2017年3月1日水曜日

ナルな人たち 書き直し ①

以前ここに書いていた「ナルな人たち」が、難産状態である。いろいろ問題が生じている。そこで部分的に書き直しをすることになった。

いじめが生じるメカニズム

いじめは、おそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にあるにしても、一九八〇年代頃より、わが国ではしばしば問題にされるようになった。それはなぜだろう? これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
本書は、もちろんいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。というのも臨床の場面でもそのほかの社会的な関係においても、いじめに類する現象は常に発生し、多くの犠牲者を生み出しているからである。
 最初に述べたいのは、いじめはその程度はともかくも、集団が成立する際には必ず多かれ少なかれ発生するものであると考える。ただし動物社会でのいじめは少なくとも人間社会のそれと同じようには生じないと言われる(正高、2007)ところを見るとかなり人間社会に特有な現象なのであろう。
正高信男 (2007)「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」~いじめの起源と芽生え~ 講談社ブルーバックス    
人間は極めて社会的な生き物である。人という群れに属することで安心感を得る。群れから疎外されることはそれだけで恐ろしい。これは学校に通っている年代の私のクライエントがしばしば語ってくれることである。最近の中高生はいつもスマホを手放さないように見えるが、それを媒介にしてクラスメートや友達により形成される集団から外されないように必死なのだ。
 さて私たちが所属するグループ、群れには凝集性、一体感といったものがある。その集団の中を流れる「空気」の濃さ、と言ってもいい。そこで皆が考え、皆が前提にし、従うことがおのずと決まり、それを共有することで、一体感が生まれる。「みんなで優勝しよう!」とか「奴らを叩きのめしてやろう!」とか「○○カープ最高!」とかいう感じだ。それに賛成することで、そのグループに受け入れられ、所属している実感が生まれる。それは心地よく、興奮を感じさせるものだ。そしてそれが強ければ強いほど、そこから外れることが難しくなる。「えそれはちょっと・・・・」とか「それは僕は賛成しないな」とかが言いにくくなる。それを口にするとその集団を流れる熱狂を一気に冷まし、そこに気まずさやシラケを生む。そしてそのグループから一気に排除される可能性を生むのだ。それを「排除の力学」と呼ぶことにしよう。私が前著『恥と自己愛トラウマ』でも論じたことである。この「排除の力学」は、私がいじめが生じる決定的な要素と考えていることだ。
排除の力学を支える要素を私は3つ考える。それらは ① 利害の共有、② 仮想敵の存在、③ グループの閉鎖性、である。一つ一つ説明しよう。
理解の共有(①)は一番わかりやすいだろう。グループがある球団やアイドルのファンで構成されているとしよう。「○○最高!」 「○○を応援しよう!」で一気に盛り上がる。それらのスローガンや掛け声を繰り返すことで、グループの熱気を一気に盛り上げることが出来る。例えば球場の応援団席は贔屓のチームのカラーや、そのユニフォームを着た人でいっぱいになる。するとそこにライバルチームのユニフォームを身に着けた人が紛れ込むのは自殺行為だろう。ボコボコニされてしまう可能性があるからだ。
さて②の仮想敵の存在は、この①といわば対になっているような条件である。○○最高!は,「××(○○のライバルチーム)をやっつけろ!」によってもまとまるのだ。またとくに○○が存在しなくても、××だけが存在することで十分にグループの凝集性は盛り上がる。その場合○○はそのグループが最初から共有している属性ということになる。「○○国民」、「○○県民」、「○○民族」ということでいいだろう。
③のグループの閉鎖性については、そのグループのメンバーがどれほどほかのグループとの接触がなかったり、外部からの情報が遮断されているかを意味する。考えてもみよう。メンバーがそのグループを離れては生きていけなかったり、そのグループを離れることが想像すらできなかったら? そのグループは家族かもしれないし、国民かもしれないし、宗教かもしれない。グループ以外の存在の仕方を最初から前提にできないのであれば、そのグループと運命を共にするしかない。それは間違いなくグループの凝集性を高めるのである。