2017年2月28日火曜日

脳科学と心理療法 ⑤

脳科学的な知見を取り入れたこれからの心理療法
おそらく脳科学的な知見を取り入れた精神療法は、ますます実証主義的なものとなるであろう。ただし実証主義に偏る療法は、精神療法をロボットでも行えるような、無味乾燥で機会を相手にするような、極端認知行動療法に傾くような治療法を要求はしないだろう。
Lambert (1992)の報告は、治療外の要素は40%であり、偶然の出来事、クライエントが本来持っている強さ、リソース、能力など。治療関係に共通の要因は30%を占める。(需要、共感、思いやり、励まし、クライエントの治療への関与の性質、両者の関係性、治療法についての同意など。プラセボ効果は15%。モデルと技法は15%しか占めないという。

ここに示される治療関係は、どれも治療者と患者の人間としてのかかわり、と形容できるだろう。それを本稿では「間主観的な在り方」、すなわち治療者と患者という主観同士のインターラクションを含んだダイナミズムに基づくプロセスと言える。前出の「相互の深層学習」と同義と考えればいい。これは従来の受身的で匿名的な治療者の在り方という考えを大きく変える必要性がある。治療の主体は、患者の主観的な体験を聞いた治療者が、それをどのような主体的な体験として捉えるかを伝える。それを今度は患者がどのように主観的にとらえるかというフィードバックループを形成していくことであろう。

2017年2月27日月曜日

脳科学と心理療法 ④

エナクトエント、深層学習
人の心を複雑系としてとらえるという方針は、今後も不可避的なばかりでなく、むしろ必然的であると考える。非線形的な在り方としてとらえることで現在の精神分析理論にある種の決定的な変化をもたらすとしたら、それは治療者と患者の相互関係を一種の深層学習ととらえること、もう一つは相互の振る舞いはともにエナクトメントであるという視点に至る。複雑系としての心とエナクトメントとはきわめて相性がよく、現代の精神分析的な考え方から差しのべられた手だとさえいえるだろう。
エナクトメントは要するに治療状況において、治療者や患者のある態度や振る舞い(沈黙、あるいは感情の動きも含めて)が、本人の気が付いていない感情やファンタジーや意図を表現したものとしてとらえられるということである。この概念は言うまでもなく転移、逆転移の概念の進化系ともいえる。転移、逆転移は過去の対象関係の移しかえというニュアンスを持っていたが、エナクトメントの本質は、それが「何の移しかえか」が本質的には不可知的であるという可能性を含んでいるということである。それは過去の対象関係であってもいいし、それ以外でもいいし、何かわからなくてもいいのである。無論精神分析的にはそれが事後的になんの移しかえだったかがわかることが望ましいが、おそらく関係論者の多くはそこまで明確な理解を要求できないことを暗黙の裡に認めているであろうし、それは私たちの言動のいわば離散的、非連続的な性質を認めていることになる。これはいわば非線形的な心の在り方の容認ともいえる。わかってもらえるだろうか。

深層学習は実は私たちが、患者であろうと治療者であろうと常に環境との間で行っているのであり、「治療関係は相互の深層学習である」という提言はある意味では当然の事実を述べているに過ぎないが、おそらくそれの意味するものは大きい。従来の精神分析的な捉え方とは明らかに齟齬をきたす。学習するのはもっぱら患者の方である、とか、治療者はすでにある意味では答えを見出しているとかが、分析的な前提である。ところが実際には治療者と患者はお互いに本来は見知らぬ存在であり、お互いによって刻々と変化し、学習しているという事実は変わらない。診断とか見立てにより治療者がいち早く患者を理解するという考えは誤っているのである。

2017年2月26日日曜日

脳科学と心理療法 ③

ともかくもここでまず言いたいことは、現在の脳科学的な知見の発展と、臨床場面で見られる還元主義的な考え方には驚くべき開きがあるということです。
ここで臨床家が向かうべき心としての「新・無意識」という概念について紹介します。無意識と言えば一世紀あまり前にフロイトが精神分析理論を提唱した際に中心的な概念でした。しかし最近の脳科学の発展は新しい形での無意識の在り方を提唱していると言えます。それは端的に言えば非線形的で複雑系として理解される脳の在り方を反映しています。ただしその説明をする際に、まずは私自身の精神分析の理解を説明しつつ、この概念を導入したいと思います。
カオス的な動きをする二重振り子の例
 個人的な体験から言えば、精神科医になって精神分析理論に触れることで、初めて心をいかにとらえるかについての明確な理論を得られたという実感がありました。これは本来私たちがいかに心をとらえ、説明するための方法論を欲しているかを意味していると思います。私は精神医学を知る前には、それなりのインテリジェンスを備えてはいても、心についてそれを科学的な立場から論じることについては無知だったわけですから、その時の私の心のとらえ方は、おそらく精神医学や臨床心理学に対して専門的な知識を有しない人々が持つある種のプロトタイプを表しているのではないかと思います。つまりもし私が例えば文学とか政治学とか、物理学を専攻していて現在に至り、人の心を扱う仕事に就くというめぐりあわせになったら、60歳の私は、やはり精神分析にまずは希望を見出すであろうということです。 
精神分析に関して私の心をつかんだのは、たとえば抵抗の概念だろうと思います。クライエントが二回続けて遅刻する。何らかの偶然のように思えるが、そこに治療に対する抵抗が存在するかもしれない。おそらく。そしてそれはたとえば前回のセッションの最後に治療者が発した言葉につながっている可能性がある。それを治療において扱う。そこからクライエントの無意識部分が少しずつ露わになっていく・・・・。
しかし私が実際に出会ったクライエントは、それこそ一人一人が異なっていて、患者さんの遅刻は治療への抵抗かもしれないし、全くの偶然かもしれない。電車が事故で遅れたのかもしれないし、家でパートナーと言い争いをしていて来るのが遅れたのかもしれない。全くケースバイケースで予想が出来ないわけです。それについてコメントすることで生じる関係性の変化についても全く予測不可能なところがある。「遅刻を抵抗としてとらえる」という方針だけでは全くカバーしきれない数えきれないほどの可能性と不可知性、偶然性をはらんでいるのが現実です。
私が臨床を通じてむしろ面白いと感じたのは、この無限に思えるバリエーションであり、それでもその中に漠然と見えるパターンや規則性です。おそらく人を扱ううえで、ある種の読みを行うことが出来ないとしたら、対人関係は人の心を混乱させるだけでしょう。ところが人の心にはある種のパターンがあり、それはその人それぞれに固有のものであり、また人間一般にある程度当てはまるようなことだったりする。私たちはおおよその予想や推量を行って対人関係を営んでいますが、時に驚かされたり、意外に思ったりすることもあり、ある意味では偶然性と必然性の混淆状態で生きているわけで、そこがまた面白いところなのだ。それともう一つ、人の心を十分理解できなくても、こちらから作っていくところがある。おそらくその部分があることで人は混とんとして予測不能の人間関係の中を泳ぎ切っていくのだろうと思います。
そこで複雑系という概念について一言。
複雑系の定義は様々ですが、一言でいえば、決して定常状態に行き着かない系、ということでしょう。その系の中では正確な意味での反復は生じえない。なぜならある一部における反復は、ある一定時間ののちにその系の状態がその構成要素の運動ベクトルも含めて元の状態に戻る、ということでその後の反復が予想されます。するとその系は反復を永遠に繰り返すという意味での定常状態に達することになるでしょう。しかし実際にはそのようなことは私たちが知っているあらゆる系において生じません。それは決定論的な法則に従って動く系についてもそうです。例えば二重振り子を例に考えるといいでしょう。一定以上の高さから振り下ろす二重振り子は、決して定常状態に至らないのです。

2017年2月25日土曜日

脳科学と心理療法 ②

私が最初に言いたいのは、これらの研究が示す人間の心の働きの持つ非線形性と、それとは対比的な、臨床において未だに跋扈している驚くべき還元主義なのである。
  例えばある患者さんが言う。(架空の話である。実際はテレビで見た精神科医のコメントをヒントにした創作。)
外に出るのに、マスクがないと不安なんです。
精神科医:うーん。マスクをかけるというのは、ある意味では社会との間に壁を気づくことです。それに慣れてしまうことは・・・・危険なことだと思います。
この種の会話は日常生活でいくらでも溢れている。根拠のない、しかし間違っているとも言い切れないコメントやアドバイス。おそらく人間の心の性質は、人類の歴史が始まって何万年もたち、ギリシャで哲学が始まってから(あるいはそれ以前から存在)1000年以上たっても新たに解明されない一つの要因だろうか? 人の心や行動が重決定されるということだろう。小説や映画のモティーフが変わらないのも同じ理由だ。
 私たちの日常生活における心の在り方を理解する決め手は、決定論であり、因果論である。本質主義ないしは実証主義と言ってもいい。(本心はAであり、それが言動Bに影響を与えている)
 もう一つ。
 精神科医の言葉。彼女に抗鬱剤は出しませんよ。当然のことです。彼女は時々気分が高揚し、病気が治った、また仕事に復帰できる、と感じるときがあるそうです。明らかに躁状態の兆候です。双極性障害に抗鬱剤は禁忌です。
うーん?
実はこんな例は心理、精神科臨床にあふれているのである。もう一つ行こうか。
患者が話に詰まってメモを取り出す。治療者はそれを制す。「ここはあなたが頭に浮かんだことを自由に話すことです。メモを見たらその自由さが失われてしまうではないですか?」

うーん、

2017年2月24日金曜日

神経科学と心理療法 ①

「神経科学と心理療法」 というテーマで原稿用紙7枚。つまり2800字か。
でもこのテーマ、簡単ではない。というかあまり論じられているものがない。なぜ私なのだろう?
こんな感じになるだろうか。神経科学的な知見はきわめて多くみられる。しかし臨床で行われているのは、単純な因果論や象徴理論に基づくもの。診断も精緻化されているとは言えないし、解釈的な正確さについては懐疑的な目が向けられている。おそらく臨床場面で行われている会話は変わりないのだ。
いろいろ資料を調べることもできるが、本題から入る。
最近の心の理解は心の非線形性に注目している。たとえばこんな本を紐解いてみる。
James Rose, Graham Shulman eds. (2016) The non-liner mind.psychoanalysis of complexity in Psychic Life. Karnac.
これは複雑系から脳に迫った学術書である。それにより何と精神分析を理解しようとしているのだ。そしてカオス理論が治療にどのように役立つか、と言うことももくろんでいる。すごい本だ。
そうしてもう一冊。
Hassin, RR, Uleman JS, Bargh, JA eds. (2006) the New Unconscious Social Cognition and Social Neuroscience. Oxford

この本は基本的には社会神経科学に関するものであるという。結局これも脳の構造や働きから人間の社会行動を見直そうという動きを反映したものであり、そこには非線形性や複雑系理論が関与している。
私が最初に言いたいのは、これらの研究が示す人間の心の働きの持つ非線形性と、それとは対比的な、臨床において未だに跋扈している驚くべき還元主義なのである。



2017年2月23日木曜日

「自己愛トラウマ」の推敲 ②

フロイトは天才!ということで締めくくった(下線部分)。こうすると収まりがいい。


この自己愛トラウマの概念を導入することで、一つの仮説が生まれます。それは愛着の段階からトラウマが生じた場合、怒りや恥、偽りの自己、解離反応といった様々な病理が生まれるであろうということです。
 ではフロイトの場合はどうだったのでしょうか? やはり私が仮想的なフロイトとの会話で述べたことが考えにあります。フロイトは父親や母親との間で、十分に自己愛を受け入れてもらえなかったのではないか?
ただここで私は一つの注意書きをしておきたいと思います。それはフロイトは驚くべき生産性を備えた天才であったということです。もしある人が通常の人の何倍ものアイデアを思いつき、それを書き留めたり実行したとしたら、その人の持つ自己愛のあり方はかなり通常の人とは異なった形にならないだろうか?ふつうの人なら考えを書き送るのに一通の手紙を送るところを、フロイトは数十通を必要とするならば? 彼が「聞いて欲しい、見て欲しい」と思う量が、通常人の数十倍だったらどうであろうか? おそらく彼は周囲の人々にわかってもらえていない、共感してもらえないという自己愛的な欲求不満をより強く体験するのではないだろうか? フロイトの自己愛的な傾向は、「天才としての病」として生じていたのではないか? これを私はしばらくは自分だけの仮説として取って起きたいと思います。

2017年2月22日水曜日

「自己愛トラウマ」の推敲 ①

この論文、まだいじっている。

さてフロイトはなぜ、自らが身をもって体験していた自己愛の問題を精神分析理論に反映させなかったのだろうか。フロイトはフェレンチにもユングにも、その離反について、エディプス的な解釈をしました。
「ユングは父親コンプレックス (エディプス葛藤を解決していない。だから私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。フェレンチも結局はそうなった。」
 ここに表れているのは、フロイトが弟子たちの関係を、あくまでもエディプスの問題として扱ったという事実です。それはフロイトが自己愛の問題を意識化していなかったことを示しているわけではありません。ただ重要とは考えていなかったのです。なぜでしょうか?それは自己愛の問題は、少なくともフロイトの目には、無意識を介していない、ありのままの、見たままの問題だったからです。フロイトは初めから露わになっているものには興味がなかったのです。それは見たとおりのあたりまえのことであり、それ以上の病理を生む可能性はそこには想定されなかったのです。
そこで生前のフロイトの時代に戻って、フロイトにこう尋ねたらどうでしょうか?「フロイト先生、お尋ねします。あなたがそれだけ誰かの注目を浴びたいのは、実はお父さんから十分に認めてもらえなかったからではないですか? そのことの自己愛の傷つきを十分に意識化されないままに、ほかの人に向かっているということはないのですか?」
これに対してフロイトはこう言うだろうと思います。「私が父に抱いていて、意識化していなかったのは、殺したいほどの憎しみだよ。私は父の死の際にそれに気が付いたのだ。それに私にはおそらく無意識に同性愛願望があるのだろう。父親に愛されたかったということだろうね。言っておくが、人に認められたい、という願望は勿論ある。でも病理とは無関係なんだよ。何しろセクシャリティーと無関係だしね。私が父親を憎んだのは、母親に対する性的願望を禁止されたからだよ。少なくとも私の説ではね。それ以外は意味がないのだよ。・・・・」 こうしておそらく議論はかみ合わないままになるでしょう。
ここで100年の歳月が流れて、その後の精神分析の流れを知っている私たちは、フロイトに提言するとしたら、以下のようになるでしょう。

2017年2月21日火曜日

錬金術 22

推敲も大体終わり。

ヒレをパタパタして卵に水を送るヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。そうすることが苦痛なら、とっくの昔に育児放棄してしまうはずだ。本能に従った行動それ自身が緩やかな快(あるいは強烈な快かもしれない)を伴うのは、その本能的な行動が中止されないための重要な仕組みと考えられる。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うためにそれ自身が大きな不快や恐怖にも転じかねない。だからこそ当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。
これらの事情は私たち人間にとっても変わらない。食行動、生殖行動など、明らかに本能に深く根ざしている行動には強い快感が伴う。また無意識的に行っている、いわばルーチンとなった行動についても、穏やかな快感くらいは伴っていることが多い。例えば人は決まった通勤路を歩いている時には、その行為について意識化していないことが多いが、おそらくはある種のゆるやかな快を伴っているからそれが続けられるのだろう。だから風邪などをひいて体調を崩しているときには、すぐにその活動は不快に転じてしまうので、少し歩いては見ても、結局はタクシーを呼んだり、道に座り込んでしまいたくなったりするはずである。
私たちが無意識に、あるいは習慣で行う行動にも、快原則はそっと寄り添っているのだ。

2017年2月20日月曜日

錬金術  21

今日はここら辺の推敲だった。

偉大な魂はブレない報酬系を持つ
 最後に偉大な魂と愛他性の問題について触れたい。物事に固執せず、余計な期待をせず、諦めがいい心と愛他性問題はどのように関連しているのだろうか? あるいは両者に果たして関連性はあるのか? 実はあるのだ、と私は考える。
 愛他的であることは、自己愛的な満足を得ることとは対極的である。自己愛な人とは、他人から満足体験を吸い取る人である。人が自分を振り向かなかったり、自分を称賛しなかったりすると不満に感じ、怒りを覚えるのだ。愛他性の場合は、他者からの関心、愛情という入力ではなく、自分からの出力が問題となり、それは出力である以上自分のコントロール下に置くことが出来る。人から愛される保証はなくても、人を愛することはいつでも好きなだけ可能なのである。 ただし「諦めのよさ」それ自体は、愛他性と常に一体とはなっていない。愛他的であることは「諦めのよさ」に貢献する要素であるとしても、愛他性を含まない諦めの良さもある。たとえばプロのトレーダーを考えよう。一つの銘柄で思いがけない損失が出たからといってアツくなることなく、それはそれで諦め、善後策をもって冷静に対応するだろう。他方投資の依存症に陥っている人の場合は、損失が出ると諦めるどころか一気にカーッとなって、それを取り戻そうと、さらに無理な投資をするかもしれない。優秀なトレーダーであるということは、例の射幸心がいたずらに刺激されないことである、と言い換えることができるかもしれない。しかし私の中では、それは死生観ともつながっていく。というかそちらに結び付けていかないと話が面白くない。

2017年2月19日日曜日

錬金術 ⑳

今日新たに書き足した部分

最近の脳科学では、ハイの状態が体験されなくなっても、その行為がやめられない状態、いわゆる「渇望」の状態においては、明らかに正常とは異なる脳の変化が起きていることが確認されている。そしてその状態は体験的には、不安、興奮と言った状況に近いということが示唆されている。より具体的には、いわゆる背側線条体という部分や側坐核に大きな変化が起きている。それが動機づけシステムなどを巻き込み、嗜癖薬物や嗜癖行動の獲得へと駆り立てるのだ。
なんと恐ろしいことだろう!
 最後に薬物中毒で脳が変化してしまうということを示すためによく使われる画像を紹介しよう。NIDANotesOctober 01, 2010, Carl Sherman)という学術サイトに掲載されているもので、引用元はテキサス大学のクリストファーコーワン先生のグループの論文(Pulipparacharuvil, S., et al,2008)である。
Pulipparacharuvil, S., et al. Cocaine regulates MEF2 to control synaptic and behavioral plasticity. Neuron 59(4): 621-633, 2008.

上下の写真は側坐核という部分の神経線維の樹状突起が、コカインの使用によりどのように変化しているかを示す。上はコントロール群で、下はコカインの常用によりMEF2の活動が抑えられた場合で、デコボコが増えており、そのような変化が脳で起きているということを示す画像である。ただし最近の研究で、樹状突起のデコボコの増加は、動物がコカインの使用に耐えるように変化したのであり、このデコボコの増加を抑制したネズミは、さらにコカイン中毒が悪化するという研究もある。研究とはこのように予想もできない進展を伴うものだが、ともかくもコカイン中毒が脳のレベルで重大な変化を伴うということだけは確かだと言えるだろう。

2017年2月18日土曜日

錬金術 ⑲

今日は自傷行為の当たりを推敲している。

この自傷行為は人間だけに見られるものではない。たとえばアカゲザルは自分を噛むという行為をしばしば見せるという。一般に霊長類は極度に退屈すると常同行為をはじめ、終いには自分自身にかみつくという行為に及ぶという。いっぱんに動物がフラストレーションを与えられて逃げ場をなくすとき、それは自分の一部を繰り返し噛むようになることが観察されるそうだ(O'Connor2012)。
(以上、
Rebecca O'Connor 2012The Science of Self-Mutilation. National Geographic Blog June 22, 2012.
ある心理学者の書いた記事は、自傷行為について一つの重要なヒントを与えてくれる。ロレッタ・ブルーニング博士 (Breuning, 2013はその論文で、霊長類の観察を通して、動物が毛を抜く行動は、単なるトラウマやストレスのせいだと理解するわけにはいかないと主張する。サルの子は親が自分の毛を抜くのを見て模倣することもあるという。そしてこれが一種のグルーミングの延長にあるという理論を提唱する。グルーミングは基本的には自分を慰撫する行為 self soothing behavior であることは確かだ。動物はそれを相手に対して行い、社会的な結びつきを深めるが、自分に対しても行う。それが度を外した形で生じるのは、ストレスやトラウマに対してそれを回避する手段がない形で追い詰められた状態であるというのだ。
Roletta G. Breuning, RG (2013) “Self-Harm in Animals: What We Can Learn From It. Self-destructive behaviors get repeated until they’re replaced.( Posted May 21, 2013 at Psychology Today”Website) 
このことを冒頭の女性の例と一緒に考えてみよう。自傷行為は追い詰められて極限状態に置かれて生じた。飛び降りは極度のフラストレーションを和らげてくれたのである。それが彼女が言った「緊張を和らげてくれる」という意味なのだ。ただここで一つ不思議な現象がある。それは自傷行為は痛みを通常は伴わないということである。それよりはむしろ快感を、ハイを感じさせる。

2017年2月17日金曜日

錬金術 ⑱

ここら辺、筆が結構なめらかで、あまり直すところがない。

自己欺瞞を支えるのは何か? どうして四尾しか釣っていなかったことを忘れる事が出来るのだろうか?私の考えを示そう。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。私が前章で「自然な忘却」と呼んだもので、これが自己欺瞞においては一層鮮明な形で生じる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くこと。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考であり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。そしてそれが舞台裏に押しやられることで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとする。後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船のようなものなのだ。
実は哲学者サルトルも、この私と似たような説明をしているのを発見して、私は心強く思った。ということでサルトルに立ち戻ろう。
 自己欺瞞を哲学的に表現すると、実はとても難解である。それは例えば次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」(富沢克、他、2002)。

富沢克、古賀敬太 ()「二十世紀の政治思想家たち新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。

ここに次の様な説明が入ればわかりやすいかと思い、考えてみた。人間とは自由であることを運命づけられている。人間には自由であること以外の存在の仕方はできない。しかし同時に自由は「不安」と表裏一体である。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っている。それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫びだし、周囲の人々から一斉に怪訝の目を向けられるかも知れないのだ。自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前では礼儀正しくふるまい、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。これは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。道端の石ころとか、机の上のペンのように、おとなしい聴衆の一員に過ぎないというわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
「存在と無」には、こんな例が出てくる。ある男がぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。
「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」
イソップのすっぱいぶどうの例のようだ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。
しかしでは自己欺瞞は糾弾され、否定されるべきことなのだろうか? 実は人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。それは私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っている。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な記載をしているが、私の考えとほぼ同じだ。


われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(P.223)

2017年2月16日木曜日

錬金術 ⑰

自己欺瞞って、噓よりも重要なテーマかもしれない

サルトルの言う自己欺瞞の意味するところは、社会的なプレッシャーにより、自分の内側から出てくる自由や心のそれにより信じるに至っている行為を捨てて、誤った価値観を持つこと、という意味とされる。もう少しわかりやすく言えば、「自分を偽る」、ということだ。Aという思考や感情を持っていることをどこかで自覚しているはずながら、自分自身にとってもそれを持っていないことにする。
本書は哲学書ではないから、ここからはサルトルの自己欺瞞のテーマからは離れて「自分自身に嘘をつくこと」という理解を前提として議論しよう。すぐ明らかになるのは、自己欺瞞は、虚偽(きょぎ)、嘘、とも違うということだ。虚偽や嘘は自分が他人に対して嘘をついているという自覚がある。つまりAの存在を自分自身には認めているのだ。前章で扱った「弱い嘘」では、釣った魚が実際には四尾だけであったことを知っているのだ。ところが自己欺瞞はそれがあいまいになっている。おそらく四尾だった、ということは心のどこかにあるのだろう。そして同時に、六尾だったのだ、と自分に対しても周囲に対しても言うのだ。だから自分にも嘘をついている、というわけである。ちなみにこの自己欺瞞とは、心の理論の代表格である精神分析理論には出てこない。しかし実際には分析で言うところの「否認」に類似するものと考えることが出来るだろう。

さてこの自己欺瞞の問題がどうして報酬系と関係するかと言えば、これもまた結局は自己中心性、自己愛傾向、他人を利用して自己を利するという問題と複雑に絡んでいるからである。わかりやすく言えば、自己欺瞞もまた、私たちの多くに心地よさをもたらすのであり、だからこそ私たちはこれを捨て去ることが出来ないのである。でも明確な嘘と違い、自己欺瞞は非常に微妙な、目に見えない形で生じる。ひょっとしたらすべての人間が、多かれ少なかれ自己欺瞞を抱え、またそれを自分も知らず、他人にも明確な形では露見せずに済まされている。その意味では自己欺瞞こそが万人に共通した問題であり、そして一番論じるのが難しい問題なのだ。哲学者サルトルをもってして始めてクローズアップされた問題といえるだろう。ただし自己欺瞞はおそらくそれを行っている周囲の人は、「あの人は何かおかしい」「理由は分からないが、どうも信用できない」という漠然とした感覚を持つかもしれない。そう、自己欺瞞の存在は周囲の人間により、それこそ動物的な勘でその存在が気付かれるものなのだ。

2017年2月15日水曜日

錬金術 ⑯

今日はここら辺を推敲。オードリーの話が出てきた。

昔こんなことがあった。アルバイトで勤務していた精神科病棟の主任看護師はオードリー(仮名)という中年の黒人女性だった。彼女はいつもニコリともせず、冗談が通じないとは思っていたが、与えられた仕事はきっちりしていたので、あまり気にしないでいた。ところがある日私がナースステーションにあったボールペンをポケットにしまおうとするのを目ざとく見つけ、「先生、それは病院の備品ですよ。」と注意してきたのである。私は最初オードリーが冗談を言っているのだと思い、「そうだね、泥棒になっちゃうね。」とおどけて言ったが、オードリーはニコリともせず、大真面目である。実は私はその日筆記用具を忘れてきていて、ナースステーションのペン立てに無造作に入っていた安物のボールペンの一本をカルテ記載に使った後、そのまま拝借して別の病院に向かおうとしていたのだ。まだオードリーの大真面目さに気が付かなかった私は「じゃ、貸してもらうということでよろしくね。」ところがオードリーは姿勢を変えない。「ドクター、それはいけません。備品の持ち出しは禁止されています。」私がこの20年以上も前のエピソードを、オードリーの名前や表情を含めて覚えているのは、彼女の融通の利かなさがあまりにも印象的だったからである。不思議なことであるが、私はオードリーを人生であった最も倫理的な人、として記憶しているわけではない。むしろこれまでで一番印象深い人たちの一人として思い出されるのである。

2017年2月14日火曜日

錬金術 ⑮

今日はここら辺を推敲していた。

快を善とする心の成り立ち

人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が興奮してくれることは、絶対的に肯定する傾向にある。自分はこれに生きるのだ、と感じる。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心を癒すために戻って行く自宅やすみか、と言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することはそれだけ難しくなるであろう。それを隠したり、何度もやめようと試みる場合もある。しかし逆にそのような問題がないのであれば、その行動はその人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験されるのだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸い深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだったとしよう。周囲でも喫煙をとがめたり後ろめたさを感じさせたりする人はいない。私が若い頃の昭和の世界は、皆がどこでも自由にタバコを吸い、そのために通学のために毎日乗っていた汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、タバコの煙でもうもうとしていたものだ。若い頃に勤めだした精神科の入院施設では、男子の大部屋では患者が普通に寝タバコをしており、畳に焼け焦げがあちこちにある、そんな時代だったのだ。
 その「愛煙家」が突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと思うだろう。「煙草のない生活を考えることなど出来ない。一体誰が何の権利があって、煙草をやめさせようとするのだ!」
 やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、昭和生まれの彼は喫煙に本当の意味で後ろめたさを感じることはないかもしれない。「どうして昔は全然問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「他人の健康にとって害になることは、他にいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう!」などと屁理屈をいくらでもこねるだろう。
覚醒剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンのTが、こんなことを書いていた。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ ネット版2016 212()配信)
覚醒剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごく納得がいく話である。もちろんTの薬物の使用を正当化しているわけではない。ただ彼の発言は、薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。休息といえば私たちにとって必ず必要なもの、適度な量ならばそれを得ることは当然肯定されるべきものである。その感覚が、覚醒剤を用いたときにも体験されるという点が興味深く、また不幸なことなのだ。そしてその際両方から得られる心地よさの架け橋となっているのが、報酬系の興奮なのである。


2017年2月13日月曜日

錬金術 ⑭

神経ネットワークと快感、審美性

これまでに述べたことは、ひとことで言えば「脳の神経ネットワークは、その興奮それ自身が快感を生む傾向にある。」ということだが、シンプルな提言の割にこの意味は深い。曲そのものは時間と共に徐々にその興奮箇所が進行するような神経ネットワークを脳内基盤としていることになる。それがある種の形式を持ち、そこにある種の審美性を感じさせるときにそれは緩やかな、あるいは場合によっては強烈な快感を呼び起こす。
その際この神経ネットワークの興奮が快感を伴うための条件がある。それはそれが適度の新奇性 (novelty すなわち目新しさ)と、適度の親密性 (familiarity それにどれだけ慣れているか) の両方を備えていることである。新奇性+親密性=興奮、というわけだ。たとえば先ほどのG線上のアリアは、初めて聞いた時は新奇そのものであろう。しかし長くのばされたE音(ミ)の背後のコード進行についてはもちろんどこかで聞いたことがある。だからある程度の親密性も保障されている。それに何度かこの曲を聴いて行くうちに、そのこと自体がこの曲に対する親密性を増していく。しかし繰り返して聞いていくうちに、当然ながら新奇性が失われて行き(つまり「飽きて」しまい)、親密さの要素だけが残り、快感は薄れてくる。
ただし「使い古した」G線上のアリアの神経ネットワークが、新たな新奇性を付加されたなら、また上の「新奇性+親密性」=興奮の法則を満たすようになる。例えばバイオリン以外の楽器で演奏されたり、ジャズ風にアレンジされたりしたなら、また新奇性と親密性が適度に交わり、報酬系を興奮させることになる。いわゆる「カバー曲」のコンセプトだ。

ところである神経ネットワークが快感とともに体験され、また別のものは不快として体験されるという傾向については、ある程度の一般性がある。つまりある人にとって心地よい曲は、別の人にも心地よい可能性が高くなる。だから流行が生まれるのだ。ではどのような神経ネットワークが、より多くの人の報酬系を刺激するのだろうか? この問題は美学や認知心理学にもつながる問題だが、それが黄金比率に従っていたり、対称性を含んでいたり等の条件を満たし、そこに加える新奇さの匙加減がかかわっているのであろう。

2017年2月12日日曜日

錬金術 ⑬

今日はすごく時間をかけて絵を描いた!

走化性(ケモタキシス)という仕組み

匂いに向かって進む性質、それはC.エレガンスはおろか、なんと単細胞生物(!)にも存在することが分かっている。それを走化性 chemotaxix と呼ぶ。“chemo”とは化学の、“taxi”とは走る、という意味だ。タクシー、というではないか。
 
生命体は、濃度勾配に関して左右の受容体で異なる反応をすることで、向かうべき方向性を感知し、進路を選択する。


化学物質に濃度勾配があれば、鞭毛(細く長い、ムチのような毛)を持った細菌などはそれに従って移動する。いや鞭毛をもたない白血球なども同様の行動を示すという。そして何に向かって走るかにより、温度走性(温度の勾配に沿って走る)、走光(明るさの勾配に沿って走る)などがあるが、医学の分野との関連で濃度勾配により移動をする走化性の研究がずば抜けて多いのは、これが生物学と医学の両方で特筆すべき重要性を持っていることの証である。何しろ1700年代初頭にレーベンフックが顕微鏡を発見した時から、「なんだ、この細胞、ジワジワと一つの方向に動いているようだぞ!」ということが発見されたという。生命のもとになる単細胞が、どこかに向かって泳ぐ(というかジワジワ動く)ということが分かっていたのだ。そしてそれがある種の化学物質に向かう、あるいはそれを嫌って避けるということは、その細胞の基本的な性質としてあるのだ、という認識が高まってきた。あとはその研究の歴史が延々と続くのである。由来はCエレガンスどころの話ではなかった・・・・・。Cエレガンスは多細胞生物である。体長一ミリ、細胞の数は1000前後の立派な体を持っている。彼が「走る」のはむしろお茶の子さいさいのはずだ。
科学者たちが考えている仕組みは、おそらく私たちが持つであろう発想とあまり変わらない。身体の頭部に左右に分かれたセンサーが存在する。右方向が感知した物質濃度と左側のセンサーが感知した物質濃度に差があれば、高い方に頭が向かう、という類の装置が容易に走化性を成立させることになる。
 ではどのような形で走化性が生じるのだろう? たとえば鞭毛を持っている細胞の場合次のようなことがおきるらしい。反時計回わりをすると、鞭毛はひとまとまりになる。それにより細菌は直線的に泳ぐ。そして逆の時計回転をすると、繊毛がバラバラの方向を向き、その結果として生物はランダムな方向転換をするという。要するに逃げる、ということなのだ。そしてそれが起きるために存在するべきものがある。リセプター(受容器)だ。細菌がXという匂いに向かっているとしよう。するとXの分子が最近の表面にあるリセプターにくっつく。そこからさまざまな化学反応を誘発するのであるが、簡単に言ってしまえば、一瞬前のXの濃度に比べて、現在の濃度が上昇しているか、下降しているかにより繊毛の回転方向が決まってくるわけである。たとえばリセプターが細胞の表面に沢山あり、ある時点でそれのNパーセントにXがくっついているとしたら、しばらく走るとNプラス1パーセントに上昇したことで、細菌は「ヨッシャー、この方向や!(なぜか関西弁だと雰囲気が出る)」とばかりに鞭毛を反時計回りにブルンブルン回すという仕組みが出来ている。

2017年2月11日土曜日

錬金術 ⑫

今日は第12章のこのあたり。

恋愛状態にある人の心は確かに複雑かつ純粋だ。同時に利己的で利他的な状態。生殖のためにはこれほど不安定な状態を作り出すのだから、自然界の力はすごい。
恋愛感情が持つこの不思議な性質を、通常の愛とは異質のものと認識したくなるのは当然であろう。そこにはいったいどのような相違があるのか。ここにも脳科学的な最新の知見が理解の助けとなる。

ゼキ博士によると、結局脳科学的には、恋愛感情と性的感情は脳の興奮部位としては非常に近いということだ。ともに前帯状皮質が興奮しているし、視床下部もそうだ。そしてこの視床下部は、母性本能が発揮される際には静かであるという。もちろん赤ちゃんからのタッチはパートナーからのタッチとは違う。そしてその「違い」は視床下部が興奮しているかどうかということが決め手らしい。

2017年2月10日金曜日

錬金術 ⑪

今日はここら辺を推敲した。

そこでこう問うてみよう。コンバットハイに陥る人は反社会性を備えたサイコパスなのであろうか?サイコパスであれば、他人に危害を加えることを快感と感じるはずである。そしてサイコパスならそれこそ幼少時から、動物を虐待したり他人に暴力をふるったりという行為がみられることが知られている。他方戦場で敵を撃つことの快感に「目覚めて」しまった人の場合はどうだろうか?その場合はコンバットハイはしばしば強烈な罪悪感や自己嫌悪を引き起こすに違いない。しかしそれでも自分をコントロールできないほどにそれを生きがいに感じるようになったとしたら・・・・。
昔から小説に出てくるような用心棒や殺し屋のイメージが重なる。私がこの問題を考えるときいつも頭に思い浮かぶ浅田次郎の作品「一刀斎夢録」を紹介しておきたい。そこに描かれる新選組三番隊長・斎藤一は優れた人間性を備え、明治時代に入ってからは警察官を勤めた人間である。浅田は斉藤を妻にも繊細な心を配る人間として描くと同時に、剣により人をあやめることにまがうことのない快感を得ていた人物として描く。彼はまさに剣の与える快に囚われた人生を送ったと言えるだろう。

2017年2月9日木曜日

錬金術 ⑩

報酬系は自傷行為により細胞死を防く(おそらく)

勿論自傷行為、例えばリストカットなどがパニックボタンとして作動する保証はない。というよりは普通私たちはどのようなストレス下でも、それを痛みと感じてしまい、余計大きなストレスとなることを知っている。しかし例外的な人たちもまたいる。その人たちの場合に自傷がパニックボタンとして成立する過程を考えよう。 
たとえば非常に大きな心のストレスを抱えている人が、髪をかきむしり、頭を壁に打ち付けるとしよう。すると少しだけ楽になることに気が付く。それまでは痛みという不快な刺激にしかならなかったはずのそのような行為が、突然自分を救ってくれることに気が付く。試しに腕をカッターで傷つけてみると痛みを感じず、むしろ心地よさが生まれる・・・。こうして普段は絶対押すべきでないボタン、と言うよりはそこに存在していなかったボタンが、緊急時用のパニックボタンとして出現する。
 自傷による報酬系の刺激は、このように一種の心身にとっての「駆け込み寺」となる。そこが発動することで、精神は破綻を免れる。精神の、というよりは中枢神経系を保護する役割を果たすのであろうと私は考える。危機状態が長く続くと、神経細胞のアポトーシス(自然死)を起こしかねない時に、報酬系はその興奮を強制的に和らげる。その意味で神経を保護しているのだ。最近の「神経保護neuroprotection 」というテーマは、それだけで一つの学会が出来るほどだが、( “Global College of Neuroprotection and Neuroregeneration (GCNN)”)報酬系は細胞死を防いでいる、というのが私の仮説である。
神経細胞は過剰な興奮によりカルシウムチャンネルが開いてたくさんのカルシウムイオンが細胞内に流入して、それが細胞を殺してしまうという、先ほどのアポトーシスという現象が生じるのである。報酬系がすることは、快感を提供するというよりは、過剰な興奮にさらされている神経細胞を強制終了してしまうという意味があるのではないか。まさに英語圏の人々が言うところのreduce the tension が生じるというわけだ。その意味では、渇望自傷行為に至る状態、ということが出来るのではないか。


2017年2月8日水曜日

錬金術 ⑨


今日はここら辺を直した。

抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?
先ほどのべた政治家の心のプロセスをもう少し探ってみよう。この政治家が賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということは起きるだろうか? もしそうなった場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に「忘れて」しまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する政治家に、基本的には良心の呵責はないことになる。これは一種の魔法のようなものだ。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの心の中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? 「出来る」とフロイトはそう考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識に留められると考え、それを「抑圧」と呼んだのだ。わかりやすく言えば、思い出すのが嫌なことは、一時的に心から追い出すメカニズムがあると言ったのだ。忘れるという現象が生じることをつたえたのだ。そしてこの抑圧が生じるための心の痛みとして、フロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」であった。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ある女性が職場でセクハラを受けた、という例を選びたい。フロイトもこの抑圧が生じる原因として主として考えたことは、性的な内容だったからだ。その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのではないかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやる(抑圧する)ことができる、とフロイトは考えたのだ。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認、否定、排除、抑制、解離 ・・・・・ とたくさん考案されているが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の「忘れてしまう」こととは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台の袖や舞台裏では別のことが進行している。しかしそこにはスポットライトが当たっていず暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。
ここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えたくないので抑圧する」とフロイトはサラッと言ったが、それが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいのである。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないかも知れないからだ私たちにとっては、あるひとつのことを考え続ける、やり続けるというのは比較的シンプルな課題である。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところがあるひとつのことを決して考えない、というのは決して単純な課題ではない。とくにそれが不快な考えの場合は、それが再び心に入り込みそうになると、それを押し出すという努力をする、ということの繰り返しとなる。そして心から押し出すための方法には具体的にどのようなものがあるだろうか それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それらは本当に有効なのだろうか 

2017年2月7日火曜日

錬金術 ⑧

「仮置き」という名の禁じ手

ところで小保方さん事件の後、私はなぜ研究の捏造が行われるのかについて興味を持ち始めた。小保方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、そして某有名大学の医学部で生じている論文の不正に関する報道を目にしながら、私は今、恐ろるべき可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか? 
しかし考えてみれば、高知能、社会的な適応を遂げたはずの人たちの多くが脱税や贈収賄などの罪を犯すことは周知のとおりである。ということは犯罪行為は一般の人でも容易に行われうるということなのだろうか?私たちはそれほど反社会性を備えた存在なのだろうか?
論文の不正のテーマに戻るならば、科学論文はその気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
それにしても私は最初、犯罪者でもない人たちが、どうしてありもしないデータをでっち上げて論文を作ることができるのかがわからなかった。論文を書く人たちは高い知能だけでなく、当然世間の常識や通常の倫理観は備えているだろう。どうしてそのような人たちが窃盗や万引きまがいの罪を犯すのだろうか?

この問題を考えていくうちに、いくつか納得のいく事情を知ることができた。これもまた報酬系の問題なのである。その決め手となったのが、データの「仮置き」という行為だった。ある論文を書くとき、仮説の通りのデータが得られた場合を想定し、その仮想的なデータを組み込んだ論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの「仮置き」というそうだ。ある大学での論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまった、と説明された。あってはならないことだが、「仮置き」を弄ぶ習癖が生まれたらどうだろう?「マイクロサイコパス」のレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?

2017年2月6日月曜日

錬金術 ⑦

昨日はこの部分。図を描き代えた。

期待そのものが快感である

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っているとき、その期待それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでますますアツくなる、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの射幸心の話とは違う。期待しているときにすでに快感を得ているという体験は、射幸心を持つかどうかにかかわらず、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、生きていることそのものがすでに楽しい、というのが私たちの健全な心のあり方かもしれないのだ。そう、私たちの人生は、精神的な病やトラウマの影響を受けていないのであれば、デフォールトが楽しいものなのである。
話を大きくせずに、ギャンブルの話に留まろう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは、ハマらない限りは、人に「遊び」という感覚、純粋に楽しい、という感覚を生むのだ。
たとえば1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、30分以内にあなたはそのお金をすべてお店に献上して店を出てくるだろう。でもあなたは不幸ではない。あなたは1000円を支払うことで、30分の間に自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に付けたわけでもない。でもきっと思うだろう。
30分こんなに楽しんだのだから、1000円は安いものだ。」
 でもあなたはその30分の間、必ずある期待をしていたはずである。1000円を元手に手荒に稼ぐことを、である。これがあったからこそ楽しかったのだ。もしそのパチンコ台が決して勝てない台であるということを知っていたら、あなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。幸福な結果を期待して待っている時間はそれだけでも楽しいのである。
期待することそれ自身が快感である、という事実がどれだけ驚くべきか、私はまだ読者に十分に説明できていない気がする。もし私たちの報酬系がきわめて単純にできていたら、期待したものが得られなかったら、その分失望という名の不快として体験されるはずだ。
そこでここからは思考実験である。あなたがパチンコの玉一つを持っている。それを弾くと、中央口に入る確率がちょうど50%だとしよう。そして玉が入った時の快感をPとしよう。あなたはその玉を拾った、という想定にしよう。元手はゼロ円だ。玉を弾いて見るまで入るか分からないから、その時までの快は ½Pのはずだ。P×0.550%の確立だから)= ½Pというわけである。すると実際にはじいた球が中央口に入った場合は、残りの½Pが体験され、両方で1Pということになる。それは中央口に入ることが決まっている(入る確率が100%の)玉をもらうのと同等ということになる。もしそのように心が働いた場合にそれを図示するとしたらどうなるだろうか? それを以下の図1に示す。
図1
         
このシンプルな画像はこれからも何度か登場することになるが、ここでの基本的なコンセプトを示しておきたい。図の横軸は時間経過を指す。縦軸は「ドーパミン神経の興奮」の度合いである。そしてパチンコ玉をもらった瞬間、そしてそれが中央口に入った瞬間のその興奮の度合いが縦軸に示されている。そしてその縦軸の変化の内部が青く塗られている部分に注目していただきたい。これが鋭く立ち上がって徐々に低下するのは、パチンコ玉が手に入ったり、それが中央口に入ったときはその瞬間が最もうれしく、徐々に時間と共にその喜びは低下しているという心の動きはかなり一般的なものとみなせるであろうからだ。そしてその内側の青く塗られているのは、その体験の総量すなわち積分値を面積として表したものである。

図 2

次に図2は、玉が入らなかった場合の図である。こちらはマイナスの部分が臙脂色に塗られているが、これが示すところは期待が外れたことによりがっかりした気持ちの総量、積分値を面積で表したものである。この場合は当初の期待感を伴った½Pが、パチンコ玉が入らなかったことで-½Pにより相殺されたことを表す。そのときの心を描写するならば、「やっぱりね、どうせ入らないと思った・・・」とでもいったところか。
さてこれらの図1、図2は一見合理的なように見えるだろう。現在の脳科学でわかっていることは、快は時間とともに変化していくことであり、それはドーパミンの興奮の度合いと深く関係しているらしいのである。そして図2½P+(-½P)=0というのも理屈にかなうようだ。パチンコ玉をもらってうれしくても、それを無駄にしてしまったら、プラマイゼロだ。そんな体験は一日が終ったら忘れてしまう、ということになりはしないか。ちょうど一万円札を拾って喜んでよく見たら、1000万円と書かれたおもちゃのお札だと知ったときと同じである。


2017年2月5日日曜日

錬金術 ⑥

今日一生懸命手を入れたところ

「報酬系の興奮イコール善」とする根拠

それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。自分の良心に照らして肯定されるべきこと。それを追求することが誰からも非難されず、いかなる形での抑制も存在しないような願望なのであろう。
生命の進化において、心地よさが無条件で、なんの抑制もためらいもなく追求されることは、おおむね適応的なのだろう。あるいは生存にとって有利なものを心地よく感じ、純粋に追い求める個体が結果的に生き残ってきたわけだ。摂食と生殖にどん欲な人(つまり健啖家で色好みの人)が成功者の中には多いというのも、その意味ではよくわかる話だ。しかし快の追求がことごとく生命の維持にとって合目的的であるという時代はもう終わったのかもしれない。この飽食の時代には食べ物は生活に溢れている。快を追求したいならば、人は永遠に口当たりがよく安価なジャンクフードを摂取し続け、健康を害することが目に見えている。それが純粋に善であるというわけなどない。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残ってしまう。そしてコメディアンTのように、覚醒剤が「休息」として体験され続けるのだ。

結局は報酬系に従うことが健康の秘訣?

だから報酬系の刺激を追求することが善である、と言い切ることには当然無理がある。覚醒剤依存症の人の報酬系は、いわば覚醒剤によって乗っ取られた状態にあるが、そのまま使用し続け、自分の人生や家庭を破滅に追いやるのが正しいわけはない。しかし彼らの報酬系は、人工的な状況ないしは物質の使用により、本来あるべき姿がゆがめられたものである。人が自然に展開していく人生の中で、その報酬系をマイルドに刺激するような活動を見つけ、それが仕事を犠牲にせず、あわよくばそれを仕事に関連させることが出来たとしたら、その人こそ最も充実した人生を送ることが出来るのである。
たとえば幼いころより絵を描くことが好きで、常にスケッチブックを持ち歩いていたり、美術クラブで活躍し、良い作品を創ることが出来る人は、人や物を視覚的に描くような仕事に就くことはその人の人生をきわめて生産的なものにすることが出来るだろう。ただしもちろんその人が仕事を純粋に楽しむことが出来る保証はない。芸術家や美術の先生という道を選ぶとしても、自分の好きなテーマばかりを描いていたり、教師としての様々な業務を怠るわけにはいかない。注文に応じて大衆受けする絵を、本来自分が描きたい絵とは別に描く必要も生じるだろう。しかし本質的に絵を描くことが好きであれば、それに耐え、そこから新しい発想を得ることも可能であろう。
私はここから漫画家水木しげる氏にバトンタッチして、彼の主張を紹介したい。彼の著書「水木サンの幸福論」には以下の7か条が記されている。(以下略)

2017年2月4日土曜日

錬金術 ⑤

「ささやかな楽しみ」と報酬系

覚醒剤やタバコほどではなくても、人は毎日ある程度満足の行く生活を送っているのであれば、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後の冷たいビールかも知れない。ひと時のパチンコでもありうる。家族との団欒かも知れない。最近ならスマホをいじりながらだらだらと過ごす数時間に喜びを感じる人も多いだろう。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないし、夕食後眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。
これは生きがいというには大げさだが、一日がそこに向かって流れて行くというところがある。あなたはそのような時間を全面的に肯定しているだろうし、誰も自分から奪うことが出来ない、一種の権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。  
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?何かの法律だろうか? ちょっと極端だが日本国憲法を持ち出そう。条文にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法第25条)。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系の刺激には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかは難しい問題だろう。未開人は水道も電気も持っていなかった。冷暖房などあるわけもなく、夏は暑さに、冬は寒さに苦しんでいた。私たちの目からはとうてい彼らは「文化的な生活」を営んでいたとは言えなかっただろう。しかしそれでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在していたはずだ。それこそ狩猟に疲れた体を焚き火の残り火の前で休めるひと時だって彼らにとっては一日の最後に待っているかけがえのない時間だったかもしれない。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、それでも彼らは一日のどこかになんらか「ささやかな楽しみ」を作り出すことで、心のバランスを保っていたはずである。飲酒や喫煙だって重要な役割を担っていたに違いない。しかし、「飲酒や喫煙がなければ『文化的な最低限度の生活』とはいえない!」と主張しても、誰も耳を貸してくれないだろう。
結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいは下に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。場合によっては文化的な生活が保障されていても「ささやかな楽しみ」得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。それはどこかのコンビニのゴミ箱から見つけてきた賞味期限の切れた弁当をいただくことかもしれない。私たちの生活では常に「ささやかな楽しみ」は「文化的な最低限度の生活」に優先される、と言ったら大袈裟だろうか?
私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちの大部分が精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを生業として生きてきたはずだ。そしてそれはおそらく善、悪の感覚や、個人の権利の母体となった可能性がある。あるいはそれを見つけることが出来るような個体が生き残ってきたものと思われる。そう、今生きのこている生物は『ささやかな楽しみ』を見つけ、創り出すエキスパートといえるのかもしれない。
ここで報酬系の関与する快や不快が、善悪といった倫理観と結びつくというのが、この章の一番のポイントである。そして心地よい活動に浸っている時は、それに対する超自我的なチェックが緩むという仕組みがあるはずだ。それは「ささやかな喜び」を確保することへの後ろめたさを軽減しないための心の仕組みといえよう。
しかし・・・・・もちろんここに一つの大きな問題がある。「ささやかな楽しみ」はしばしば自分の中でも社会でも葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済ませられないと言われてしまう可能性がある。コメディアンTにとっては、一時の覚せい剤がこの「ささやかな楽しみ」だった可能性がある。しかしそれは彼のの人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「たのしみ」でもあったのだ。この場合は報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったり恐ろしい陥穽であったりもするのだ。