2017年4月8日土曜日

精神分析とは何をするのか 推敲

精神分析とはいったい何をするのか?

  このセミナーのテーマは、「精神分析とは一体何か」ということですが、最初に申し上げたいのは、フルタイムの精神分析家はほとんどいないということです。つまりみずから精神分析オフィスを開いていて、そこに患者さんがやってきて、一日何ケースも分析を行って、それを主たる収入とする人たちが沢山いるというわけではない、ということです。かつては精神分析大国であったアメリカでも、精神分析だけで食べていける人は著名な僅かな分析家だけだったでしょうし、日本ではほとんど聞いたことがありません。どんなに有名な分析の先生でも、たいていは大学の先生をしたり、分析以外の精神療法をしたり、精神科の外来診療を行っていて、そこでの収入があってはじめて生活が出来ています。
 ただし私たち分析家たちの中には、そのように分析一本で生活していくことを理想としている人たちは沢山います。精神分析家たちはおおむね非常に高い理想を持ち、忍耐強い人たちです。彼ら自身が週4回以上、おそらく3年以上の分析を受け続け、また同様の構造で患者さんたちを何ケースか分析することで、ようやく分析家の資格を取るのです。そのような私たちが分析の道を追及し、それのみにより生計を立てる姿を理想とするのは理解していただけるでしょう。ちょうどフロイトがそのような生活をしていたのですから。
  そのフロイトの話です。フロイトは1800年代の半ばに生まれました。大体どのくらい昔の人かといえば、例えばこうやって話をしている私は60歳ですが、私はフロイトが生まれた時からちょうど100年後が誕生日です。ですからフロイトが今生きていたら160歳というわけで、その意味ではずいぶん昔の人です。そしてその人が作り上げた理論がいまだに大きな力を持っているのは実に不思議なことです。
  フロイトが提唱した精神分析理論をうんと短く言えば、次のようなことです。「人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出される。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤を表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうる。」これは私たち分析家から見たらまさにそれ以外に言いようのない、精神分析の定義ですが、一般の方には分かりにくいかもしれません。
 フロイトは心の中にある考えが押し込められている(抑圧される)と、それが心の、あるいは身体上の症状を引き起こすと思っていました。それは比較的単純な図式といえます。するとたとえば、ある5歳の少年は、馬に対する恐怖症を持ち始めます。しかしよく話を聞いていくと、馬は大きなペニスの象徴だったり、去勢(ペニスを切られるという)の脅しだったり、それを持つお父さんに対する恐怖心が形を変えたことだということが分かります。そしてそれを明らかにすることで、症状が軽快したということです。これが有名なフロイトの「ハンス少年」の例です。
   あるいはフロイトの別の例では、若い男性が様々な強迫症状を来たし、これをしたら父親に何かが類ことが起きるのではないか、あれをしたら …… と誰かを害することを心配をし続けますが、実はその背後にはそれらの人々への死の願望があることがわかったということが書かれています。これはいわゆる「ネズミ男」のケースです。
  このように考えると、フロイトの精神分析は、心の一種の謎解きに似たというところがあったと言えるでしょう。患者さんがある症状を持っています。あるいはこんな夢を見たり、あんな癖やいい間違いをします。その理由は一見分かりません、何も意味を持たないようです。ところが無意識を解き明かすと、その正体が分かり、それにより症状は消える、というロジックです。
 ところが精神分析を提唱したフロイトはそれから大きな壁にぶつかります。多くの症状において、それはこのような謎解きよっては解決せず、心が持つ抵抗にあい、より時間をかけて、丹念に無意識を探索していく必要があると気がついたのです。
 さてそれから一世紀がたち、現代の私たち分析家が考えることは、これとは少し異なっています。このようなフロイトの無意識的な願望という言い方は分かりにくいので、少し言い方を変えて説明します。たとえば私たちの所属する精神分析協会はホームページを用意しましたが、そこに「精神分析とは何か」の説明文を掲げています。ちょっと読んでみましょう。すごくいいことが書いてあります。ちなみに書いた方は、今日一緒に発表していただいている、現精神分析協会会長の北山修先生です。

精神分析とは何か?」(日本精神分析協会HPより)
「精神分析は20世紀のはじめにウィーンでジークムント・フロイトによって始められました。それは人間のこころが意識的なこころと無意識的なこころの両方から成り立っているという考えを基礎にしています。私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。」
 この「とらわれ」、というのは大切な言葉です。しかも「無意識的なとらわれ」というところが大事です。この様に精神分析は私たちの日常心理からは隠された部分、無意識部分に向かっているという点はきわめて特徴的といえるでしょう。ふつうのカウンセリングでは、目に見えるような、意識的なとらわれ、精神分析では無意識的な、目に見えない無意識を扱う、という言い方をすればわかりやすいかもしれません。
 比ゆ的に言うならば、とらわれとは、ゴルフコースでのバンカーのようなものと思っていいでしょう。グリーンに向かって自由に球を打っていいというわけでなく、いたるところにあるバンカーを避けて打っていかなくてはなりません。そうなると打ち方に大きな制約が出てくるでしょう。打ち方もぎこちなかったり無理な姿勢を取らなくてはならなかったりします。しかも打つ場所からはそのバンカーが見えなかったり、それがいたるところに出没するような特殊なものだとしたら、もっと球を打ちにくくなるだろう。それが「無意識なとらわれ」なわけです。
 ゴルフの比喩がわかりにくい人のためには心を、自由に走り回ることの出来る原っぱだと思っていただくといいだろう。そこにところどころぬかるみや落とし穴があったら、自由に走り回れませんね。しかもそのぬかるみや落とし穴が目に見えにくいものであったり、気がついたらいつの間にかそこに落ちていて、そのことにさえも気がつかないような類のものだったらどうでしょう。決して自由にそこを走り回ることが出来ません。これが「無意識のとらわれ」に相当します。そしてここで自由にゴルフの球を打ったり、原っぱを駆け巡ったりということが、自由に発想し、自由に行動するということの比喩になっているというわけです。
 カウンセリングや精神療法では、比較的目に見えやすいバンカーや落とし穴を見つけていくのですが、精神分析の場合は無意識的なとらわれ、というのですからふつうはわかりにくいような、本人にもわかりにくいような落とし穴を見つけていくという作業です。
 ここでこのとらわれについて、いくつかの例をあげましょう。私がはるか昔に米国で会っていた方です。Aさん(中年男性、教師)は、<略>。
 この過去の記憶の回復という現象は、おそらく分析を考えるうえで一番わかりやすく、また分析の一つの在り方を端的に示しています。それは自分を発見するということと、自分自身を「自分は自分でいいんだ」と、受け入れるという両方を刺していることになります。
 さて無意識的なとらわれのもう一つの例は少し複雑です。Bさん(中年男性、営業職)ある人は<略>。
 とらわれの中にはどこから来て、なぜその人の心に定着するようになったかわからないものが多いのです。ただしこれとは逆のものもあります。ある一見些細な出来事からある一つの観念が芽生えるということがあります。心理療法をしていて不思議に思うのは、時には自分では言ったことすら忘れていることが、相手の心に残り、時にはトラウマになり、時には励ましになるという現象です。これは後の精神分析に対する批判にもつながるのですが、心というのはどうしてもフロイトが考えたようなロジカルで機械的な動きとは異なるのです。
 さてHPの精神分析の紹介の続きです。
「精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています(協会HPより)。
 この部分は、では具体的にどのようにして治療を進めるかということを書いてあります。私たちが行うのは、非常に近い距離から言葉を交わし合うことです。



この挿絵(Richard Appignanesi, Oscar Zarate (2003) Freud for Beginners. Pantheon.より引用)から分かるとおり、実際に治療者と患者の顔の距離は数十センチといったところです。治療者は患者さんの頭の上のかなり近い距離から話しかけることになります。そのようなプロセスで患者さんの心がほぐれ、いろいろ話せるようになると、患者さんはかなり心の奥まで開示することになるでしょう。私たちの脳はふだんは、強い抑制を行っています。大脳皮質は、「これを言ってはダメ!」、「あれをしたら恥をかくぞ。」などの声で私たちをがんじがらめにしています。それが少し和らぐことで、そのとらわれについて話せない部分が少しずつ明らかになってきます。とらわれとは、本来は人に簡単には言えないことばかりです。それだからとらわれとして心の中に定着しているというところがあります。
 「分析を受ける方は寝椅子もしくはベッドのようなものに横たわり、自分のこころに浮かんできたことを思いつくままに話していくように、と指示されます。分析家は分析を受ける方から見えないところにいて、いっしょに時をすごし、分析を受ける方のこころのありかたを思いめぐらし、ときにはそこで考えたことを分析を受ける方に伝えます。一回が45分ないし50分のこうした時間が週4回か5回定期的にもたれるのが、フロイト以来の精神分析のやりかたです。」 (HPより)
 さて、ここの部分が一番精神分析で悩ましい部分ですね。週に4回、ないし5回。現代人は忙しいですから、いろいろなスケジュールに追いかけられています。すると簡単に一日一時間の時間を空けることが出来ません。移動時間を考えると、午前中いっぱい、あるいは午後の数時間を分析を受けることに費やすことになる可能性があります。これはお金と時間に余裕がないと出来にくいことかもしれません。ただし私の考えでは、スカイプがおそらく精神分析で革命を起こすと考えています。ちなみに遠くの患者さんにどのようにして分析を施すかは難しい問題ですが、いわゆる遠隔分析とかシャトル分析とか、オンライン分析とか言われています。さていかがHPによる精神分析の最後の部分です。
 「このような時間を積み重ねるうちに、分析を受ける方のこころの世界、無意識の世界がその方のお話の内容や分析家との関係性の中に現れてきます。訓練された分析家はそうした世界に触れ、それを体験し、理解していきます。そうした分析家の力を借りながら、分析を受ける方も、自分の無意識の世界を十分にこころから体験し、やがて人生について本質的な、気持ちのこもった気づきを手にするのです。」
 「お気づきのように、多くの他の心理療法やカウンセリングよりも、精神分析はとても密で深い交流を基本にしています。そのなかで分析を受ける方が動かすこころや気持ちはとても大きなものです。分析がうまくいく場合、そのようなことを基礎にして、分析を受ける方はそれまでのその方のありかたを超えていくことが可能になるのです。」(HPより)
 この部分には特に解説の必要はないでしょう。

人の心についての打ち明け話、そして精神分析

 私はここで一つ、皆さんにぶっちゃけでお話したいことがあります。それは人間は自分の心について話すのが、すごく苦手だということです。そしてそれは実は分析家も同様なのです。皆さんは分析家といえば心のエキスパートとお考えかもしれません。人に心の内を話すことを促し、それを聞くことを専門としている人間が、それでも自分の心を話すことが苦手、口下手、というのは一見おかしな話かもしれませんが、実際にそうなのです。というよりは人間である、というのはそういうことなのです。
 そこで、心を話すとはどういうことなのかを少し一緒に考えてみたいのです。人は歴史的に見て、心を話すことを避けてきました。心とは、言わば自分の内部です。それを見せるのは誰だって抵抗があるわけです。みなさんも服を脱いで自分の肌を人前にさらすのは嫌でしょうし、体から出てきたものはいかなるものも、人目にさらすのは絶対にいやなはずです。だから心の内部を外に出して話すのもすごく抵抗があって当然です。でもどうして私たちが言葉を話すかといえば、意思を伝達するために有用だからです。そして意思を伝達することと心をさらすことは全く違うことです。
 人が最初に何を話したかはわかりませんが、おそらく、「これとそれを交換しよう」、とか「何か食べ物はないか」、とか「ここから先には入るな」、とかでしょう。絶対に最初の言葉が「私はあなたを愛している」とか「私はあなたが嫌いだ」ではないはずです。これらの言葉は発せられる代わりに、すぐに行動に移されていたはずです。ですから人が心を話すということと、言葉を話すということは全然違うということがわかるでしょう。むしろ言葉は、心を話さない代わりに、あるいはそれを隠すためにあったりするのです。(ただしこう言ったからといって、私たちが心を話すこともたくさんあります。心を話すことは、evocative (情緒喚起的)で、感情をくすぐり、あるいは気持ちを解放することもあります。「ああ寒い!」 「痛い!」 「いい加減にしてよ!」 「愛しているよ!」こうやって私たちは気持ちを解放したり、感情を吐露して人を動かそうとしたり、楽しんだりします。もちろんそのような目的での心の吐露はあります。特定の人とのおしゃべりは気持ちを楽にします。ただしそれらを別にすれば、私たちは概して感情の言語化を抑制する方向に行きがちです。ふつうのお喋りですら、それにより何事かを押し隠す方に用いられたりするのです。
 そしてこのように考えると、フロイトが精神分析を考え出すまで、人が精神の病について、言葉を交わすことで治療をしていこう、という発想を持たなかったことも大して驚きではないでしょう。繰り返しますが、心を話すことは、恥ずかしいことで、自分の弱みをさらすことでもあります。ですから私たちはそれを通常はしません。でも時々それが必要なことがあるし役に立つことがある。そしてその場合に心理療法や精神分析が役に立つのです。一つの例を挙げましょう。
 C(老境の男性)は妻が最近咳き込むことが多くなっていることに気が付く。朝食の時に「キミはちゃんと医者に行った方がいいんじゃない?」と声をかける。
 Cさんが職場に出かける際に玄関まで見送った妻は「あなたは自分に何かの病気が罹ると嫌だから、私にちゃんと医者に行け、と言ってるんでしょう?」という。Cさんは腑に落ちなかったが何も答えず、そのまま職場に向かう。
 さてこれは実際私とカミさんとの間に起きたことですが、面白いことに、私はこういうことを観察し、あれこれ考えるのです。そして「ふーん、カミさんとの間にもいろいろなことが言語化されていないなあ」と感心するのです。うちはカミさんも心理士なので、結構いろいろなことを話します。しかしわかってきたのは、私たちはあることは口にしない、ということをかなりかたくなに守っています。そしてそれはお互いの盟約のようなもので、それは関係を維持するために必要なこと、というわけです。たとえば、まあここの例は省きましょう。もちろん彼女との間で私が何も言えなくて窮屈な思いをしているということではありません。彼女にはいろいろ、口にしてはいけない、指摘してはいけないということがたくさんありますが、同時に私のかなりの部分を許容してくれています。
 さて会話はこれで済んでしまうのかもしれません。夫婦の間でいろいろな会話が起き、心の底を吐露しあう、ということは普通はあまり起きないのです。ただその代わり、私たちはそれを職場の同僚などに話すのです。気のおけない、そして一緒にいて安心感を覚える、そしてそれを話してもおかしな人と思わないような、こちらの弱みを見せてもいいような人を選ぶのです。たとえばCさんは職場の上司を選んだことにします。しかし私にはそのような上司はいませんから、創作に入っていきます。

 夫は職場で比較的面倒見のいい上司に、昼食時にその話をする。
C「妻にそう言われた時、どうしてそんな風にとるのだろう?と思いましたよ。」
上司「それで奥さんに何か言い返したの?」
C「いや別に何も言い返しませんでしたが…。」
上司(半ばからかうように)「日ごろのキミの行いがよくないんじゃないの … 。」
C「……。」
上司「まあ、冗談だが、あまり信用されていないようだね。でもそんなに深く考えることもないよ。俺なんて、うちではほとんど会話がないよ。それに比べれば羨ましいもんだ。」
Cさんはおそらく上司にそう言ってもらえて、なんとなく気が楽になるとともに、少し見えてくる部分もありました。カミさんにあまり信用されていないらしいということはその通りだと思いましたが、それを気にするというのもあまり必要がない、ということが分かりました。
 Cさんはおそらく上司にそう言ってもらえて、なんとなく気が楽になるとともに、少し見えてくる部分もありました。カミさんにあまり信用されていないらしいということはその通りだと思いましたが、それを気にするというのもあまり必要がない、ということが分かりました。そして仕事を追えて帰宅する頃には、朝起きたことはほとんど忘れかけているはずです。
 ところがそこで話は終わりません。実はCさんは分析を受けていたのです。
(ここからは、25年ほど前に分析を受けていたときを想像して書き継ぎます)。それからCさんは分析家のもとに向かう。その頃は妻とのエピソードのことを忘れかけていたが、自由連想の中で記憶がよみがえってくる。
C「朝、こんなことがあったのです。(と、出来事を簡単に説明する。)」
分析家 「それであなたはどんなことを考えますか?」
C「まず、どうして私はこの会話を妻とこれ以上したくないんだろう、と考えます。」
分析家 「・・・・・・」
C「彼女とはいろいろ話しますが、この種のことはお互いにあまり立ち入らないんです。私は彼女の体が心配だったことは確かです。だから結核か何かを移されるのではないか、ということはあまり頭にありませんでした。癒そう思うこともあったのですが、今はもっと重大な問題が彼女の体に起きているのではないかと思ってしまいます。」
分析家「重大な問題、とは?」
C 「たとえば肺癌とか。何しろ咳が2か月は続いていますからね。そんなことになったらどうしたらいいんだろう、と思います。」
分析家 「奥さんの『どうせあなたは…』という言葉の意味をどうお取りになったんですか?」
C 「これもどこまで私が勘ぐっているのかわかりませんが、……おそらく妻は私が彼女のことをいらない、と思っているんだろうと思います。」
分析家 「もう少し話してください。」
「つまり……。妻は時々私が自由になりたい、という気持ちを持っていることを知っていると思うんです。彼女は私が何より自分が大事な人間だと思っていると思います。私はそれを完全に否定する自信はないんです……。



これ以上は書けませんし、書く必要もないでしょう。実際に私は今分析を受けているわけではありませんから、そこで起きるであろう事は正確に想像することは不可能ですし、それだから実際に分析を受ける意味があるのでしょう。それにこれ以上私は自己開示をする必要はないのです。ただ私は皆さんに、精神分析でのコミュニケーションが、いかに通常の、日常的なコミュニケーションと異なっているかを示したかったのです。精神分析は普段は口にしないこと、考えないことにまで考えを及ぼすよう促します。その結果として心は普段の心の流れとは違った、より深いレベルに導かれます。そのような体験はおそらく皆さんの心のあり方を根本から変える可能性があるのです。それは時にはシンドくもあり、また目から鱗な体験をもたらしてもくれるのです……。






今日のお話で皆さんが、精神分析とはどのようなものかについて、少しでもお分かりいただければ幸いです。