2016年12月27日火曜日

自己開示ってナンボのものだろう? 1



またお仲間の先生方と本を作った。「臨床場面での自己開示と倫理」(岩崎学術出版社)である。共著者の横井先生、吾妻先生、富樫先生はいつも研究会を行っている、気心の知れた方々である。この題名に盛られた「自己開示」は、未だに臨床家の間では問題になることが多い。しかしこれを正面から扱った本は皆無と言ってよい。(実際ア●ゾンで「自己開示」を検索することで、それが確かめられる。)
 この間京都大学に客員教授でいらしたある英国精神分析学会のA先生も、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれたが、私が何かの話の途中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という様な趣旨のことを私が言ったことを捉え、キッとした目になり、明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」
私が非常にその人間性を高く買っている精神分析の先生も自己開示は決してやってはいけないとおっしゃる。私は当惑を禁じえない。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」などとは一言も言っていないのであるが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示は自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はないようである。さすがにここについては問題がない。
 本文でも書いている通り、私自身は「臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」という立場である。有名なフロイトの研究でも、彼は
43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ
Lynn,DE, Vaillant,GE(1998) Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: A review of 43 cases, 1907-1939 American Journal of Psychiatry 155(2):163-71 

やはり私が思うのは、「臨床家が自分に開示したことは、余りに大きなインパクトを患者に与えてしまう」ということなのだと思う。
少しフザけた表題を書いたが、私が思うのは、臨床家の自己開示は、いったいどのような価値があるのだろう?と思う。これもどこかに書いたことだが、昔精神分析のメッカともいえる研修先で、患者に自己紹介をしたら、それだけで驚かれたということがある。その研修先では治療者は匿名性を守って誰も自分のことを話さなかったのだ。そうなると誰にでも行う自己紹介(といっても身分、出身地程度である)さえもが「希少価値」を持ってしまう。でもこれはかなり人工的なものなのだ。