2017年3月2日木曜日

ナルな人たち 書き直し ②

さてグループの凝集性を生むこれらの3つの条件、すなわち①利害の共有、②仮想敵の存在、③グループの閉鎖性)はそのまま、いじめの生まれる土壌を提供していることになる。これは容易に想像できることだ。そのグループメンバーの一人ひとりが、ある日突然三つの条件を満たすような存在になってしまいかねないからだ。昨日まで仲間と利害を共有し、一緒の敵を憎しみ、それ以外とは交渉を持たなかった人がある日グループから抜けると言い出した。どうやらグループのやり方や雰囲気にそぐわないらしい。たちまち理解の共有は成り立たなくなり、むしろグループにとっての敵になりかねない。そしてどこか外のグループに加担する「裏切り者」にされてしまう可能性がある。そしてここからが肝心なのだが、グループの凝集性は、その仲間はずれを人為的に作り上げてしまう可能性がある。これがいじめの成立である。
 もちろんここで必ず問われなくてはならない問題がある。なぜ人為的にでも仲間はずれができるのだろうか? 考えてみよう。グループの凝集性は、それをより高める方向に働く。そして仲間はずれの存在はそれを間違いなく高める。もちろん仲間を一人なくすことはグループにとっての痛手となりかねない。これまで仲間だったメンバー自身が、それによりどれほどの精神的なトラウマやダメージを蒙るかを考えると容易に出来ることではない。しかしそれによる凝集性の高まりがその痛手を上回るとしたら。少なくともそのグループのリーダーがそのように感じ、かつ人
の痛みを感じない無慈悲なタイプだったら?あるいはそのリーダーが被害妄想が強く、グループを裏切る可能性のあるメンバーの存在に極めて敏感になっていたら・・・。そう、そのグループのリーダーの性質は実はここで非常に重要になってくる。
リーダーが温厚で面倒見のいい性格であれば、いじめも起きにくいだろう。しかしリーダーが無慈悲で被害的で、かつサディスティックだったら、あるいは先述した通り厚皮型やサイコパス的なナルシシストの場合は、攻撃の対象をすぐに見つけ出し、周囲を扇動していじめに向かわせる。そこで上記の二番目の条件(仮想敵の存在)が成立し、排除の力学」から、いじめの構造は簡単に作り出されてしまう。p.78 l.10l.12
この排除の力学が働く時は、メンバーは極めて敏感になる。いまや一人のメンバーが攻撃の対象になりかかっている。どのように自分は振舞うべきか? ただ一つ明確なのは、そのリーダーに向かって「皆で仲良くやりましょうよ?」「一人だけをなかはまズレにするのはよくありません」と意見することは、たちまち自分を排除の対象に仕立て上げてしまう行為でもあるということだ。
いじめの被害にあった人たちが多く語るのは、一番恐ろしいのは、その集団から外されてしまうことだという。そのためにいじめを甘んじて受け、また誰かの受けているいじめを傍観したり、いじめに加担したりすることになるのである。
この「排除の力学」は、実際には排除が行われていないときも、常に作動し続け
ることになる。仲間はずれは何がきっかけで生じるかわからない。仲間から少しでも外れた言動はそのままその根拠になりかねない。仲間の集まりに参加しないこと、同じものを身に着けないこと、同じ意見を言わないこと。それはことごとく排除の力学を作動させることに繋がるのだ。
 ここで私は自分自身の異文化体験について言及せざるを得ない。というのも欧米の社会に比べて日本の社会はこの凝集性を重んじるという点でやはりかなり特徴的であるといわざるを得ないからだ。ただし私は近隣のアジア権での生活の経験はないので、例えば中国や韓国の社会と比較して論じることは出来ないことはあらかじめお断りしたい。
ある集団に属すると、そこですべきことがいつの間にか決まっていて、それに従わないことで恥をかき、仲間から疎外されるという現象はわが国の社会のいたるところで見られる。その最初の段階はすでに幼稚園に始る。皆がおそろいの制服を着て、同じかばんを持ち、同じ帽子をかぶる。それに従わないことは考えられないことであり、もちろんいけないことである。いかに他の人と同じに振舞うかは、いかに社会生活を学ぶか、ということと同義なのだ。
私は今でも小学校に入ったころのことを思い出す。その頃はランドセルは黒と赤かありえなかった。それ以外の色のランドセルもあるにはあったが、ピンクや黄色の目立つこと。私は小学校のクラスで、一人ピンクのランドセルを背負っていた女の子と、黄色のランドセルを背負っていた子を名前も顔もしっかり思い出すことが出来る。それほど人と違っているということは強烈な印象を与えるのである。ちなみに私の小学校当時はもちろんそんなことで仲間はずれになることはなかったが。
ちなみに最近のネットの宣伝を見ると、ランドセルはその気になればネット上でいくらでもカスタマイズでき、好きな色や飾りを選んで自分独自のオリジナルなランドセルを作ることができるらしい。しかしそうなると、そのうち赤や黒の既成のランドセルを背負っていることが目立つことになりかねない。世の中でいじめの種は尽きないのである。
近頃のお母さんたちは、子供に持たせるお弁当にも特別に気を使うそうだ。お弁当にちょっと変わったおかずを入れることでからかわれていじめの対象になるのではないか?それよりも最近非常に気になるのが、小学校入学時に、母親たちが大変なストレスを抱えるということが私の診察室で語られるのである。いうまでもなくPTAのことだ。入学するといつの間にかPTAに参加することになっている。どこかで署名したらしい。すると役員にでもなると念のうち何十日も学校での活動に参加しなくてはならない。そしてそれを外れることはそれこそ様々な不利益を蒙るのではないかという懸念を生む。何しろ大事な子供への影響が心配になる・・・・。小学校入学は子供にとっては画一性に従うことを重んじる日本社会へのイニシエーションであり、母親にとっても、おそらくそれへの第2のイニシエーションになるのである。
それに比べるとアメリカの小学校のなんとおおらかな事か。皮膚の色も髪の色も違う子供たちが思い思いの服装で学校に集う。制服などありえない。ちなみに小学校だけでなく、ミドルスクールでもハイスクールでも、生徒たちは決まっては着古したスラックスかジーンズか何かをはいてくる。(スカートの類は全く見かけない。せいぜいキュロット程度か。)どんなお弁当かと除くと、ブラウンバックにスナック菓子の袋と缶コーラが入っているだけといった感じだ。何かに合わせるにも、その基準がなく、あえて言えば一人ひとりが好きな格好をする、という基準があるということか。