2016年11月26日土曜日

強度のスペクトラム 推敲 ⑤

このようにロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。そしてその中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合は、かなり構造化されたものです。本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手はミットで受けてほしい、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるでしょう。一時間みっちり必要かもしれないし、5分でいつもの感覚を取り戻すかもしれない。しかしここにもだいたい構造はあるでしょう。それこそ月、水、金の5時ごろから30分ほど、とか。さもないと多忙な二人は予定を合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待します。それを行う場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。試合前に気持ちを落ち着けるためにやるのであれば、会場の裏の開いたスペースで2,3分、ということだってありえます。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっているでしょう。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのグラブの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間にある種の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりグラブを装着して選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。だからいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなグラブの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは先ほどの例のように、試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。なんだか考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、その構造は、コーチのミットの差し出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。
ただここら辺で理論的な話ばかりするとみなさんが退屈になりますから、臨床例について話したいと思います。

<以下略>