2016年10月30日日曜日

書く楽しみ (続)

私はここのところをわかって欲しいので、盆栽の例を出したいと思います。盆栽が美しいと評価されるためには、手が加えられなくてはなりません。盆栽の品評会に、どこかに生えていた木をぽんと鉢に生けて持ってきても、誰もいいと思わないでしょう。それは余計な枝や葉が出ていて、形式としては美しくないからです。盆栽は手が加えられることで、隅々が全体に対しての部分という意味を持ち始める。
 またそれは今流行の
3Dプリンターで精巧に作られたプラスティックの木であってはなりません。もし一位になった盆栽が実はイミテーションだとわかれば、大スキャンダルになってしまいます。それは自然のものに手を加えられたものでなくてはなりません。それは自然から切り出したものである必要があります。そしてそこに切り落とされた断端がなくてはなりません。そうでないと、それが現実であって現実でないという矛盾が生じず、要するに面白くないのです。CGはそれが現実であって現実でないというところが面白い。実は症例報告もそうで、それが現実から切り出された盆栽でない限り、そもそも伝わらないのです。しかし伝わった瞬間にその症例は言うのです。「私の本当の姿はつかめませんよ。」それを症例報告する側も、聞く側も同時に体験しつつその症例に聞き入るということなのでしょう。だから美しい症例は、作品は、それが感動を与える分だけ人の手が加えられたものということがいえます。

最近なぜこれがこんなに流行るのか、という作品に関する専門家の解説を思い出します。「あの作品は実はつまらない。売れる要素を詰め込んだだけだから。プロの目から見たらナーンだ、と思うね。」最近大ヒットした漫画映画」「君の○は」がそうでしたし、例の佐○河○ 守さんが作ったとされた交響曲もそうでした。