2017年2月17日金曜日

錬金術 ⑱

ここら辺、筆が結構なめらかで、あまり直すところがない。

自己欺瞞を支えるのは何か? どうして四尾しか釣っていなかったことを忘れる事が出来るのだろうか?私の考えを示そう。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。私が前章で「自然な忘却」と呼んだもので、これが自己欺瞞においては一層鮮明な形で生じる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くこと。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考であり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。そしてそれが舞台裏に押しやられることで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとする。後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船のようなものなのだ。
実は哲学者サルトルも、この私と似たような説明をしているのを発見して、私は心強く思った。ということでサルトルに立ち戻ろう。
 自己欺瞞を哲学的に表現すると、実はとても難解である。それは例えば次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」(富沢克、他、2002)。

富沢克、古賀敬太 ()「二十世紀の政治思想家たち新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。

ここに次の様な説明が入ればわかりやすいかと思い、考えてみた。人間とは自由であることを運命づけられている。人間には自由であること以外の存在の仕方はできない。しかし同時に自由は「不安」と表裏一体である。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っている。それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫びだし、周囲の人々から一斉に怪訝の目を向けられるかも知れないのだ。自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前では礼儀正しくふるまい、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。これは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。道端の石ころとか、机の上のペンのように、おとなしい聴衆の一員に過ぎないというわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
「存在と無」には、こんな例が出てくる。ある男がぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。
「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」
イソップのすっぱいぶどうの例のようだ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。
しかしでは自己欺瞞は糾弾され、否定されるべきことなのだろうか? 実は人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。それは私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っている。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な記載をしているが、私の考えとほぼ同じだ。


われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(P.223)