、まずはフロイト的な欲動論的立場に対するアンチテーゼとして位置づけた。しかし同様の主張は米国において1970年代より複数の分析家によりなされている。それが古典的な視点に立ったいわゆる一者心理学one person psychologyとは異なる、二者心理学two person psychology(5)の立場である。精神分析を患者との相互的なかかわりの中で創造される過程として捉える関係精神分析は、その理論的な系譜としては、いわばこの二者心理学の発展形と言える。
 そしてこのような関係精神分析の立場はまた、いわゆる社会構築主義のそれとも多くの点で重なり、現代的な人間の知のパラダイムの展開、とりわけポストモダニズムの影響を大きく受けている。しかし関係精神分析は単に一つの理論的な立場には留まらない。その人間観や背後に流れるヒューマニズムにこそ大きな特徴がある。以下に述べるとおり、それは患者の立場の重視、ひいては人間性の尊重という姿勢に貫かれているのだ。
 ところがわが国の現状においては、臨床家の間で、関係精神分析に対する賛同の声や反論が聞かれる以前に、そもそもその存在が十分に認識されていない。米国を含む諸外国ではかなり存在感を増していることとは非常に対照的であるし、また非常に残念なことと言わなければならない。精神分析療法を実践する上で最も生産的なのは、治療技法を超えた治療者と患者との出会いの体験であり、関係精神分析はそれに理論的な根拠を与えてくれるからである。

2017年5月24日水曜日

未収録論文 ⑱

この論文が掲載された「土居健郎先生追悼集」、アマゾンでも売っていない。非売品らしい。

土居先生お世話になりました
(土居健郎先生追悼集 (2010年)に所収)
 私はこのような文を書かせていただく資格はあまりないように思う。土居先生を恩師と呼べるような直接のご指導を受けてはいなかったからだ。ただ一方的なお願いごとをしてお世話をいただいたという意識だけがある。
 私が医学生のころから、土居先生はすでに著名で近寄りがたい存在だったが、所属する医学部の精神科の教授ということだけで、こんな葉書を差し上げたことがある。「私は医学部の二年目ですが、精神科に進もうかと考えています。今読むべき本を教えてください。」土居先生は一面識もない医学生にもお返事をくださった。「今はいい文学書にでも親しんでおいでなさい。」いかにも土居先生らしいシンプルな答えであったが、私にはその真価が十分にわからなかった。
 それからほどなくして土居先生の退官記念講演があった。私にとっては先生の講義を聞く唯一の機会だったため、勇んで講堂に現れた私は、入り口で三人のクラスメートにたちまちつかまってしまった。精神科への志望をすでに明確に持っていながら、その道の大家の講義を聞かずに、赤門近くで「四人による遊戯」で時間を過ごしてしまうことにはさすがに後ろめたさを覚えた。
 後に精神科医になった私は、またご迷惑をおかけした。いきなり原稿用紙500枚の論文を読んでほしいと持ち込んだのである。臨床を初めて二年目の夏に、私はそれまでの一年間の臨床を通して膨らんでいたさまざまな着想を原稿用紙に書き綴った。自分の考えにうまく形を与えられずに悪戦苦闘したが、秋ごろには一抱えもある原稿用紙の束になった。最後は「人の行動が快楽やその予期によりいかに決定付けられるか」というようなテーマにまとまったのだが、あちこちに修正の入った手書き原稿、引用文献なし、というとんでもない代物だった。しかし私は書いている間中、その真価をわかってくれるのは土居先生しかいないと一方的に思い込んでいた。そして書きあげるや否や先生に面会を申込み、当時の先生の勤務先の国府台の国立精神衛生研究所に先生をお訪ねして原稿を手渡した。先生はあきれた表情で、「君の意気込みはよくわかった。だがとても全部読む気になれないよ。十分の一の長さにしなさい。」といわれた。私が一月ほどかかって要点のみを拾ったダイジェスト版をまとめると、それを読んでいただいた後に、先生は今度も実にあっさりとおっしゃった。「僕は君の言うことには反対だな。」そして「人は快楽以外に対しても動くものだよ。まあ、あせらずにやりなさい。」と諭していただいた。

    (以下、それほど長くないが略)

2017年5月23日火曜日

未収録論文 ⑰

自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用

最新精神医学 17 巻 6 号 2012 年に所収

 この「自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用」というテーマは、逆説的な意味を持っていることをはじめに述べておきたい。というのもコフートの提唱した精神分析理論やそれに基づく臨床は、無意識内容の追及を目標とする古典的な精神分析理論とはかなり趣を異にしているからだ。コフートは無意識の概念を直接に批判したわけではないが、その概念にあまり触れることなく、むしろ自己と他者との関係性にその関心を向けたのである。そしてそれがある意味では、彼独自の無意識概念の扱い方であったというのがこの小論の骨子である。

 「内省・共感」は無意識に向けられるのか?

 コフートが1971年に「自己の分析」(Kohut, 1971) により、独自の精神分析理論を打ち出した時、その理論的な構成が従来の精神分析とは大きく異なることは明白であった。特に自我ego に代わる自己 self の概念や、共感の概念は極めて革新的といえた。コフートはそれを従来の精神分析に対する補足であるとしたが、当時の精神分析界からはそのような受け止められ方をされなかったのも無理はなかったのである。 
 コフート理論の実質的なデビューは「自己の分析」に10年以上先立つ1959年の論文であった。「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,1959)というその論文は、その後に展開する基本的な概念のいくつかを旗幟鮮明な形で打ち出している。それは「ミスター・サイコアナリシス」とまで呼ばれていたコフートが打ち出したまったく新しい路線だったのである。そこでこの論文をもとに、コフートにとっての無意識の概念について探ってみよう。

2017年5月22日月曜日

未収録論文 ⑯

いつか分析協会で発表した内容。これはちょっと収録できないな・・・。精神分析が週4回行われることに対する治療者の側の思い入れがとても気になっていたときに書いた論文である。

「分析状況」に関する一考察

1.はじめに

 精神分析状況とは不思議なものである。週に4セッションないし5セッションというプロセスがいったん開始すると、たまたま休みが重なって次回のセッションまで一週間ほど空いただけで、患者はすでにそこに物足りなさを感じるようになる。通常は週一度のセッションでもかなり高頻度であると感じられることもあるのに、どうしてそのようなことが起きるのであろうか。それは週4回という頻度が醸す一定のリズムや雰囲気や、それにより作り出される一種の心的な距離の近さ、ないしは親密さのせいであろう。患者は次回まであいた一週間という時間的な距離を、心的な距離の遠さと感じ、そこからくる物足りなさや寂しさを訴えているようでもある。そしてそれは治療者である報告者の心の中にも、わずかではあるが、ある種の寂しさを生むのである。
 週に4回ないし5回という設定の精神分析的な状況が、ある意味で特殊な人間関係を生むこと、そしてそれが場合によっては退行促進的であるということはこれまでも論じられてきた。そしてそれが一方では非常に洞察的で非・支持的な治療形態とされる精神分析療法にある種のパラドクスを与えていることも確かであろう。
        (以下略)


今回報告者が描く治療関係は、かつて週一度の精神療法を行ったケースである。それが週に頻回会うという治療構造を新たに設定してそれが開始されることで、そこにさまざまな変化が生じた。その中でも特に問題として浮かび上がったのが、この親密さの問題である。それに関して報告者が持ったいくつかの体験やそれに関する考察について触れたい。

2017年5月21日日曜日

未収録論文 ⑮

短いコラムだ。あまり使い道はなさそうである。

コラム 解離性障害なのか,統合失調症なのか?
《第25巻増刊号:今日の精神科治療ガイドライン》2010年 星和書店所収

 従来の精神医学では、統合失調症との鑑別診断として解離性障害が問題とされることは決して多いとはいえなかった。しかし解離性障害についての理解や認識が進むにつれ、多くの同障害の症例が統合失調症の名の下に治療を受け、有効とはいえない抗精神病薬を投与されているようなケースにも関心が向けられるようになってきている。

 解離性障害でも幻覚体験が起きることが精神科医に広く認識されるようになったのは比較的最近のことである。すでに何年も前に基礎的なトレーニングを終えた大部分の精神科医にとっては、「幻聴と言えば統合失調症」は常識の部類に属するであろう。すると患者が「誰もいないのに声が聞こえます」と報告しただけで、精神科医が「この人は統合失調症だ」と判断し、その後は急性期の治療としてさっそく抗精神病薬の処方がなされてしまうというわけである。
 統合失調症は、以前精神分裂病と呼ばれていた頃は、精神科の病気の中でもとりわけ重篤であるというニュアンスがあった。それが統合失調症という名前に変わったことで、軽症例もあり治療可能な病気という印象を与えるようになっている。しかしそれでも統合失調症は年の単位で学業や仕事を離れて治療に専念することを余儀なくされ、しかも社会復帰が極めて難しい深刻な障害であることにかわりはない。
 そのような深刻な疾患である統合失調症が、基本的には神経症圏に属するものとして理解される解離性障害とどうして間違われやすいのだろうか?ひとつには両方の障害において患者は非日常的でにわかには信じがたい体験を語るという点が共通している。そしてもうひとつは、両方とも幻覚症状が頻繁に見られることである。幻覚とは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などを含むさまざまな感覚の異常体験であり、このうち幻聴に関しては解離でも統合失調症でも非常にしばしば体験される。ただし実際には解離による幻聴と統合失調症によるそれとでは、かなり性質が異なるものである。
 解離性障害の場合は、幻聴を日常生活の一部として受け入れていることも少なくない。物心ついた時からすでに幻聴が聞こえている場合には特にその傾向が強い。他方統合失調症の方は、発症の数ヶ月前から徐々に幻聴が聞こえ始めたり、場合によってはある日突然声が聞こえ始めたりすることが普通であり、またその声により日常生活もままならないほど苦痛や怯えを感じていることが多い。
 以上両障害の幻聴の質の違いについて述べたが、無論あくまでも統合失調症の診断の決め手は、むしろ陰性症状の存在であるという点は強調しておくべきであろう。
 以下に解離性障害と統合失調症の幻聴の比較を表(略)に示す。

2017年5月20日土曜日

未収録論文 ⑭

これも未収録だった…
失敗学から見た怒りの精神病理
(こころの科学 特集「怒りと衝動の心理学」2011年5月号)
(前略)  

2.社会現象としての怒りの暴発をどう捉えるか?-失敗学に基づくモデル
 これまでは日常レベルでの怒りの表出について、健全なものと病的なものの双方について論じた。そして怒りは攻撃が抑制された際に体験されるものであるという理解や、攻撃性の主要部分は自己愛の傷つきの結果として生じるという私自身の見解を示した。
 この論文の後半で論じたいのは、非日常的で事件性のある怒りの表出をどのように理解すべきるか、ということである。一般大衆に強い衝撃を与え、マスコミをにぎわし、精神医学や心理学や社会学の専門家が意見を求められるのが、この種の怒りである。しかし私の見解では専門家たちの多くは事件性の怒りについて適切な説明やコメントをするに至ってはいない。そこで私の立場からこのテーマについての見解を示したいが、その際に私が援用するのが「失敗学」に基づくモデルである。怒りのテーマに失敗学を持ち出すことには、少し唐突感を否めないかもしれないが、以下に順を追って説明したい。
 私たちは残虐で凶悪な事件が起きた際に、ニュースなどでいつも決まって次のような論評をきく。
「いったいこのような悲惨な事件がどうして繰り返されるのでしょうか? 私たちは何としてもその原因を突き止め、二度とこのような事件が起きないようにしなくてはなりませ
ん。」
 そしてメディアは学識者たちのコメントを集め、警察に真相の究明を迫る。無論それはメディアの受け手である一般大衆が望むものでもある。大衆が知りたいのは、その種の事件が起きた明白でわかりやすい理由である。 もちろん凄惨な事件の犠牲者や、驚きと憤りと恐怖感に圧倒されている人々にとっては、事件の背景を知り、それを今後いかに回避すべきかという点へと関心が向かうのは当然とも言えるだろう。
 しかし私は上に示したような論評に接するたびに、ある種の違和感を持ち続けてきた。それは人間の行動には理由や原因があり、それを明らかにすることで将来の行動を予想できるという安易な因果論的考えであり、それが残虐な怒りの表出についての理解をも阻んでいる可能性があるのだ。
(以降略)

2017年5月19日金曜日

未収録論文 ⑬

こんなのもあったなあ。日の目を見るだろうか?
死生学としての森田療法

2014年 第31回日本森田療法学会 特別講演2.(森田療法学会雑誌 第25巻第1号、p.17~20)

1.はじめに ― 受容ということ
 私の発表の要旨を一言で表現するならば、精神療法はどのような種類のものであっても、そこに確固たる死生観が織り込まれているべきであろう、ということであり、この発表では森田療法に絡めて私なりの考えを論じてみたいと思います。最初に示したいのは、フロイトの次のような言葉です。
 私が楽観主義者であるということは、ありえないことです。(しかし私は悲観主義者でもありません。)悲観主義者と違うところは、悪とか、馬鹿げたこととか、無意味なこととかに対しても心の準備が出来ているという点です。なぜなら、私はこれらのものを最初から、この世の構成要素の中に数えいれているからです。断念の術さえ心得れば、人生も結構楽しいものです。(下線は引用者による)』(フロイト:ルー・アンドレアス・サロメ宛書簡、1919年7月30日付)
 このフロイトの最後の部分は、私が常々感じていることでもあります。それはあきらめ、断念ということの重要さです。私は人間としても臨床家としても老齢期に足を踏み入れていますが、この問題は年齢とともに重要さを増していると感じます。これは森田療法的にいえば、とらわれの概念に深く関係しているといえます。
 この諦め、諦念のテーマは、日常の臨床家としての体験にも深く関係しています。日常臨床の中で私たちが受け入れなくてはならないのは、患者が望むとおりによくなっていかないということでしょう。勿論時には改善を見せる人もいます。しかしたいがいの場合その改善には限界があり、多くの患者は残存する症状とともに生きていかざるを得ません。このことをどこかで受け入れない限り、患者はその苦しみを一生背負っていかなくてはなりません。また臨床家としても、患者がこちらの望みどおりに治ってくれるとは限らないということをどこかで受け入れる必要があります。
 もう一つ私たちが手放さなくてはならないのが、治療的な野心です。私は過去にある患者から次のようなメールをいただきました。
 「先生にはがっかりしました。先生は研究者向きかもしれませんが、患者の気持ちは分かっていないと思います。」
「先生は患者に目を合わせずに、コンピューターにばかり向かっているんですね。」「先生の物忘れのひどさにはあきれます。処方箋のミスも多いし。」
 もちろんこのようなメールや手紙はあまり頻繁にいただくわけではないために、私にとっては印象深いものとなっているわけですが、一部の患者にとって私がとんでもない精神科医であるということを、私が受け入れることが必要であるということをこのメールは物語っています。それはつらいことです。しかしその文面(もちろん個人情報保護のために必要な変更は加えてありますが)をこのような形で公にできるのは、実は私はこれらのメッセージにあまり深刻に動揺しているわけではないということだと思います。そしてそのような心境に少しでもなれるとしたら、私の精神分析のトレーニングがある程度関わっていることになります。
    (これ以降も延々と続くので、以下略)

2017年5月18日木曜日

未収録論文 ⑫

この論文、以前このブログに登場し、「こんなの書いたなあ」と書いていることが分かった。まだどこにも再録されていないなあ。「精神分析研究 2008年」のどこかの号に掲載された。

転移解釈の意味するもの ―自我心理学の立場から

抄録
 精神分析において転移の概念は極めて重要な意味を担うが、転移解釈のみを本質的な治癒機序と捉える姿勢は過去のものになりつつある。かつて自我心理学のリーダーであったMerton Gill は後に関係論へと立場を推移させたが、その関係論においても転移が治療場面における治療関係にとって持つ意味は極めて重視される。そこでは転移の解釈がいかなる時に治療的に用いられ、いかなる場合に侵入的となるかについての治療者の柔軟な判断が要求されるのである。転移・逆転移は治療状況において常に生じているが、それを解釈したり操作したりする治療者の力にも限界がある。治療者は移り変わる転移状況を感じ取り、患者と共に身をゆだねることで、すでにその役割の重要な部分を果たしているのである。
     (長い論文だから、抄録だけだ!)

2017年5月17日水曜日

未収録論文 ⑪


解釈―共同注視の延長として

2015年6月12日(東京) 精神分析協会東京大会にて発表


1.技法の概要

 解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義されます。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えます。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらあります(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考えます。一つにはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことです。そしてもう一つは解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素とは、明確に区別されるものという意義があります。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられます(Safran, 2009) 。 ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるでしょう。
  (この後も延々と続くので、きりがないので省略)

2017年5月16日火曜日

未収力論文 ⑩

オマージュなどと言いながら、土居先生への不満を述べてしまった文章である。

土居健郎先生へのオマージュ-「斬る名人」としての土居先生
            
(精神分析研究54(2010年)所収)
 土居健郎先生は私にとって恩師であり、様々な意味でお世話になった方である。先生に対する感謝の気持は別の企画による追悼文集(1)に寄せた一文にしたためた。再び先生について書く機会をいただいた本稿では、私が個人的に知ることの出来た土居先生の人となりについて少し書いてみたい。
 土居先生のことを思い浮かべると、その優しさと同時に、あの独特の厳しさも蘇ってくる。土居先生は筆まめで、面識すらない一介の医学生だった私の、手紙による他愛のない質問にも、ていねいにお返事を下すった。弟子や後学者に常に声をかけ、アドバイスをくださるという優しさを示してくれたのである。
 しかしそれとは別に、議論の時の先生の舌鋒は鋭かった。特に公開の場での土居先生は歯に衣着せぬところがあった。適切なたとえではないかもしれないが、切れ味の鋭い刀で相手をスパッと斬るような感じであったと思う。分析で言うならば、極めて父親的な面を持った先生であった。それは先生の持つあまり日本人的ではないイメージとも重なる。そのような時の彼の立ち居振る舞いには、周囲への過剰な配慮や気遣いは、あまり感じられなかった。ものごとの判断や行動が素早く潔く、そのスタンスは非常に個人主義的であった。彼の英語がとても堪能だったことも、何か偶然ではない気がする。
 こんな話を聞いたことがある。土居先生が確か1980年代に米国のメニンガー・クリニックで講演をなさった時のことである。メニンガーといえば、アメリカでの有数な精神病院であり、かつて多くの日本人の精神科医が留学したという歴史がある。先生はその先駆者で、1950年にメニンガーに留学しておられたが、ご家族の病気という事情のために2年ほどで帰国された。それからかなり経ってメニンガーで講演をなさったわけだが、先生は50年代と比べて感じるアメリカ人の変化や堕落について語ったという。そして集まった聴衆を前にして、著しく肥満している人の数が増えていることを例にあげた。すると聴衆の中で名指しされたと感じた一部の人々が憤然として席を立ち、会場を去っていったということである。おそらく先生は平然とそれを見送られたことだろう。いかにも「斬る名人」土居先生らしいエピソードである。
 実際に土居先生に公の場で厳しい指導を受けた諸先輩方も多かったらしい。精神科医として駆け出しの頃、私は複数の先輩から次のような話を聞いた。土居先生は時々学会などで衆目の前で、発表者に容赦無い厳しい指導をなさる。当然言われた方は落胆して恥じ入る。しかし土居先生は精神的なフォローを忘れない。その発表が終わった後、傷心の発表者にそっと近づき、優しい言葉で力づけてくれる、というのである。それが土居先生の後輩への配慮の仕方であるとのことだった。この時は他人事のように聞いていたが、自分自身が同様の体験を持つことになるとは思わなかった。
 それから20年近くも経ったある学会でのことである。私は指定討論演題という部門で発表する機会を持った。その指定討論を引き受けてくれたのは、学会の顔ともいえるA先生であった。そして私の発表の後、A先生は最初はやんわりと、そして途中から真っ向から私の論点を否定する発言を行なった。私は学会の大御所からの厳しい意見に背筋が凍る思いであった。そのセッションの司会を勤められたB先生は議論に少しバランスを取り戻そうと、私の主張の一部について代弁をなさったのだが、そのとき土居先生がおもむろに手を挙げて、非常に短いコメントをおっしゃった。
 「いまここでディスカッションを聞いていたが ・・・・・ 僕はやはりAクンの方が正しいと思うね。」
 私は今でもそのときの感覚が忘れられない。A先生の厳しい討論内容のあとだったので、二人に左右袈裟斬りされた、という感じであった。特に大衆の面前での、しかも偉大な土居先生からの駄目出しである。反論する気力など出ようはずがない。それにこのような時は気が動転してしまい「何を指摘されたか」という一番重要な点に頭が回らないものである。
 そしてその日の昼食時に、私に近づいてこられた土居先生は、おっしゃった。「さっきは君の立場を支持できなくて悪かったね・・・・。」「僕は物事に白黒つけてしまうような議論には反対するんだよ。」私はこの時は先生の言葉の意味を十分に受け取る余裕もなく、ただひたすら恐縮したものだが、少し後になってから、このことにだけは思い至ったのである。「あの先輩達の話とあまりにも似ている・・・・。私もとうとう土居先生からの洗礼を受けたのだ」。
 私が土居先生を「斬る名人」と表現することで、誤解を生まないよう気をつけなければならない。相手を叱ったり教え導く目的で厳しい言葉を掛けるということは、現代社会に生きる私たちにとってかなり難しいことといえる。私たちは相手にたいして異なるメッセージを発する時、しばしばそれが相手を傷つけることを懸念し、また報復をされてしまうことを恐れる。昨今では逆にパワハラと言われかねないこともあり、いかに相手の感情を損ねないかばかりを考えてしまい、伝えたいメッセージのインパクトは薄くなる傾向にある。
 ところが土居先生は厳しい指導や指摘が必要な際に、結果を案じることでその機会を失うことは潔しとしなかったところがある。そしてその効果はいつも見事だった。実際にそのような土居先生の一言を必要としている人たちもいたのだろう。私たちは先達から言葉により斬られることでそのメッセージを受け取ると同時に身を引き締め、居住まいを正すことがある。その瞬間は辛いが、あとから振り返れば重要な体験だったりするのだ。一昔の我が国では、それはむしろどこでも見られる光景だったのかも知れない。
 しかしそれにしても、その土居先生の思考が常に立ち戻るテーマが「甘え」であったという事実とどう繋がるのだろうか?「甘え」は許しやいわたりに繋がるであろうし、それは「斬ること」により相手を否定することの反対に位置するかのようである。ちょうど去勢を迫ってくる父親と、優しく包み込む母親の機能を先生は同時にお持ちだったことになる。私はしばしばこのことを考えるが、いまだに納得のいく考えには至っていない。しかし以下のことだけは言えるように思う。
 土居先生は心に対する尽くせぬ興味をお持ちであった。人間への優れた観察眼を持っていた夏目漱石の作品に対する先生の限りない敬愛にそれは表れている。そればかりか先生は直接人に関わりを持つこともお好きだった。晩年の先生はたくさんのお弟子さんと優しいご家族に囲まれてさぞお幸せだったのではないか。少なくとも傍目にはそう見えた。先生一流の斬れ味の鋭い指摘や批判のせいでお弟子がさんたちが去ってしまったという話も私は聞いたことがない。それは先生の手厳しい言葉が憎しみや攻撃性とは程遠かったからであろう。
 先生が若くして得られた地位や威厳も加わり、言葉による切断は、後学者を指導するために重要な手段となると同時に、先生一流のメッセージの伝え方へと磨きがかけられたのである。先生により斬られる理由がたとえその時は不明であったとしても、そこには生きた触れ合いが生じているのであり、そのようなやりとりは簡単には忘れないものなのだ。私自身にもあの学会のことはほとんど土居先生とセットになって懐かしく思い起こされるのである。
 この短い文章で私が土居先生について言いたかったのは次のとおりである。斬る名人としての先生の根底にあるのは、指導することへの熱意であり、人間愛であり、甘え、甘えられの関係を含む人とのかかわりへの希求であった。土居先生は自分が「斬る」ことによる指導や主張の威力を十分に分かっておられたであろうし、それだからこそ多くの先輩方が、そこに土居先生の愛情や人間味を感じ、彼の死を悼みに集ったのだと思う。斬れ味の鋭い先生の言葉は、甘え、甘えられの人間関係に加えられた先生ならではのスパイスではなかったかと思うのである。

2017年5月15日月曜日

未収録論文 ⑨

この論文など、完全に行き所を失っている。(後で調べたら、恥と自己愛トラウマに所収していた!)「秋葉原事件」についての論考の特集を組むから、書いてほしい、ということで、犯人の手記を読んだ考察を書いたものの、その書籍化の話は立ち消えになったという経緯がある。

「解」を読む  -診断的理解に向けて
(書き下ろし、としか言いようがない)

はじめに
 2008年6月8日、一人の男が秋葉原で17人もの罪のない人々を殺傷した悲惨でかつ恐ろしい事件。その犯人が発表した手記が本書「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。この小論では私は犯人でもあり筆者でもある男性をKTとだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか私は本稿で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。それゆえこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。だから彼の「解」を読んで感想を書く私達もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
      (これから延々と続くので省略)

2017年5月14日日曜日

未収録論文 ⑧

ボーダーラインと解離との相違について、すごくまじめに書いた論文。もう5年も前だ。これも散逸しかかっている。

BPDと解離性障害
(柴山雅俊、松本雅彦編:解離の病理―自己・世界・時代 岩崎学術出版社 2012年)
 解離性障害、特に解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下、DID)と境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder, 以下、BPD)との関連について考察するのが本稿の目的である。そこにはBPDの精神病理や臨床所見が解離性障害と深い関連性を持つという前提があると受け取られるかもしれない。しかし私がこのテーマについて論じる立場は複雑であることを最初に述べておきたい。というのも私自身はBPDが果たして解離性障害と深く関連しているかについては確信が持てないからである。以下に述べるとおり、BPDとDIDは、その病態としてはある意味では対極的な関係を有するのである。
 ただし近年の欧米の文献は、従来も、そして最近に至っても両者の深い関連性を強調する傾向にある。そこではむしろDIDとBPDは同類であるという主張、あるいはBPDと解離性障害は全体としてトラウマ関連障害としてまとめあげられるべきであるという意見、そしてスプリッティングは解離の一種であるという主張が見られるのである。さらにはDIDの72%がBPDの診断を満たすという疫学的なデータも報告されている(Sar, et al 2006)。私自身の臨床からも、解離性障害とBPDが混同されやすい傾向は感じており、また両者の病理が混在しているようなケースに出会い戸惑うこともまれではない。そのため本テーマは十分に論じる価値があるものと考える。
(ここまででまだ序文。ここからが長くなるので、以下略)

2017年5月13日土曜日

未収録論文 ⑦

こんな論文も書いたなあ。

医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害
(こころの科学154号 境界性パーソナリティ障 害 岡崎祐士 (編集), 青木省三 (編集), 白波瀬丈一郎 (編集) 2010年 所収)

はじめに


 本稿は「医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害(以下BPDと表記する)」というテーマで論じる。ここで医原性のBPDとは、医師ないしは治療者により二次的、人工的に作り上げられたBPDという意味である。ただしここでいう「作り上げられる」には、以下に述べるように実際の病理が作られてしまうという意味と同時に、もともとあった病理がさらに悪化したり、実際はBPDとはいえないものが、そのように誤診ないし誤認されてしまうという場合も含むことにする。
 BPDの臨床を考える上で、この医原性の問題は非常に重要なテーマである。後に述べるとおり、現在の精神医学におけるBPD のあり方を考える際にも医原性の問題は現代的なテーマとなりつつある。しかしこの問題はまたBPD という概念がネガティブなイメージや差別的なニュアンスを担い始めた時に、すでに存在していたとも考えられる。歴史的には、類似の例として「ヒステリー」の概念があげられるだろう。ヒステリーは「本当の病気ではないもの」、「気のせい」、「詐病」、あるいは「女性特有の障害」として、やや侮蔑的な意味で用いられたという経緯があり、治療者側のそのような偏見が、ヒステリーという診断の下され方に大きく影響していた可能性がある。そして現代においては BPD が同様の役割を背負わされているというところがあるのだ。

(すごく長くなるので、やむを得ず以下略)

2017年5月12日金曜日

未収録論文 ⑥

転換・解離性障害  
(精神科治療学神科治療学25巻増刊号「今日の精神科治療ガイドライン」星和書店 2010年              

I. はじめに

転換・解離性障害は、従来ヒステリーと呼ばれていた病態が、現代的な解離の概念とともに装いを新たにしたものである。疾患概念としては、現在のICD-10におけるF44解離性(転換性)障害がこれに相当することになる。ヒステリーは従来は「解離ヒステリー」と「転換ヒステリー」という二つのカテゴリーからなる精神疾患の一つとして記載されてきた。そして1980年のDSM-III(1)以降、ヒステリーは解離性障害のもとに再分類され、上述の国際分類ICD-10 (7)もそれに従ったという経緯がある。解離の概念をいかに定義し、理解するかは立場によって微妙に異なるが、基本的には「意識、記憶、同一性、知覚、運動などを統合する通常の機能が失われた状態」(DSM、ICDにおける定義)とされる。そしてそのうち知覚や運動に解離の機制が限定された際には、通常は転換症状と呼ばれる。ICD-10には、それらは解離性運動障害、解離性けいれん、解離性知覚麻痺[無感覚] および知覚 [感覚] 脱失等として記載されている。
 またICD-10には、それ以外の解離性の障害として解離性健忘、解離性遁走、解離性昏迷、トランスおよび憑依障害が記載され、それに続いて「その他の解離性[転換性]障害」が挙げられているが、この「その他の・・・」が極めて多くの解離性障害を含み、同障害の分類がかなり錯綜している事情を物語っている。
 さらには解離性障害を解離性障害と一緒に同一のカテゴリーに分類するか否かについてのDSM-IV(2)とICD-10の間の齟齬が問題とされている。すなわちICDにおいては、「F44解離性(転換性)障害」という記載が示すとおり、両者は同じ項目に分類されているが、DSMでは、解離性障害は、独立したカテゴリーに分類されている一方で、転換性障害は「身体表現性障害」という別のカテゴリーの一角を占めることになる。解離の専門家からは、むしろICDの立場を支持する声が多いが(6)、Web上で確認する限り、ここに述べた事情は、2013年5月に刊行が予定されているDSM-Vにもそのまま踏襲されるようである。



(これからも延々と続くので、さすがに省略)


2017年5月11日木曜日

未収録論文 ⑤

しかしこんなにばらばらな論文を一冊にまとめられるのではないか。
解離治療における心理教育
(前田正治、金吉晴偏:PTSDの伝え方―トラウマ臨床と心理教育 誠信書房、2012年 所収)

 解離性障害が含む臨床症状の幅は非常に広い。ICD-10 (WHO, 1992) の分類にならい、そこに転換症状も含めた場合は、その数や種類は膨大なものとなる。具体的な症状としては、一過性の健忘に始まり、種々の身体症状、離人症状などを含み、複数の人格の極めて重層的な共存状態まで至り、それぞれに異なる診断名が与えられる。表1 (省略)にその一部を示したが、このうち「F44.8 他の解離性(転換性)障害」の下にさらに、8つの障害が収められている。

 解離は私たちがこれまで考えていたよりも遥かに広くかつ微妙な形で生じ、なおかつ精神科疾患を修飾している可能性がある。そのために患者自身のみならず、患者の家族、ないしは治療者にとっても症状の全貌を捉えにくく、極めて混乱を招きやすい。それだけに心理教育は解離症状に悩むすべての人々にとって非常に大きな意味を持つのである。

(この後延々と続くので、以下省略。)

2017年5月10日水曜日

未収録論文 ④

「こころの科学」特集「トラウマ」(2012年9月号) に書いた論文。これもこのまま散逸する運命にあった。ちゃんと真面目に書いているなあ。

トラウマと解離 

はじめに
 本稿ではトラウマと解離との関係について考察する。ちなみにこの特集で用いられている「トラウマ」という表現は、最近頻繁にわが国の書籍や文献に見られるようになっているが、その用いられる文脈から、この「トラウマ」は心の傷、つまり従来「心的外傷」とか「精神的外傷」と表現されてきたものとみなすことが出来るため、ここでもそれに準じることにする。
 本稿の趣旨は、トラウマと解離性障害の疫学的な関連について述べることであるが、同時に最近の新しい動向、すなわち母子間の愛着の問題やストレスもまた解離の原因として注目されるようになっているという事情についても述べたい。
 心の傷としてのトラウマの概念への関心は、わが国でもここ20~30年の間に急速に高まってきた。そこにはアメリカの精神医学の診断基準であるDSMの1980年度版(1)に登場した心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder, 以下PTSDと表記する)の概念が大きく影響しているであろう。さらには1995年に私たちを襲った阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、そして昨年の東日本大震災が、私たちに心の傷の意味を考えさせる機会を与えたのである。
 解離性障害とトラウマについては、両者の深い関連性は精神医学的にはひとつの「常識」となっている。心に衝撃を受けた際の一過性の深刻な解離症状は、急性ストレス障害 Acute stress disorder (2)として知られ、さまざまな臨床研究がなされている。ショックを受けて一時的にボーッとなったり、今自分がどこにいるのか分からなかったり、まるで映画のワンシーンを見ている様な気がしたり、あるいはこれまでの人生で起きたことがパノラマのように目の前に現れたり、ということはみな解離の一種と考えられるわけだ。しかし繰り返される深刻な解離症状については、その原因ははるか昔の、幼少時にさかのぼることが多い。ここで深刻な解離症状とは、人格交代現象などを伴う、いわゆる多重人格、ないし最近では解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下DID)と呼ばれる状態である。

  (この後も延々と続くので、省略)。


2017年5月9日火曜日

未収録論文 ③

週一度、というより精神療法の「強度」のスペクトラム

(週一回サイコセラピー序説 創元社 2017年刊予定所収) 

初めに
 この「週に一度のセッション」というテーマについて始めますが、私にはどうもこのテーマについては、「週一度でごめんね、でもそれなりに立派に仕事が出来ますよ」というapologetic (謝罪的)なニュアンスを感じます。精神分析は本当は週に4度でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があるよ、でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えません、分かっていますというニュアンスです。しかしそれは同時に一種の戒めでもあります。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な響きがあります。さらにこれは時間についても言えます。一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ、というメッセージがあります。

   (長いんで、以下略)

2017年5月8日月曜日

未収録論文 ②

こんなのもあったぞ。

精神医学からみた暴力
(児童心理 69(11), 909-921, 2015-08 金子書房)
                 
暴力や攻撃性は本能なのか?

暴力は一向に私たちの社会から消えてなくならない。地球上のあちらこちらで不幸な殺戮が繰り返されている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ頻発している。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという。(← 何しろ見つかった頭蓋骨に、ボコッと穴があいていることが多いらしい。こん棒で撲殺された跡、というわけである。)国家の統治機構が備わり、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、その例の枚挙にいとまはない。)加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
 私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
 このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性すら見出せそうである。しかし暴力は時には正当防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」と私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
     (長いので、以下略)

2017年5月7日日曜日

未収録論文 ①

執筆依頼に応じて書いているうちに、どこにもまとめていない論文がたまってくる。そこでそれらをまとめて出そうと画策している。いずれもこのブログで書かせていただいた論文だ。以下は小此木先生が亡くなって10周年、つまり2013年に開かれた際に読み上げた論文だ。

小此木先生の思い出


 謦咳に接する、という言葉がある。相手が咳払いをした際にそれが聞こえる、つまり身近に接するという意味だが、たいていは目上の存在に対して用いる言葉である。私は小此木先生の「謦咳に接する」チャンスが幾つかあった。彼がアメリカにいらした時などは、車に乗り合わせることが多かった。隣に座ることが出来るのだ。シカゴの町をドライブしていた時だ。小此木先生が突然コトンと寝てしまうというのに遭遇することもあった。
 小此木先生との出会いは、1983年からの精神分析セミナーへの参加がきっかけである。私はその時3期生であった。つまりおそらくは1981年にセミナーが始まって、3年目というわけである。人数も10人程度だったと思う。藤山直樹先生、島村三重子先生、柘野雅之先生、佐伯喜和子先生といった先生方と同期である。きっかけは、その時大学の精神科で精神分析の勉強会を主催なさっていた磯田雄二郎先生に、精神分析を本格的に学びたいと相談したことである。すると先生が「それならオコさんに電話してみるよ。」と気軽に応じてくれたのだ。オコさん、とは先生の愛称である。磯田先生は今でもご活躍中であるが、オコさんに夜中に電話をするというのは何と度胸があるのだろう。と言ってもオコさんは夜中に最も活躍するというのは一種の都市伝説化していた。だから夜中でないとつかまらないということがあったのだ。

      (長いので、以下略)


オカノ君、オカノ君と言っていただけるようになったのは、セミナーに出始めてからである。特別私が出来が良かったわけでもなんでもない。今考えると精神科医で精神分析に興味を持つ人はある意味で貴重な存在なのである。私も藤山先生もその立場だったので、もちろん藤山先生も藤山君、藤山君、である。でも私の印象では島村三重子先生が最も小此木先生を始め同期生の期待を集めていたと記憶をしている。小此木先生はその頃50代の前半、もっとも脂が乗り切っていた時期といってもいい。その頃先生は慶應の精神分析グループを率いておられ、まさに日本の精神分析をしょって立つという立場におられた。当然沢山のお弟子さん達に囲まれ、私のようないわば部外者が先生に顔を覚えていただけるだけでも幸運だったわけである。

2017年5月6日土曜日

あらたに収録する章 「関係精神分析」⑬ 

メンタライゼーション

メンタライゼーションの研究および臨床への応用は、上に述べた愛着理論の研究と密接な関係がある。メンタライゼーションの理論的な根拠は、従来の精神分析理論、愛着理論のみならず最新の神経生理学をも含みこむものの、原則的にはそれが発達途上の情緒的なコミュニケーションの失敗ないしはトラウマ(いわゆる「愛着トラウマ」)の産物であるという視点が貫かれているという点である。この理論の提唱者であるPeter Fonagy Anthony Bateman は、養育者から統合的なミラーリングを提供されなかった子供がメンタライゼーションの機能に支障をきたすプロセスをいくつもの図式を用いて詳しく論じる (BatemanFonagy, 2006) 。彼らはともすると漠然として治療方針が見えにくいという関係精神分析に対する批判が当てはまらないような、極めて具体的な治療指針をそのプロトコールで示しているのだ。

解離理論、トラウマ理論

Donnel Sternは、関係精神分析の野心的なリーダーの一人であり、2014年の日本精神分析学会年次大会にも招かれ、基調講演も行っている。彼によれば、精神分析のテーマは、従来の分析家による解釈やそれによる洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に推移しつつある (Stern, 2004) 。そのStern は特にエナクトメントに着目し、それを解離の理論を用いて概念化する。エナクトメントとは、事後的に「ああ、やってしまった」「あの時は~だった」と振り返る形で、そこに表現されていた自分の無意識的な葛藤を理解するというプロセスを意味するが、そのようなエナクトメントが起きる際に表現されるのが、自己から解離されていたもの、として説明されるのだ。
関係精神分析の世界でSterm とともに解離の問題を非常に精力的に扱っているのがPhillip Bromberg であり、わが国でも彼の近著が邦訳されている(Bromberg, 2012)。Bromberg の解離理論は、基本的にはすでに紹介したStern と同様の路線にあるが、それをさらにトラウマ理論と結び付けて論じる。トラウマ理論とは、人間の精神病理に関連する要因として過去のトラウマ、特に幼少時のそれを重視する立場であるが、Bromberg トラウマを発達過程で繰り返し生じるものとして、つまり一つの「連続体」として捉える。そして自分の存在の継続自体にとって脅威となるトラウマの影響を tsunami(津波)と表現し、それが彼の解離理論と深く関わるのだ。
 以上現在の関係精神分析のあり方や将来の発展性について概説したが、もちろん本稿で触れられていないテーマは膨大である。私の概説は関係精神分析という大きく複雑な流れの一つのラフスケッチに過ぎないことを最後に付け加えておきたい。

カオスの淵 ⑥

 この世に溢れている生命体を考える限り、自己組織化には、それ本来のすさまじい力があると考えるべきであろう。昆虫の群れや大移動するヌースの群れなどを見ていて思うのは、動物の複製能力のすさまじさであり、それが二重螺旋構造のDNAに発して、一つのプロセスも狂うことなく(といってももちろん必要な redundancy 余剰性が備わることで、一つのプロセスが狂っても他がカバーする仕組みがあることで)生命体を作り上げていくということである。自己組織化は、ほっておけば自然とそうなってしまうほどの内的な圧力を持っているということか。中屋敷均という先生の「生命のからくり」を読んでいたら、タバコモザイクウイルスの構造は、基礎部分があれば、試験管の中でさえ「自然と組みあがっていく」ことが分かっているという。おそらく生命体の発生もDNAがあればよほどの妨害が入らない限り「自然と組みあがっていく」のであろうし、そもそもDNAのあれほど複雑な構造が、生命が生まれる過程で自然と組みあがって行ったということなのであろう。ましてや夢だってひとりでに自然と組みあがっていくのであろうし、心もそうであろう。思考も、自己意識も自然と組みあがっていくことに何の不思議はない。そしてその自然さの基本にあるのは、きわめて細かなトライアンドエラーであろう。丁度タバコモザイクウイルスの構造が組みあがっていく「自然さ」とは実は、出来上がっていく途中の構造に様々な物質が付きあたってははじかれ、ちょうど「シンデレラのガラスの靴」現象が極めて短時間の間に膨大に起こり、それこそたまたまそこを通りかかった適合する分子がそこに定着する、ということを続けていくというわけである。このプロセス自体はまさに非線形性といえるのではないだろうか。というのもタバコモザイクウイルスの構造とは違い、ある出来かけの構造にフィットする部品(概念、言語)は一つではなく、さまざまなものがありうるからである。

2017年5月5日金曜日

カオスの淵 ⑤

非線形性と自己組織化
 非線形性と同時に考えなくてはならないのが、自己組織化の概念である。非線形性の議論をすると必ず出てくる懸念の声がある。「それはでは人間の心は全くのでたらめなランダム性を伴ったものではないのか?」でも生命の起源を考えてみてほしい。様々な物質のスープの中から秩序が生まれ、生命が誕生するまでになった。なんと核酸の二重螺旋構造という、この世の中でおそらくもっとも秩序だった構造物を作り出してしまう。自然はまた「自己組織化」を行う能力を、本性として備えているのだ。しかしそれは常にランダム性、非線形性とペアになっているし、それだからこそ意味があるのだ。ここにも「儀式性と自発性」の弁証法が成立しているということか。ランダム性はその秩序が進化する力を生むという形で働いている。心の動きということに関しては、創造性という宝物を生むのだ。
 私たちが毎晩見る夢を考えよう。日常生活に由来する記憶の残渣や昔体験したちょっとしたエピソード、そしておそらく無意識的にすら体験していない可能性のあるファンタジーを構成する神経ネットワークのかけら。そこからあれほどの壮大なストーリーが出来上がるのである。私たちの心の自己組織化の最たる例と言えるのではないだろうか。

2017年5月4日木曜日

カオスの淵 ④

 さて人の思考についても同じようなことが起きていると考えることが出来る。
 治療者が「いまここ(治療場面)でどのように感じていますか?」別に同世代の親しい異性に「私のことをどう思っているの?」と問われたという場合でもいいのであるが。もちろんあなたにはその相手に対する様々な気持が沸き起こっている可能性がある。親しみ、煩わしさ、恐れ、過去にかけられた言葉に対する怒りや恨み・・・・。その相手と過ごす空間にも、安心感を与える面、息苦しい面、遠慮をして自由にものが言えないという面、しかしそれとは逆に開放感を感じるという面。どれ一つとして「まさにこれだ!」と言い切れない場合もあるだろう。しかし社会的、社交的な場面では、それを分節化 articulate する必要がある。そこでそれを厳選するわけだが、そこでランダムウォークが起きる。例えば「まあ気楽に話せます」と「すごく気楽に話せます」の両方がチョイスとして残る。「まあまあ」と「すごく」にはかなりの差があるが、おおむね肯定的な返事である点は一緒だ。
 「すごく」には明らかに誇張が入り相手に媚びている気がする。しかし相手に好印象を与えて、これからの相手との関係が
より良好になるのは悪いことではない。だが相手への迎合というニュアンスがあり「まあまあ」だと不満のニュアンスが含まれる気がするが実際のところはその程度だと思っているから本心に近く、それを言うことは余計なフラストレーションをためないことになるだろう。どちらも一長一短があるがそろそろどちらかに決めなくてはならない。そこで最終的にサイコロが降られることになるが、個々の部分は特にランダムウォーク的と言えるだろう。そう、人間の言動のランダム的、非線形的な性質は、行動を起こす際の期限がたいていは定められていて(言葉を一定のリズムで発していかなくてはならない時、など)サイコロを振らざるを得ないという状況におかれることが多い、ということだ。

2017年5月3日水曜日

カオスの淵 ③

 その株価の動きを人の足の動きに見よう。前に進むかと思うと、ちょっと後退する。一歩進んだと思えば二歩下がる。結局一瞬先は全く読めないことになる。なぜならある傾向が見られるや否やそれへの反作用が働くからだ。株価は傾向を反映できない形で動かざるを得ない。すなわち微分が不可能ということになる。これを千鳥足(酔っぱらいの歩行、drunker’s walk)とはよく言ったものだ。
 人の自己表現にも似たようなところがある。自分を出そうとする。すると出しすぎることへの抑制が掛かる。しかしそれでは面白くないのでまた出そうとする・・・・。
 人への協調性と敵対心にしてもそうだ。協調し、妥協しすぎるとそれへの反作用が生まれる。結局微分不可能ということになる。それを「非線形性」と表現するときは、その動きが全く予想できないわけではなく、ある程度は予測できるよ、ということである。微分不可能性はその予測さえも正確にはできないということを意味する。株の動きを細かく追うということは、つまり時間をうんと遅くして、コンピューターで制御するということは、結局フラクタルに向かっていくということなのだ。
 微分不可能、とは考えずに非線形的と考えることで、世の中の動きは少しは見えやすくなる。というか実際はそのレベルで動いている。酔っぱらいは少しは前に進む。方向性はある程度は見える。それはある程度「釣られる」という動きだろうか?AさんとBさんの心の読みあいだって、「相手の裏をかこう」の反対に動いている心理は「相手に後れを取ってはならない」である。Bさんが突然株を買い始めた。Aさんの方は裏をかくどころか「後れを取ってはならない」の心境になるかもしれない。これはバブルを生む。するとここには「裏をかくか、それとも自分もバスに乗るか」という緊張関係がそこに働いていることになる。これもまた千鳥足に貢献しているということかもしれない。

2017年5月2日火曜日

カオスの淵 ②

 心の非線形性とはどういう意味か。例えば株の話が分かりやすい。比ゆ的な意味である会社Aの「株が上がった」、つまり評価が上がったとしよう。例えばA社が新たな画期的な商品を開発したというニュースがちょうど報道されたのだ。この時(実際の)株価も上り調子であると皆が思うだろう。するとそれが上りきる前に買っておこうとする。ところが株価が実際に上昇しだすと、A社の株の実際の価値(それがわかったら苦労しないのだが)にすでに至って、株価の上昇がやがてとまるだろうと人は考え、株を買い控え、今度は株価が下がり始めるであろうという時には株を売りに出すことになる。もちろんこれがすべて計画通りに行えれば、その人は株で益を出し続けて大儲けをするであろう。ところが問題は、皆が同時にこれをやるということだ。いやより正確に言えば、皆が他人より半歩先にこれをやろうとする。そしてここが株価が概ねにおいて予想不可能であり、ランダムウォークをする理由なのだ。
 話を分かりやすくするために、投資家を二人にしてしまおう。AさんとBさん。それぞれが相手の動きを読みつつ動く。株価とにらめっこをしてちょっとでも上がるとAさんは「Bのやつ、買い続けているな」と思いそれに乗るつもりで株を買うが、「Bのやつ、そろそろ買うのをやめるだろう」だと思うと株を買うのをやめ、逆に売る方に転じる。その間Bさんは「Aのやつ、俺がこのまま買い続けると思っているだろうな。」そして裏をかく形で株を買うのをやめる。ところが実はAさんはその裏を読む形で、「Bのやつ、俺の裏をかいて株を買うのをやめようとするんじゃないかな。じゃ、おれはその裏の裏をかこう。」となる。ところが実はBさんは「Aの裏の裏の裏をかいてやるか」とも思っているのだ・・・。これってフラクタルではないだろうか? コッホ曲線を顕微鏡で拡大していくようなものだ。 そしてその動きは結局ランダムになる

コッホ曲線

2017年5月1日月曜日

父の思い出 3

 私は職業柄、父親の頭の中で何が起きているのかが気になる。父親は今の段階では、おそらく今日は何年何月かを聞いても非常に怪しいであろう。息子である私の名前すら怪しいものだ。長谷川式だとかなり低い値が出るだろう。10以下であることは間違いない。しかしもちろん「今日は何月何日?」などと聞くようなことはしない。親父(呼び方が変わった)はそれにこたえられない自分を情けなく思うだろう。認知症とは不思議な状態である。当たり前の質問に答えられないことが恥ずかしいという感情や認識は残っているのだ。しかしおそらく認知能力としてはかなり高度のレベルを必要とするであろう囲碁を打っているのだ。あたかも急に囲碁マシーンのように。
 そうこうするうちにゲームは進んでいく。もちろん私はまじめに打っている。30年前に囲碁を打った親父はとてつもなく強く、(そして私はとてつもなく弱く)盤上の黒石をすべてとられても全く不思議ではなかった。私にはその時に父親が3日後に亡くなることは知らず(そう、そうなったのである)、つい昔の感覚に戻り、いつ彼の白石が私を追い詰めて一群の黒石を殺しにかかるかと思うときが気でない。もうすっかり耄碌したはずの父親は突然とんでもない強敵に感じられたのである。とはいえ父の石の置き方にはふと疑問がわくこともあった。私が星を置いた隅の三々に無理やり入り込む。いくらなんでもそこでは生きられない体勢だ。ところが隅に白石を三つ並べてもう生きたつもりになっている。高段者だったら絶対ありえないような勘違いである。そのうち黒に囲まれると、「生きはないか・・」などとつぶやく。私は目の前の対戦相手が強いのか弱いのかが全く分からなくなった。結局私が六目ほど勝ったが、先手コミを考えるとどっこいどっこいだろうか? 
 私は複雑な気持であった。碁が終わると親父はまたぼーっとした表情に戻った。私は「これからは相手をしてもらいにもっと頻繁に顔を見に来よう」と思った。高段者のオヤジに十三面板、先手とはいえ勝ったということも正直嬉しかった。彼が三日後にはお迎えが来るほどの、ろうそくの炎が今にも消えそうな状態であり、おそらく彼がかつて持っていた棋力の百分の一ほどを注いで打っていたことなどつゆ知らず、そんな呑気なことを考えていたのである。
 ゲームが終わり、私たちは父親をあまり疲れさせないために、とそそくさと帰る支度をした。これまでは帰り際にはよろよろと玄関にまで見送りに来る親父は、この日に限ってそのような動きをしなかった。「きっとヘボ碁の息子にまで負けてショックだったんだろう・・・・」
 親父の突然の死の知らせを受けたのはそれから3日後だった。明け方にトイレに立った後崩れ落ちてそのまま亡くなったらしい。ホームで最後に見回りをしたときは寝息を立ててベッドで寝ていたという。私は父と濃厚な時間を過ごすことが出来たという幸運を改めてかみしめることになった。言葉を交わせば一言二言で終わってしまい、あとは所在無くそこに立っているしかないのに、碁盤を介してなんと贅沢な対話を持つことが出来たのであろう。私は半ば冗談で妻に言う。「やはりあの時に追い詰めちゃったのかな・・・・・」親父は失意で生きる気力が失せてしまったのだろうか? しかしもう一つのシナリオが浮かぶ。こちらはあり得ないシナリオの方だ。親父はいつまでたっても上達をしない息子に花を持たせてくれたのだ・・・。もちろん親父はその時そこまで忖度することはできなかったのだろう。でも自分でも不思議だが、本当にあの十三面板の碁に勝ててよかったと思う。彼から大きな遺産をもらったような気がする。(それにしても親不孝な息子だ。) おしまい。