2017年2月14日火曜日

錬金術 ⑮

今日はここら辺を推敲していた。

快を善とする心の成り立ち

人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が興奮してくれることは、絶対的に肯定する傾向にある。自分はこれに生きるのだ、と感じる。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心を癒すために戻って行く自宅やすみか、と言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することはそれだけ難しくなるであろう。それを隠したり、何度もやめようと試みる場合もある。しかし逆にそのような問題がないのであれば、その行動はその人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験されるのだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸い深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだったとしよう。周囲でも喫煙をとがめたり後ろめたさを感じさせたりする人はいない。私が若い頃の昭和の世界は、皆がどこでも自由にタバコを吸い、そのために通学のために毎日乗っていた汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、タバコの煙でもうもうとしていたものだ。若い頃に勤めだした精神科の入院施設では、男子の大部屋では患者が普通に寝タバコをしており、畳に焼け焦げがあちこちにある、そんな時代だったのだ。
 その「愛煙家」が突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと思うだろう。「煙草のない生活を考えることなど出来ない。一体誰が何の権利があって、煙草をやめさせようとするのだ!」
 やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、昭和生まれの彼は喫煙に本当の意味で後ろめたさを感じることはないかもしれない。「どうして昔は全然問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「他人の健康にとって害になることは、他にいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう!」などと屁理屈をいくらでもこねるだろう。
覚醒剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンのTが、こんなことを書いていた。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ ネット版2016 212()配信)
覚醒剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごく納得がいく話である。もちろんTの薬物の使用を正当化しているわけではない。ただ彼の発言は、薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。休息といえば私たちにとって必ず必要なもの、適度な量ならばそれを得ることは当然肯定されるべきものである。その感覚が、覚醒剤を用いたときにも体験されるという点が興味深く、また不幸なことなのだ。そしてその際両方から得られる心地よさの架け橋となっているのが、報酬系の興奮なのである。