2016年11月30日水曜日

日本のエディプス ①

来年のGWに「アジアにおけるエディプス」というテーマで何か話をしなくてはならなくなった。つまり日本におけるエディプスである。他に中国や韓国からも同じテーマ(エディプス)で話をする人がいるというわけだ。しかしこれは非常に難しいテーマだ。このブログでひとりブラインストーミングをする必要がある。例によって最初はエディプスというテーマのことをあえて考えずに日本文化について考えてみる。許し、とか care taking とかいう鍵概念が浮かぶ。恥、もあるな。生産性、ということの裏面としての過労死もある。集団における圧力、これは韓国社会の方が厳しいかもしれない。羨望や嫉妬、という概念も浮かぶ。しかしやはり日本らしさは許し、と結びついている気がする。ここら辺から入っていくか。

他方、到達点としてのエディプス。これも覗き見しておこう。禁止というタームから、見るなの禁止が思い浮かぶ。禁を破った時の懲罰に代わる許しの文脈。でもそもそも日本人はそんなに「許し」が好きなのだろうか? ここらへんになってくると結局フランスとアメリカで暮らした時の実感というのが最終的にとても大きな意味を持ってくる。欧米で日常生活を送るうえで感じた様々なことが最後にはよりどころになる。
 しかしできるかな。いろいろな話が舞い込んできて訳が分からなくなってきた。

2016年11月29日火曜日

解離 推敲 ④

幾つかの代表的な解離性障害

以下に解離性障害の代表的なものについての概説を示す。DSM-5ICD-11の草稿を参照する限り、解離性障害は1980年の再登場以来30年以上たって、ようやく離人、健忘、DID、トランスの4つに集約されてきたという観がある。それを全体的に概観するならば、まずDIDについては、その病理の成立過程は比較的わかりやすい。幼少時の深刻なストレスないしトラウマに対して、解離というメカニズムにより処理することを余儀なくされた子供がいくつかの人格を形成していく過程は、家族の観察によっても、患者自身の叙述によっても、明瞭に記載されることが多い。新たな人格の形成という出来事が幼児における可塑性の旺盛な中枢神経においてのみ成り立つことも含め、これはトラウマを負った幼児がその後にたどる自然な経路といえる。
この様に考えるとトランス状態や健忘は、DIDに十分に至らなかったいわば不全形というニュアンスがあるだろう。つまり解離により成立している意識が清明であるのがフルに成立したDIDであるとしたら、それに至らないながらもトラウマにより海馬が機能不全に陥った際にはそれは健忘を残すことになる。その意味では解離性健忘は飲酒によるブラックアウトと類縁の事象と考えればよい。トランスの場合にはおそらく意識の狭小化が起きている点が特徴的であろう。

解離性同一性障害

DSM-5にはDIDの診断基準は、以下のように書かれている。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TR (7) で同所に相当する部分にはこの憑依という表現は見られなかった。またA基準の文末には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」とある。つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の報告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)さらに診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)
以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は、人格の交代とともに、憑依体験もその基準に含むこと、人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということを明確にしたこと、健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、の三点となる。

DIDの理解や治療方針について本稿で詳述するにはあまりに紙数が限られているが、概要を示せば幼少時の深刻なストレスないしはトラウマを機に発症し、いくつかの人格の素地をすでにその時期に備えるのが通常である。思春期以降家から離れることをきっかけに人格交代が生じることが多い。人格間の記憶の保持や共有についてはケースバイケースであり、一つの人格が活動している間にほかの複数の人格がそれを眺めているというパターンがむしろ一般的である。(続く) 

2016年11月28日月曜日

強度のスペクトラム 推敲 ⑦

「心の動かし方」の3つの留意点
さてこれまでに、私の「心の動かし方」が治療構造を内包している、という点について、そしてミット打ちの比喩、さらにその実践例として、低強度の精神療法の関係にあった症例A,Bについてお話しました。最後にその「心の動かし方」について、いくつかの特徴をまとめておきます。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚を大事にする
一つは私はその治療構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということです。バウンダリーと言う見方をすれば、私はその境界線の上をいつも歩いているのです。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいでしょう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのです。これは先ほどのミット打ちにもいえることです。コーチがいつもそこにあるべきミットをヒュッとはずしてきます。あるいは攻撃してこないはずのミットが選手にアッパーカットを打つような素振りを見せます。すると選手は不意を突かれてちょっと憤慨したり、すこし不安になったり、あるいはおかしさがこみ上げてきて「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。おそらくそれはそれ自身が型にはまった儀式のようになっているミット打ちに、ある種の生きた感覚を与えるでしょう。
あるいは実際のセッションで言えば、<中略>。この種のバウンダリーのゆるさは、仕方なく起きてくると言うよりも、実は常に起きてしかるべきであり、治療が死んでいないことの証だというのが私の考えです。
通常この種のバウンダリーについて、私たちは極めて敏感です。欧米人なら、通常交し合うハグの中にあって、通常より強い力、不自然な身体接触の場所が生じれば、それに気がつくでしょう。あるいはほんの僅かな身体接触はとてつもない意味を持ち、性的な意味を持つものは即座に感じ取られることになります。セッションの終わりに、治療者が初めて握手を求めてきたら、とてつもないシグナルを送ることになるのでしょうが、それが終結の日なら、極めて自然に許されると言う風に、その身体接触の意味は文脈によっても大きく違ってきます。実はバウンダリーこそが大事なのであり、そこに驚きと安心がない混ぜになるからなのです。そう、バウンダリーはその上をさまようものなのです。(しつこいな。)週一回、50分、と言うのはそのほんの一例に過ぎないのです。
2「決めつけない態度」もやはり治療構造の一部であることに留意する
もう一つは決め付けない態度、ということの重要さです。Aさんの場合も、Bさんの場合も、<中略>。
彼らにとっての私は、おそらく変わった精神科医で、必要に応じて投薬をし、診断書を書くという以外は、白衣を着たただの友達という感じでしょう。もちろん私は通常は白衣は身に着けませんし、持ってもいませんが、私が医師であるということは彼にとっては意味があることは確かで、そのことを私が知っているという意味で、やはり私は「白衣を着て」いるのです。
私にとって決めつけないというのは治療構造の一つです。それはスパーリングで言えば、そこに多少の遊び心はあっても、基本的にはミットが選手の痛めている右わき腹や狙われやすいアッパーカットを打ち込むということはないということです。その安心感があるからこそ、そのそぶりはスリルにつながるのでしょう。
3.やはり自尊感情(セルフエスティーム)か?
私は心の動かし方のルールとして、やはり来談者のプライドとかセルフエスティーム、自尊心を守るということをまず最初に考えてしまいます。ヘンリー・ピンスカーという人の支持療法のテキストに書いてあることですが、支持療法の第一の目的は患者の自尊心の維持だということです。私もその通りだと思うのは、彼らの自尊心を守ってあげることなしには、彼らは自分を見つけるということに心が向かわないからです。

<以下略>

2016年11月27日日曜日

強度のスペクトラム 推敲 ⑥

症例Bさん(強度2くらい)

もう一人紹介しましょう。Bさんです。


<以下省略>

2016年11月26日土曜日

強度のスペクトラム 推敲 ⑤

このようにロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。そしてその中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合は、かなり構造化されたものです。本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手はミットで受けてほしい、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるでしょう。一時間みっちり必要かもしれないし、5分でいつもの感覚を取り戻すかもしれない。しかしここにもだいたい構造はあるでしょう。それこそ月、水、金の5時ごろから30分ほど、とか。さもないと多忙な二人は予定を合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待します。それを行う場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。試合前に気持ちを落ち着けるためにやるのであれば、会場の裏の開いたスペースで2,3分、ということだってありえます。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっているでしょう。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのグラブの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間にある種の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりグラブを装着して選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。だからいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなグラブの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは先ほどの例のように、試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。なんだか考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、その構造は、コーチのミットの差し出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。
ただここら辺で理論的な話ばかりするとみなさんが退屈になりますから、臨床例について話したいと思います。

<以下略>

2016年11月25日金曜日

強度のスペクトラム 推敲 ④

それ頻度以外の別の治療因子に関しても、スペクトラムが成立します。たとえば料金の問題があります。カリスマ療法家による一回3万円のセッションから、保険を使った低額の通院精神療法までのスペクトラム。あるいは一回1000円のコントロールケースだってあり得るでしょう。また治療者がどの程度自己開示を行うか、ということについてもスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついた状態で患者を迎い入れましたが、その理由を決して自分からは言おうとしませんでした。そこまで自己開示を控える立場もあれば、少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」という治療者だっているかもしれません。この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体そのどこかに安定した形で収まっていることが多く、それにより治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
さて私は精神科医として、結局かなりケースバイケースで治療を行っています。つまりスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には治療構造が一番大事なのだ」。これを小此木先生は何度も言われました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。ある意味では内在化されていると言ってもいいかもしれません。というのも私は結局はどの強度であっても、一定の心の動かし方をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。
ここでの私の「分析的」、と言うのは内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うということにつきます。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。ですからセッションの長さ、セッションの間隔は比較的自由に、それも患者さんの都合により変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造を厳密に守ることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は「治療的柔構造」という概念を提出したことがあります(岡野、2008)。私は治療構造のことをボクシングのリングのようなものだと表現しました。がっちり決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造を考えると、それは相撲の土俵のようなものです。そこでさまざまなことが起きても、足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。即構造の逸脱、ということになってしまいます。その俵が伸び縮みすることはありません。(まあ、ミリ単位ではあるかもしれませんが。)ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。

2016年11月24日木曜日

強度のスペクトラム 推敲 ③

このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、左端の精神分析から、右端の一番弱い精神療法までの曲線で描かれていますが、それはあくまでもなだらかです(図は省略)。つまり、週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは45分と35分の週一回のセッションで、そこに越えられないような敷居があるとは思えません。それを行っている治療者のメンタリティーは基本的には変わりはありませんし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが少なくとも心の中では保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、ほかの条件が同じならそれだけ治療は効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そしていわゆる「深いかかわり」は起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽自動車になるようなものなわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行ける旅はありますし、ひょっとしたら非常に印象深いものにもなるでしょう。
このスペクトラムのもう一つの特徴としては、これがあくまでも外的な治療構造上のものであり、実際には週4回でも弱い治療もあれば、二週に一度でも非常に強い治療もありうるということです。週4回でも非常に退屈で代わり映えのないセッションの連続でありえます。ある立場からはその退屈さに耐えることが大事だということになりますが、それは少しぜいたくすぎる話だと思います。私の言葉では、貴族趣味、アリストクラティックだと思います。
 頻回に会う関係は、しかしその親密さを必ずしも保証しません。夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせることで、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分のセッションでも、それが強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで一種の暴露療法的なことが行われた時にはありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。ただしその二週間のリカバリー期間も十分なサポートが必要になるでしょう。あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。
 私の知っているラカン派の治療を受けている人は、
20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われそうです。一日2度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。でもそれも治療としてある社会では成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。
このスペクトラムのもう一つの特徴についてついでに申せば、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つはこれまでに話した頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる3時の5分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんにバトンタッチできるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類の話が出て、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。310分に始まったセッションを3時半で切り上げるわけにはいかなくなります。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。

2016年11月23日水曜日

解離 推敲 ③


解離性障害の分類

さてDSM-5に提示された解離性障害の分類は、以下のとおりである。
300.14 解離性同一症・解離性同一性障害 Dissociative identity disorder
300.6 離人感・現実感消失障害 Depersonalization-derealization disorder
300.15 他の特定される解離性障害 Oher specified dissociative disorder
長期および集中的な威圧的説得による同一性の混乱/ストレスの強い出来事に対する急性解離反応/解離性トランス
3001.15 特定不能の解離性障害 Unspecified dissocative disorder
300.12 解離性健忘 Dissociative amnesia

他方ではWHOによる診断基準であるICDの新版(ICD-11)は当初2015年に発表されることになっていたが、現在では2018年に延期されている。その試案として後悔されているもの(ベータ試案)には、以下のような項目が挙げられている。(ちなみに解離性障害は、「ストレスと特に関連する障害群 disorders specifically associated with stress」と 「身体苦痛障害 Bodily distress disorder 」の間に位置する。ここら辺はDSM-5に準じている。(DSMの場合は 7「心的外傷およびストレス因関連障害群、8.「解離症群/解離性障害群」、9.「身体症状症および関連症群」の順である。)

解離性神経症状障害 Dissociative neurological symptom disorder
解離性健忘 Dissociative amnesia
離人-現実感喪失障害 Depersonalization-derealization disorder
トランス障害 Trance disorder
憑依トランス障害 Possession trance disorder
複雑性解離性侵入障害 Complex dissociative intrusion disorder
解離性同一性障害 Dissociative identity disorder
二次的解離性障害 Secondary dissociative syndrome


このベータ版には少し聞きなれない用語があるので、少し説明するならば、解離性神経症状障害とは要するに転換症状をさす。転換 conversion という用語そのものをなくす魂胆か?これは要するに転換症状だ。ICDとDSMの齟齬、すなわち両者は転換症状を解離として認めるかどうかに差があるという状況は、このベータ案が採用されると、今後もICD-11とDSM-5の間で存続することになる。
解離性健忘 離人-現実感喪失障害 はDSM-5にもある。トランス障害についても、 これもDSM-5の「他の特定される解離性障害」に含まれている。ちなみにトランス状態とは、単回の意識状態の変化、それが周囲の気づきの狭小化や焦点化が、本人がコントロール不可能なパターン化した動きや姿勢を伴ったものである。
複雑性解離性侵入障害についてはやや複雑であるが、概ねDIDの不全形として捉えてよさそうである。
異常の分類で特徴的なのは、解離性遁走がDSMからもICDからも表立って消えてしまい、解離性健忘の中に吸収されるということである。


2016年11月22日火曜日

強度のスペクトラム 推敲 ②

スペクトラムという考え
そこで私は精神療法におけるスペクトラムの考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。これは私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの名誉の為でもあります。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分、というのが来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の強度(仮にこれを10としましょう)の精神分析です。通常の週450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいということにしましょう。そしておそらく左端近くには、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回はほんとうは強度8くらいにしておかなくてはならないところです。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人の心がけのせいとは言えないでしょうし、「二週に一度なら意味がないから来なくていいです」というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持ったことがありますし、週4,5回の精神分析を5年ほど受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムについて話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを受けたり、行ったりしないで、お前に何が言えるのだ」と言われてしまいます。私はもともとバリバリの精神分析志向の人間でしたし、分析のトレーニング中に、2000ドルもかけて分析用のカウチを特別発注し、今での私のかさばる財産になっています。ちなみにそのカウチは仕事場に置くこともできずに自宅に持ち帰り、カミさんがベッド代わりに一時使ってくれました。ところが「あのカウチは寝返りを打つと落ちてしまうほどに狭い」と言われてしまい、今は彼女はカウチの横に布団を強いて寝ていますが、本当にインテリアに使うこともできない、分析のカウチって、意外と潰しが効かない代物だなあ、と思う毎日です。まあそれはともかく・・・。


2016年11月21日月曜日

解離 推敲 ②

解離の定義


解離をどのように定義づけるかについては、1980年のDSM-の時代とほとんど変わっていないといってよい。DSM-5においては、「解離性障害群の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻およりまたは不連続である。」(DSM-5)となっている。一方ICD-11ベータ試案ではどうか? こちらも「解離性障害は、記憶、思考、同一性、情動、感覚、知覚、動作、体の動きの統御の正常な統合の、不随意的な破綻や不連続性により特徴づけられる。」とある。つまり両者は全くと言っていいほど同じである。人間は記憶、思考、同一性、…を通常は統合している。そしてその「統合の破綻」が解離である、という考えだ。しかも興味深いことにDSM-5では転換性障害(変換症、conversion disorder)を「身体症状症および関連症群」という別のカテゴリーにふくませながらも、「統合の破綻」の対象として、知覚や運動制御を含ませていることで、実質的に転換症状も解離の一部であるという立場を表明していることになる。
 ただこの定義には様々な問題がある。一つには日本語で解離を「統合の破綻」としながら、他方で「統合失調症」という、同様に統合の破綻や失敗を示唆する状態が、解離性障害とは実質的に全く異なる schizophrenia を指すという、日本語ならではの問題である。統合失調症という語が生まれた歴史的な経緯を考えた場合にはやむを得ないであろうが、もう一つはこの定義がいわゆる解離性障害の「陰性症状」に関するものであるというニュアンスがある点が問題なのである。実際は身体運動や感覚が乗っ取られたり、別人格に支配されたりするという、「統合の破綻」の結果として様々な陽性症状が生じることは留意すべきであろう。しかしいずれにせよ解離の機序はあまりに不明な点が多く、そのためにこのような漠然とした定義に甘んじるしかないというのが実情であろう。解離の本体は謎、正体不明と言わざるを得ない。

2016年11月20日日曜日

解離 推敲 ①

S179 解離性障害概論
解離性障害の位置づけ
精神医学や心理臨床における解離性障害の認知度はいまだに十分高いとは言えない。しかし精神科医や心理士から、解離性障害を有する患者に出会い、その対処法を知りたいという声をしばしば耳にするようになった。解離性障害は長い間、差別的な語感のある「ヒステリー」と呼ばれ、言わば不遇の時代を超えてきたという歴史がある。
 解離性障害は正式には米国での精神医学の診断基準であるDSM-III1980年に発表)において、ヒステリーの呼び名を離れて精神医学で事実上の市民権を得た。それ以降解離性障害はWHOの診断基準であるICDにも収められ、その診断基準はいくつかの変更を加えられてはいるものの、その位置づけはより確かなものとなっている印象を受ける。
 この間の識者の間での解離の理解のされ方は何度か改訂を経ているDSMの診断基準に反映されている。1980年に出されたDSM-IIIには「記述的でありかつ疫学的な原因を論じないという」原則があった。これは米国における精神医学を長年牽引した精神分析理論の持つ原因論的、因果論的な傾向に対する揺り戻しの意味を持っていた。解離性障害もそれが単体としてリストアップされていたのである。しかし2013年のDSM-5においては、「トラウマとストレス因関連障害 Trauma and Stressor-Related Disorders」という大きなカテゴリーが出来、解離性障害もここに入れるべきであるとの議論があったという。しかし最終的にそのカテゴリーから外れたのは、解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関係していたと考えられる。ただし掲載の順番としてはその次の分類として位置づけられることとなった。(7「心的外傷およびストレス因関連障害群、8.「解離症群/解離性障害群」、9.「身体症状症および関連症群」の順である。)現在公開されているICD-11ベータ試案では、「ストレスと特に関連する障害群 disorders specifically associated with stress」と 「身体苦痛障害 Bodily distress disorder 」の間に位置しており、その扱いはDSM-5に準じている。


2016年11月19日土曜日

強度のスペクトラム 推敲 ①

精神療法の頻度と強度のスペクトラム


 今日はこの場にお呼びいただいて、誠にありがとうございます。そこでこの機会に、なかなか他の場ではいえないことをお伝えしたいと思います。
 まずはこの週に一度のセッションというテーマから始めますが、私にはどうもこのテーマについては、「週一度ですみませんね。でもそれなりに立派に仕事が出来る様にがんばります」という apologetic (謝罪的)なニュアンスを感じます。「精神分析は本当は週に4度でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があるよ、でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、もちろん正式な精神分析とは言えないのは分かっています」というニュアンスです。しかしそれは同時に一種の戒めでもあります。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な響きがあります。さらにこれは時間についても言えます。「一回50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ」というメッセージがそこにはあるようです。
 私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の決まり事に対して、疑う傾向にあります。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する自分に耐えられない、というべきでしょうか。無意識レベルでは付和雷同型で、私は元来権力に弱いのでしょう。決まりに反感を覚えるのは、その反動形成だと思います。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対してそうなのです。現実を教えてくれる者にはむしろ感謝の気持ちが湧きます。ですから私はノンフィクションや自然科学に関しては極めて強い親近感を持ちます。心理の世界では脳科学がそれに相当します。まあ、話を元に戻しますと、私は「週一度、50分でなくてはならぬ」にも反発いたします。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれます。週4回の精神分析に関しては、私は実行していますし、それを理想化する部分が確かに私の中でもあります。しかし私が持っている患者さんの多くにとってそれが不可能な以上、この原則は私にとって非常に不都合なものでもあるのです。
 先ず私の立場を表明します。私の立場は精神分析家であり、そして精神科医です。精神分析家である私は、週に4回も週に一度50分も実際に行っています。また土曜日に持っているセッションの多くは週一回50分のプロセスです。しかし精神科医の私のプラクティスの中では、週一度はとても贅沢な構造です。そして私の週二日の精神科外来のように、8時間の間に30人強のペースで患者さんと会うというスケジュールでは、それを維持することには大きな制約があります。そこで私が比較的贅沢に行なえている精神療法は、毎週、ないし二週に一度20分ないし30分です。これはやはり少なくとも平均して10分、15分以内に次の患者さんを呼び入れなくてはならないという立場では、かなり無理なスケジュールです。
 そしてこの、一回に50分取れないという事情は実は精神科医である私だけではありません。私は心理士さんと組んでプラクティスを行っています。そして事実上通院精神療法の本体部分は彼女たちにお願いしているわけですが、とても50分に一人では回っていくことは出来ません。私の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々です。そのためには一時間に二人は会っていただかないと無理です。私の理想とする精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのは、事実上のスタンダードです。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティックストレス学会で出会う精神科医の先生方も言っていることです。「通精では、二週に一度30分が上限だよね」と。二週に一度30分、というスタンダードはこうして事実上あるのですが、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれません。

でも私は大まじめで分析的な精神療法をやっているつもりなのです。もちろんそれは週4回、ないし週一回50分と比べて、かなりパワー不足という印象は否めません。たとえて言えば、精神分析という4輪駆動や、週一度というSUVほどには走れない軽自動車という感じでしょうか? でも軽自動車でもそれなりの走りはしていますし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走って行っている気がします。私も「それならば運転できるよ」、と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、といっている。私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、とても満足しています。
 どうして私はそのように感じるのでしょうか?それは私はその構造いかんにかかわらず、同じような心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからです。このことについてもう少し順序立てて説明いたしましょう。

2016年11月18日金曜日

解離性障害 推敲後 ②

解離の定義

解離性障害の定義は1980年のDSM-III 以来基本的には変わらない。DSM-5においては、「解離症群の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻およりまたは不連続である。」(DSM-5)とされる。他方のICD-11ベータ試案では「解離性障害は、記憶、思考、同一性、情動、感覚、知覚、動作、体の動きの統御の正常な統合の、不随意的な破たんや不連続性により特徴づけられる。」とある。この両者は全くと言っていいほど同じである。人間は記憶、思考、同一性、…を通常は統合している。その破綻が解離である、という理解である。ちなみにDSM-5において、その対象として知覚や運動制御が含まれるのは興味深い。なぜならそれにより生じる転換性障害は、DSM-5においては解離性障害ではなく、「身体症状症」に分類されているからである。ちょっとした(かなり深刻な?)矛盾だな。
 この分類の一つの問題は、「統合の破綻」という解離の定義が、同様に統合の失敗を意味するはずの「統合失調症 schizophrenia 」は解離性障害とはまったく異なる障害である、ということだ。(だからこれはおかしい訳語だ、とあれほど言ったのに。←嘘である。私がアメリカにいた間にこんなことが起きたのだ。知っていたら声を上げたのに。もっともリーゾナブルな訳語は「連合失調症」なのだ。)

さらには統合の破綻はある機能の失われることをニュワンスとして含むが、これは解離の陰性症状に相当する。しかし解離においてはある機能が暴走したり、異なる人格状態が自分が記憶を失っている間に活動をするなどの、解離の陽性症状が顕著なのである。

2016年11月17日木曜日

解離性障害 推敲後 ①

欧米のメディアは、日本が巨大なシンクホールを一週間で修復したことを賞賛したという。確かに誇らしいことだが、これとブラック企業の体質はおそらくつながっているのであろう。


解離性障害の位置づけ
精神医学や心理臨床における解離性障害の認知度はいまだに十分高いとは言えない。しかし精神科医や心理士から、解離性障害を有する患者に出会い、その対処法を知りたいという声をしばしば耳にするようになった。解離性障害は長い間、差別的な語感のある「ヒステリー」と呼ばれ、言わば不遇の時代を超えてきたという歴史がある。
 解離性障害は正式には米国での精神医学の診断基準であるDSM-III1980年に発表)において、ヒステリーの呼び名を離れて精神医学で事実上の市民権を得た。それ以降解離性障害はWHOの診断基準であるICDにも収められ、その診断基準はいくつかの変更を加えられてはいるものの、その位置づけはより確かなものとなっている印象を受ける。
 この間の識者の間での解離の理解のされ方(「の」が7回連続。悪文の典型である。)は何度か改訂を経たDSMの診断基準に反映されている。1980年に出されたDSM-IIIには「記述的でありかつ疫学的な原因を論じないという」原則があった。これは米国における精神医学を長年牽引した精神分析理論の持つ原因論的、因果論的な傾向に対する揺り戻しの意味を持っていた。解離性障害もそれが単体としてリストアップされていたのである。しかし2013年のDSM-5においては、「トラウマとストレス因関連障害 Trauma and Stressor-Related Disorders」という大きなカテゴリーが出来、解離性障害もここに入れるべきであるとの議論があったという。しかし最終的にそのカテゴリーから外れたのは、解離性障害の診断基準のどこにも、トラウマの既往やそれと発症との因果関係がうたわれていないという点が大きく関係していたと考えられる。ただし掲載の順番としてはその次の分類として位置づけられることとなった。(7.「心的外傷およびストレス因関連障害群、8.「解離症群/解離性障害群」、9.「身体症状症および関連症群」の順である。)現在公開されているICD-11ベータ試案では、「ストレスと特に関連する障害群 disorders specifically associated with stress」と 「身体苦痛障害 Bodily distress disorder 」の間に位置しており、その扱いはDSM-5に準じている。


2016年11月16日水曜日

新・無意識の性質 ⑤

 このところの、このブログの手の抜きようはナンだ!きっと何かに忙しいのだろう。

●  患者の言葉が重層決定されている以上、夢やファンタジーに関する内容解釈の意義はそれだけ少なくなる。それよりは患者が自らの表現にかける様々な抑制について扱うべきであろう。

人の心はそのようにしてランダムウォーク+来歴により構成されていく。パチンコの玉があるチューリップに吸い込まれたとしても、それが何を意味するかは余りに多くの要素に従う。それらを一つ一つ後付けすることなど出来ない。フロイト時代に始まった解釈の伝統は、分析家の習い性になっている。そこでは言葉になる以前のものを言葉にすることの意義が重要視されている。しかしそれはあまりにロゴセントリックな考え方といわざるを得ない。土居の言うように甘えが治療関係の鍵を握るとしたら、それが促進されるような関係性を追求することを考えるべきであろう。それは治療者の非防衛性により誘発される、患者の側の非防衛性といえる。

●    患者の自由連想も、それに対する治療者の解釈もエナクトメントといえる。
まさに。ダーウィニズムに従う、とは結局それはエナクトメント、ということだ。私は治療はいっそのこと、相互エナクトメントだと割り切ることで、ずいぶんスッキリすると思う。治療者も患者も、二つの複雑系同志の交流であり、そこで起きることは、双方のエナクトメントから生じる組み合わせ、創発である。すると今度はそこで生じる新しい結合が意味を持ってくるのである。その意味では思いつき、でもいい場合が多い。考えてください。将棋指しにとっては、最善手は尾状核が直感的に教えてくれる。おそらく臨床家にとっても最善の手は直感が教えてくれるのです。

  <以下省略>


2016年11月15日火曜日

新・無意識の性質 ④


新・無意識の理解に基づく治療論

「新・無意識」の取扱説明書は(まだ)存在しないため、治療上の基本原則(レシピ)は存在しない。例えばどのような無意識的な内容を想定し、どのような言葉で解釈したらもっとも有効化などは、とてもしるすべがない。すると治療のための原則はかなり大雑把なものになってしまう。そこで意味を持つのは経験則である。(「来談者中心療法」の再評価?) 
Lambert, M. J. 1992 Psychotherapy Outcome Research:Implications for Integrative and Electic Therapists. Handbook of Psychotherapy Integration. によれば、

1: 治療外の要因(Extratherapeutic Change----40
偶然の出来事、クライエントが元々持っている強さ・リソース・能力。
2:共通の要因:治療関係の要因(Common Factors----30
受容・共感、思いやり、はげまし、クライエントの治療への関与の質、セラピスト・カウンセラーとクライエントとの関係性、治療法についての同意など
3:希望・期待(ExpectancyPlacebo effects----15
4:モデルと技法(Techniques----15
特定のモデル・技法・テクニックが持つ効果a.治療外変化40% これらの要因は、一部はクライエント側の要因(例えば、自我の強さや他のホメオスタティックなメ カニズム)であり、一部は環境側の要因(例えば、幸運な出来事、ソーシャル・サポート)であり、クライエントが治療に参 加しているかどうかにかかわらず、回復に役立つ要因である。 b.期待(プラシーボ効果)15% その治療についてクライエントが持つ知識からくる治療効果の部分と、特定の治療技法 ・理論についての真実らしさからくる治療効果の部分。 c.技法15% 特定の治療技法(たとえば、バイオフィードバック法、催眠法、系統的脱感作法など)に特異的な要因。 d.共通要因30%:セラピストがどんな理論的オリエンテーションを持っているかにかかわらず、いろいろな治療において見 いだされる多くの変数を含む。例えば、共感、温かさ、受容、危険を冒すことへの激励などである。

2016年11月14日月曜日

新・無意識の性質 ③

l        トラウマ記憶はアトラクタである??
ここで今のトラウマ記憶がどのような意味を持つかというと、トラウマ記憶というのは、ネットワークに出来たアトラクターのようなものです。アトラクタとは、ちょうど木星にある巨大な渦のように、そこだけは流れが滞ってしまい、そこに風が流れ込んでしまうと出で来れない。これがニューラルネットワークの渦に常に働き、影響を与えているということが出来るでしょう。この種のアトラクタとしては、強迫思考も、妄想もありうるでしょう。思考の流れがどうしてもそこに落ち込んでしまう。そこに大きく影響されて通常のスムーズな思考が出来ない。このようなアトラクタの存在は心の自由で創造的な活動を阻害するといって言いでしょう。例のA,B.Cではなく、C,D,Aのような組み合わせが自由に生じるだけのスペースが生まれないからと言ってもいいでしょうね。

● 一貫性、プライオリティ、排他性を満たした言動、ファンタジー、夢が「生き残」る場合が多い。
さてこの「一貫性、プライオリティ、排他性」という三つの条件は、ある本から取りました。これらは心が、新・無意識により振られたサイコロの目を、「自分が主体的に選んだものだ」、と認識するための条件です。
 ここに面白い実験があります。被験者のマウスに細工をして、実験者がそれに陰で手を添えるという実験があります。するとマウスが向かった先を、被験者は自分が主体的に選んだものとみなし、その理由付けをします。するとこれまでの自分の主張と一貫しているならより「自分が選んだんだ!」という感覚を持ちやすいわけです。このように考えると、ダーウィニズムとその能動感との関係が近いことが分かります。結局はその人が自分で選んだんだ、という感覚を生むように、新・無意識はさいころに細工をしている、ということになるのでしょう。

●  意識内容や行動の決定(サイコロ振り)には尾状核の関与か?
最後にこのさいころのありかということを考えて見たいのですが、それが尾状核の頭部にあるという可能性があるようです。これは将棋の名人が次の手を探すときに働く部位であるという。最初は理屈で考えて答えを出すうちに、その技に熟達すると自然と直感的に正解を導くようになるという。その際に働いているのが尾状核頭部であるという最近の研究結果がある。東大などが一流棋士に協力を求めて行った実験では、将棋指しはある局面での次の一手を、案外簡単に、それこそ深く考えることなく思いつくそうです。ピンと来る、というやつです。するとその時光るのがこの尾状核。大脳辺縁系の一部です。

2016年11月13日日曜日

新・無意識の性質 ②

●     「新・無意識」の実体は巨大なニューラルネットワークであり、そこでは予測誤差を基にした強化学習(ディープラーニング、深層学習)が常に自動的に行われる

この点は、これまでも説明したとおりです。新・無意識は、報酬系や動因システムを除けば、いわば巨大なコンピューターであり、情報処理をすると共に学習を行っています。その基本的な仕組みはディープラーニングないし強化学習です。ある行動を起こしたらこんなことが起きた、快ならそれを強化し、不快ならそれを抑制する。赤ん坊はそれこそ泣き叫び、手足を振り回すところからその学習を始めます。一見まったく統制の取れていない手足の動きや顔の表情の変化。しかしそれは「こうしたらこうなるのだ」という学習を開始し始めているのです。ただしいくつかのプログラムは生まれたときからすでに出来上がっています。おっぱいを差し出されたらそれを吸い付くというプログラムはもう出来ている。あるいはお母さんに向かってハグし、しがみつくという原始反射を備えています。あるいはミラーニューロンのように、目の前で誰かに行われた行動を自分の中にコピーするというプログラムもありますので、この学習は殆ど自動的に、努力もなく起こるいっていいでしょう。
ところでこの「予測誤差を基にした強化学習」という意味はお分かりいただけるでしょうか?ニューラルネットワークは学習を積むと共に、ある刺激を受けると、それが何を生むかについて予測できるようになります。例えばコップをつかもうとするときは、こんな風に腕を伸ばして、このぐらいの力で握ったらうまくつかめるだろう、という風に。それがうまく行けば、それが強化されますが、その力が弱すぎたらそこに誤差が生じ、それを次回から訂正しようということになります。これは小脳のレベルで行われることですが、これを繰り返していくわけです。

●      ニューラルネットワークは事実上複雑系として動作する

そう。新無意識はその行動様式がわかっていない。というよりは複雑系である以上は、それが読めない、あるいはおおまかなデザイン以外は存在しない、というのが正解と言う事になる。心の振る舞いがわからないのは、例えば市場経済がどのように動いていくかとか、台風がどのような動きをするのか、とか、パチンコ玉が弾かれた後にどのような軌道をたどるのか、という問題に近い。その大体の動きはわかっても、余りに多くの要素によりその軌道が左右される。例えばパチンコだまは大体上から下に流れるが、どの釘でどのように跳ね返るかは予想が出来ない。人の心もダーウィニズムの結果が同動くはが分からない。

●   意識の次の瞬間の内容は新・無意識のうち前意識野のレベルで生じた候補者の中からダーウィニズム(適者生存の原則、ただし何が「適者」かは曖昧)に従って創り出され、それが主体性、自立性の感覚を伴って意識野に押し出される。(新無意識が意識内容を決める「サイコロを振って」いる。) すなわち意識活動とは、新・無意識において生じる創発と理解することが出来るのである

さてここが一番分かりにくいところかもしれませんが、がんばって説明します。意識がさまざまな学習を行っていくうちに、そこにはさまざまな思考やファンタジーや願望がどんどん生まれてくることになります。そのかなりの部分は記憶の断片といっていいかもしれません。ミュージシャンだったら旋律の断片、歌人ならこどばの断片が行きかっています。話をしているときも言葉の断片が沢山浮かびます。それらはおそらく付いたり離れたりしながらさまざまな組み合わせを試しています。するとと例えば音楽なら、あるメロディーが浮かび、それがこれまでに聞いたことないものだったりします。例えばメロディーの断片A,B,C,Dのうち、A,B,C,とかA,C,Dならすでに存在する。ところが新・無意識はC,D,A とか
C,D,Bなどのこれまでにない組み合わせも生み出してきます。その中でこれはいい、というのがおそらく意識の間近まで浮かんできてピックアップされます。歌人なら句の最初の一行が、あるいは全体が「突然降ってくる」、という言い方をします。これがダーウィン的なのです。言葉なら、例えば私が今の心境を語ろうとする時、辛い、痛い、苦しい、といういくつかの表現に混じって物悲しいが浮かび、その中から物悲しいが選択されます。それは候補に上がったあとに、これは良い、とたちまちのうちに多数決で優位を占めて、つまり脳内のエリアで領地を広げた挙句に、新・無意識が振るのさいころの目として出てきます。意識はそれを自分が選んだと体験しますが、少しニュアンスが違っていると「ウーン、物悲しいというのともちょっと違うなあ」と訂正を求めてきます。
皆さんはこの言葉のダーウィニズムが物質の結合とそっくりであることに気がつくと思います。私たちの体の中で、例えばある受容体にセロトニンがくっつくというのはどういうことかといえば、セロトニンの受容体に、沢山の分子が近づいては、鍵と鍵穴の関係がうまく行かずに去っていきます。ところがセロトニンだとうまくリセプターについて、そこで信号の伝達が起きます。あるいはたんぱく質が合成される時も、遺伝子の配列にそってさまざまな分子が接近しますが、適当なアミノ酸分子だと、これだと前会一致で決まります。ところがちょっと構造の似た分子だと付きかけて離れる、あるいは間違って付いてしまって間違ったたんぱく質が合成されるということが起きるのでしょう。

● 言動、ファンタジー、夢などは、その背後に明確な動因が存在しない場合が多い。(細かい複数の動因はたくさん存在し、それらが重層決定(フロイト)する)

 さてそのように考えると、言動やファンタジー、夢などはかなり恣意的でいい加減ということになります。夢についての池谷先生の説明を先ほどしましたが、曲でもそれ以外の創作活動でも、さまざまな組み合わせが試される。では何が選ばれるか。新皮質に占める面積の拡大、ということですが何がその領土拡大につながるのか。それを決定している要素は不明なのでしょう。それは単純に快感原則に従っているというのではないかもしれません。例えばある曲が浮かぶとき、それはそれが快感を生むから、というよりは新奇性、ユニークさ、ないしはサリエンス(突出していること)がものをいっているのかもしれません。ある旋律が斬新だったら、それは新・無意識の中で突出し、意識野に送られてくるでしょう。それは結局は心地良い情報、ということが出来るでしょう。しかし外傷体験のフラッシュバックのことを考えたら、ダーウィニズムを支配しているのが単純な快感原則ではないことはお分かりでしょう。おそらくトラウマ記憶にはそれに独自の振る舞いがあり、新・無意識の中でもそれに引っ張られる形なのでしょう。