2017年4月2日日曜日

脳科学と精神分析 ①

しばらくは、脳科学と精神分析の準備である。

非線形性、微分不可能性
私たちの心が非線形的 non-linear であるとはどういうことか? これはごく単純に言えば、原因と結果が直線的でないということだ。(そうだったのか! 私は非線形ということを不連続性と混同していたようである。非線形とは直線でない、ということだった。)
まあ、非線形ということについて考えよう。線形とは「直線的」ということだ。非線形とは要するに原因と結果が直線的な関係にないということだ。対数曲線などを考えればわかるとおり、最初はなだらかな伸びでもそのうちとんでもない数値になっていく。y = 2x を考えよう。xが1,2,3くらいならまだいい。しかし10くらいになるとあっという間にグラフ用紙を突破してしまう。カタストロフは、変化はこうして起きる。歩いていて足を少しひねった程度なら、しばらく休んだり、そこを庇ってゆっくり歩くようにしていれば、自然と治るだろう。ところが構わず歩き続けるとちょっとした負荷が積み重なってあっという間に疲労骨折になる、などがその例だ。トラウマだってそうだ。少しの小言なら我慢できるが、それを言い募られると限界に達して爆発してしまうとか。
非線形的、というのは不連続性を招きやすいということになる。むしろ連続でない、不連続、離散的である、という言い方が物事の説明には便利だろう。あるいは不連続とは、「微分不可能」というべきか。
 数学でlim (xx0) f(x) = f(x0) というのがあった。上手くかけないが。ある点に限りなく近づくと、その点に限りなく近づく。それが微分可能ということである。ある人の行動を見ていると、その直前の行動との間に連続性がある。各瞬間に方向性が定まっているということだ。ところが微分できない、とは、一瞬前のことが一瞬先のことを予想しえないということだ。これは二つのレベルについていえることである。 一つは現実において生じることが不連続だからだ。楽しみにしていた遠足の朝、起きたらザーザーぶりだった。もちろん雨雲はじわじわ押し寄せてきて、雨も最初はぽつぽつ降り出すが、その間寝ていた子供にとっては、不連続な体験だ。そしてもう一つ、思考や行動の生じ方が不連続である。思考の生じ方はダーウィン的である。つまりその時大脳皮質で大きな場所を占めたものが選択される。今晩カレーを食べようか、ハヤシを食べようかと迷う。例えばいま私にそのどちらを決める気もない。第一そんなボリュームが多くてカロリーの高いもの、年寄の人間には食べる気にもならない。しかし本当にそれ以外のチョイスがない場合、「なか卯」に出かけて食券を買うときには私はどちらかに決めなくてはならない。でないと食券売り機の前で延々と佇んでいることになる。そこで私の頭ではサイコロが振られるだろう。どうしてサイコロとダーウィン的な自然選択かって? サイコロが転がるうちに、最初はそれぞれの面が上になる可能性を持っていても、最後の瞬間に急激にある面の可能性が大きくなるではないか? そして最終的にその面を上にして静止する。それと同じである。しかもそこで決定的なのは、心がそれを主体的に選んだ、という感覚を持つという性質である。サブリミナル効果を主体が自分のものとする条件を思い出そう。サブリミナル効果により人の行動は大きく影響を受けるが、それが「一貫性、プライオリティ、排他性」の条件を満たす限り、人はそれを自分が主体的に選択したと錯覚する(John A. Bargh などの研究)。
 あとは私たちがそれを主体的な判断と決めることに時間はかからない。私はハヤシを選んだのである。(ところでなか卯でカレーやハヤシはやってたかなあ?