2017年2月22日水曜日

「自己愛トラウマ」の推敲 ①

この論文、まだいじっている。

さてフロイトはなぜ、自らが身をもって体験していた自己愛の問題を精神分析理論に反映させなかったのだろうか。フロイトはフェレンチにもユングにも、その離反について、エディプス的な解釈をしました。
「ユングは父親コンプレックス (エディプス葛藤を解決していない。だから私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。フェレンチも結局はそうなった。」
 ここに表れているのは、フロイトが弟子たちの関係を、あくまでもエディプスの問題として扱ったという事実です。それはフロイトが自己愛の問題を意識化していなかったことを示しているわけではありません。ただ重要とは考えていなかったのです。なぜでしょうか?それは自己愛の問題は、少なくともフロイトの目には、無意識を介していない、ありのままの、見たままの問題だったからです。フロイトは初めから露わになっているものには興味がなかったのです。それは見たとおりのあたりまえのことであり、それ以上の病理を生む可能性はそこには想定されなかったのです。
そこで生前のフロイトの時代に戻って、フロイトにこう尋ねたらどうでしょうか?「フロイト先生、お尋ねします。あなたがそれだけ誰かの注目を浴びたいのは、実はお父さんから十分に認めてもらえなかったからではないですか? そのことの自己愛の傷つきを十分に意識化されないままに、ほかの人に向かっているということはないのですか?」
これに対してフロイトはこう言うだろうと思います。「私が父に抱いていて、意識化していなかったのは、殺したいほどの憎しみだよ。私は父の死の際にそれに気が付いたのだ。それに私にはおそらく無意識に同性愛願望があるのだろう。父親に愛されたかったということだろうね。言っておくが、人に認められたい、という願望は勿論ある。でも病理とは無関係なんだよ。何しろセクシャリティーと無関係だしね。私が父親を憎んだのは、母親に対する性的願望を禁止されたからだよ。少なくとも私の説ではね。それ以外は意味がないのだよ。・・・・」 こうしておそらく議論はかみ合わないままになるでしょう。
ここで100年の歳月が流れて、その後の精神分析の流れを知っている私たちは、フロイトに提言するとしたら、以下のようになるでしょう。