2017年2月6日月曜日

錬金術 ⑦

昨日はこの部分。図を描き代えた。

期待そのものが快感である

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っているとき、その期待それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでますますアツくなる、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの射幸心の話とは違う。期待しているときにすでに快感を得ているという体験は、射幸心を持つかどうかにかかわらず、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、生きていることそのものがすでに楽しい、というのが私たちの健全な心のあり方かもしれないのだ。そう、私たちの人生は、精神的な病やトラウマの影響を受けていないのであれば、デフォールトが楽しいものなのである。
話を大きくせずに、ギャンブルの話に留まろう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは、ハマらない限りは、人に「遊び」という感覚、純粋に楽しい、という感覚を生むのだ。
たとえば1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、30分以内にあなたはそのお金をすべてお店に献上して店を出てくるだろう。でもあなたは不幸ではない。あなたは1000円を支払うことで、30分の間に自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に付けたわけでもない。でもきっと思うだろう。
30分こんなに楽しんだのだから、1000円は安いものだ。」
 でもあなたはその30分の間、必ずある期待をしていたはずである。1000円を元手に手荒に稼ぐことを、である。これがあったからこそ楽しかったのだ。もしそのパチンコ台が決して勝てない台であるということを知っていたら、あなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。幸福な結果を期待して待っている時間はそれだけでも楽しいのである。
期待することそれ自身が快感である、という事実がどれだけ驚くべきか、私はまだ読者に十分に説明できていない気がする。もし私たちの報酬系がきわめて単純にできていたら、期待したものが得られなかったら、その分失望という名の不快として体験されるはずだ。
そこでここからは思考実験である。あなたがパチンコの玉一つを持っている。それを弾くと、中央口に入る確率がちょうど50%だとしよう。そして玉が入った時の快感をPとしよう。あなたはその玉を拾った、という想定にしよう。元手はゼロ円だ。玉を弾いて見るまで入るか分からないから、その時までの快は ½Pのはずだ。P×0.550%の確立だから)= ½Pというわけである。すると実際にはじいた球が中央口に入った場合は、残りの½Pが体験され、両方で1Pということになる。それは中央口に入ることが決まっている(入る確率が100%の)玉をもらうのと同等ということになる。もしそのように心が働いた場合にそれを図示するとしたらどうなるだろうか? それを以下の図1に示す。
図1
         
このシンプルな画像はこれからも何度か登場することになるが、ここでの基本的なコンセプトを示しておきたい。図の横軸は時間経過を指す。縦軸は「ドーパミン神経の興奮」の度合いである。そしてパチンコ玉をもらった瞬間、そしてそれが中央口に入った瞬間のその興奮の度合いが縦軸に示されている。そしてその縦軸の変化の内部が青く塗られている部分に注目していただきたい。これが鋭く立ち上がって徐々に低下するのは、パチンコ玉が手に入ったり、それが中央口に入ったときはその瞬間が最もうれしく、徐々に時間と共にその喜びは低下しているという心の動きはかなり一般的なものとみなせるであろうからだ。そしてその内側の青く塗られているのは、その体験の総量すなわち積分値を面積として表したものである。

図 2

次に図2は、玉が入らなかった場合の図である。こちらはマイナスの部分が臙脂色に塗られているが、これが示すところは期待が外れたことによりがっかりした気持ちの総量、積分値を面積で表したものである。この場合は当初の期待感を伴った½Pが、パチンコ玉が入らなかったことで-½Pにより相殺されたことを表す。そのときの心を描写するならば、「やっぱりね、どうせ入らないと思った・・・」とでもいったところか。
さてこれらの図1、図2は一見合理的なように見えるだろう。現在の脳科学でわかっていることは、快は時間とともに変化していくことであり、それはドーパミンの興奮の度合いと深く関係しているらしいのである。そして図2½P+(-½P)=0というのも理屈にかなうようだ。パチンコ玉をもらってうれしくても、それを無駄にしてしまったら、プラマイゼロだ。そんな体験は一日が終ったら忘れてしまう、ということになりはしないか。ちょうど一万円札を拾って喜んでよく見たら、1000万円と書かれたおもちゃのお札だと知ったときと同じである。