2016年11月28日月曜日

強度のスペクトラム 推敲 ⑦

「心の動かし方」の3つの留意点
さてこれまでに、私の「心の動かし方」が治療構造を内包している、という点について、そしてミット打ちの比喩、さらにその実践例として、低強度の精神療法の関係にあった症例A,Bについてお話しました。最後にその「心の動かし方」について、いくつかの特徴をまとめておきます。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚を大事にする
一つは私はその治療構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということです。バウンダリーと言う見方をすれば、私はその境界線の上をいつも歩いているのです。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいでしょう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのです。これは先ほどのミット打ちにもいえることです。コーチがいつもそこにあるべきミットをヒュッとはずしてきます。あるいは攻撃してこないはずのミットが選手にアッパーカットを打つような素振りを見せます。すると選手は不意を突かれてちょっと憤慨したり、すこし不安になったり、あるいはおかしさがこみ上げてきて「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。おそらくそれはそれ自身が型にはまった儀式のようになっているミット打ちに、ある種の生きた感覚を与えるでしょう。
あるいは実際のセッションで言えば、<中略>。この種のバウンダリーのゆるさは、仕方なく起きてくると言うよりも、実は常に起きてしかるべきであり、治療が死んでいないことの証だというのが私の考えです。
通常この種のバウンダリーについて、私たちは極めて敏感です。欧米人なら、通常交し合うハグの中にあって、通常より強い力、不自然な身体接触の場所が生じれば、それに気がつくでしょう。あるいはほんの僅かな身体接触はとてつもない意味を持ち、性的な意味を持つものは即座に感じ取られることになります。セッションの終わりに、治療者が初めて握手を求めてきたら、とてつもないシグナルを送ることになるのでしょうが、それが終結の日なら、極めて自然に許されると言う風に、その身体接触の意味は文脈によっても大きく違ってきます。実はバウンダリーこそが大事なのであり、そこに驚きと安心がない混ぜになるからなのです。そう、バウンダリーはその上をさまようものなのです。(しつこいな。)週一回、50分、と言うのはそのほんの一例に過ぎないのです。
2「決めつけない態度」もやはり治療構造の一部であることに留意する
もう一つは決め付けない態度、ということの重要さです。Aさんの場合も、Bさんの場合も、<中略>。
彼らにとっての私は、おそらく変わった精神科医で、必要に応じて投薬をし、診断書を書くという以外は、白衣を着たただの友達という感じでしょう。もちろん私は通常は白衣は身に着けませんし、持ってもいませんが、私が医師であるということは彼にとっては意味があることは確かで、そのことを私が知っているという意味で、やはり私は「白衣を着て」いるのです。
私にとって決めつけないというのは治療構造の一つです。それはスパーリングで言えば、そこに多少の遊び心はあっても、基本的にはミットが選手の痛めている右わき腹や狙われやすいアッパーカットを打ち込むということはないということです。その安心感があるからこそ、そのそぶりはスリルにつながるのでしょう。
3.やはり自尊感情(セルフエスティーム)か?
私は心の動かし方のルールとして、やはり来談者のプライドとかセルフエスティーム、自尊心を守るということをまず最初に考えてしまいます。ヘンリー・ピンスカーという人の支持療法のテキストに書いてあることですが、支持療法の第一の目的は患者の自尊心の維持だということです。私もその通りだと思うのは、彼らの自尊心を守ってあげることなしには、彼らは自分を見つけるということに心が向かわないからです。

<以下略>