2016年12月21日水曜日

共同注視 推敲 ①

技法の概要
解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義されます。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えます。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらあると考えられます(Sandler, et al 1992
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考えます。一つにはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことです。そしてもう一つは解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素とは区別されるものという意義があります。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられますSafran, 2009) ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるでしょう。

そもそも解釈とは技法なのか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれています。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ません。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないでしょう。しかしそもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのでしょうか? 本来精神分析においては、患者が治療者から直接的に手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじます。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」)で次のように指摘しています。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきでしょう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけです。

 今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うことは間違いありません。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねないでしょう。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからです。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する打ち合わせや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性があります。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能です。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるでしょう。