2017年3月16日木曜日

精神分析とは何か ⑤

私はここで一つ、皆さんにぶっちゃけでお話したいことがあります。それはもちろん精神分析に関係することです。私たちは、実は自分の心について話すのが、すごく苦手だということです。それは実は分析家もそうなのです。皆さんは分析家といえば心のエキスパートとお考えかもしれません。人に心の内を話すことを促し、それを聞くことを専門としている人間が、それでも自分の心を話すことが苦手、口下手、というのは一見おかしな話かもしれませんが、実際にそうなのです。そこで、心を話すとはどういうことなのかを少し一緒に考えてみたいのです。というのも人は歴史的に見て、心を話すことを避けてきたのです。心とは、言わば自分の内部です。それを見せるのは抵抗があるわけです。みなさんだって服を脱いで自分のはだかをさらすのは嫌でしょうし、体から出てきたものを人目にさらすのは絶対にいやなはずです。だから心を話すのもすごく抵抗があって当然です。でもどうして言葉を話すかといえば、意思を伝達するためです。そして意思を伝達することと心をさらすことは全く違うことです。人が最初に何を話したかはわかりませんが、おそらく、「これとそれを交換しよう」、とか「食べ物はないか」、とか「ここから出ていけ」、とかでしょう。絶対に「私はおなかがすいた」「私はあなたを愛している」とか「私はあなたが嫌いだ」ではないはずです。これらの言葉は発せられる代わりに、すぐに行動に移されていたはずです。ですから人が心を話すということと、言葉を話すということは全然違うということがわかるでしょう。むしろ言葉は、心を話さない代わりに、あるいはそれを隠すためにあったりするのです。(ただしこう言ったからといって、私たちが心を話すこともたくさんあります。心を話すことは、evocative で、感情をくすぐり、あるいは気持ちを解放することもあります。ああ寒い! 痛い! いい加減にしてよ! 愛しているよ!こうやって私たちは気持ちを解放したり、感情を吐露して人を動かそうとしたり、楽しんだりします。もちろんそのような目的での心の吐露はあります。ただしそれらを別にすれば、私たちは概して感情の言語化を抑制する方向に行きがちです。)そしてこのように考えると、フロイトが精神分析を考えだすまで、人が精神の病について、言葉を交わすことでよくしていこう、という発想を持たなかったことが大して驚きではないでしょう。心を話すことは、恥ずかしいことで、自分の弱みをさらすことでもあります。ですから私たちはそれを通常はしません。私たちでさえそうなのです。でも時々それが必要なことがある。そしてその場合に心理療法や精神分析が役に立つのです。一つ私の例を挙げましょう。
•A(中年男性)は妻が最近咳き込むことが多くなっていることに気が付く。朝食の時に「キミはちゃんと医者に行った方がいいんじゃない?」と声をかける。
•Aが職場に出かける際に玄関まで見送った妻は「あなたは自分に何かの病気が染ると嫌だから、ちゃんと医者に行け、と言ってるんでしょう?」という。Aは腑に落ちなかったが何も答えず、そのまま職場に向かう。