2016年10月21日金曜日

解離の概念および治療 ⑦、 退行 ⑨

解離性障害の対応と治療

という形で後半を書き始めるのだが、以前に書いたものでかなり言いたいことは言っている。自己引用しながら言い回しを変えつつ、進めてみよう。
はじめに
本稿では解離性障害をいかに臨床的に扱うかというテーマで論じる。扱う精神疾患は転換性障害を含む解離性障害一般であるが、その中でも解離性同一性障害 dissociative identity disorder (以下本稿では「DID」と記する解離性健忘 dissociative amnesia  (以下「DA」と記する) については臨床上の扱いの難しさもあり、特に詳しく論じることにする。

解離性障害を持つ患者との出会い
解離性障害を有する患者と出会い、初回面接を行う際の留意点についてまず論じる18)
解離性障害の初回面接は、患者が「解離性障害(の疑い)」として紹介されてきた場合と、統合失調症や境界性パーソナリティ障害の診断のもとに紹介されて来た場合とではかなり事情が異なる。本稿では解離性障害の可能性があると思われる患者について、その鑑別診断を考慮しつつ初回の面接を行うという設定を考えて論じることにする。ちなみに解離性障害は決して珍しい障害ではない。一般人口の 1~5% に見られるという見解もあり24)、精神科医が一般の臨床で実際に出会うことは決して少なくない。また解離性障害についての認知度が増すに従い、それが見逃される可能性は少なくなってきているであろう。  
 患者を迎える
解離性障害の中でも特にDID の初回面接においては、患者はしばしば面接者に警戒心を持ち、自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて不安を抱えている。面接者は患者にはまず丁寧にあいさつをし、初診に訪れるに至ったことへの敬意を表したい。DIDの患者は多くの場合、すでに別の精神科医と出会い、解離性障害とは異なる診断を受けている。患者が持参する診療情報提供書や「お薬手帳」には、過去に統合失調症を疑われた名残としての抗精神病薬の処方がみられるかもしれない。またそのような経験を持たなかった患者も、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性を、面接者は念頭に置かなくてはならない。
 解離性障害の患者が誤解を受けやすい理由は、解離(転換)の症状の性質そのものにあると考えられる。DIDのように心の内部に人格部分が複数存在すること、一定期間の記憶を失い、その間別の人格としての体験を持つこと、あるいは転換性障害のように体の諸機能が突然失われて、また回復することなどの症状は、私たちが常識的な範囲で理解する心身のあり方とは大きく異なる。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、それにより相手を操作しようとしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのように誤解されるという体験を何度も繰り返す過程で、医療関係者にさえ症状を隠すようになり、それが更なる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 初診に訪れた患者に対してまず向けられる質問は、患者の「主訴」に相当する部分であろう。もちろん挨拶を交わし、本人の年齢、身分(学生か、会社勤務か、など)、居住状況(独居か、既婚か、実家で家族と一緒か、など)、等の基本的な情報をまず聞いておくことは賢明である。しかしその次の質問は、本人が現在一番困っていること、不都合に感じていることに焦点づけられるべきであろう。
 筆者の経験では、解離性障害の「主訴」には、「物事を覚えていない」「過去の記憶が抜け落ちている」などの記憶に関するものが多い。それに比べて「人の声が聞こえてくる」「頭の中にいろいろな人のイメージが浮かぶ」などの幻覚様の訴えは、少なくとも主訴としてはあまり聞くことがない。それは前者は患者が実際の生活で困っていることであるのに対し、後者は患者がかなり昔から自然に体験しているために、それを不自然と思っていない場合が多いからであろう。
現病歴を聞く
解離性障害の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症した時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、特に DID の場合は、ものごころつく頃にはすでにその症状の一部は存在している可能性がある。たとえ明確な人格の交代現象は思春期以降に頻発するようになったとしても、誰かの声を頭の中で聴いていたという体験や、実在しないはずの人影が視野の周辺部に見え隠れしていた、などの記憶が学童期にすでにあったというケースは少なくない。ただし通常は解離性障害の現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が始まった時点におくのが妥当であろう。
 もちろん解離性障害の患者の中には、幼少時の解離症状が明確には見出せない場合もあり、その際は現病歴の開始時を特定するのもそれだけ容易になる。たとえば DF の場合は突然の出奔が生じた時が事実上の発症時期とみなせるだろう。また転換性障害についても身体症状の開始以前に特に解離性の症状が見られない場合も多い。
 解離性障害の現病歴を取る際、特に注意を向けるべきいくつかの点を挙げるならば、それらは記憶の欠損、異なる人格部分の存在、自傷行為、種々の転換症状などである。
 患者に記憶の欠損の有無を問うことは、精神科の初診面接ではとかく忘れられがちであるが、解離性障害の診断にとっては極めて重要である。記憶の欠損が解離性障害の診断にとって必須の条件というわけではないが、同障害の存在の重要な決め手となることが多い。人格の交代現象や人格状態の変化は、しばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかしその記憶の欠損を認める代わりに、患者の多くは「もの忘れ」が酷かったり注意が散漫だったりすると他人から思われるほうを選ぶかもしれない。初診の際も患者は問われない限りは、記憶の欠損に触れない傾向にある。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の3年から6年の間の事が思い出せない、とか。」等の具体的な問いを向けるのが適当であろう。
 他の人格部分、ないしは交代人格と呼ばれるものの存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くの DID の患者が治療場面を警戒し、異なる人格部分の存在を安易に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに他の人格部分がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特に DID が最初から強く疑われている場合には、つねに他の人格部分が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等はいずれも妥当な質問の仕方といえるだろう。


 退行 ⑨

こっちも進めなきゃね。



初めに
現代の精神分析において、退行という概念はどのような意味を持ち、いかなる臨床的な意義を有するのかについて考えたい。最初に言葉の定義から見てみよう。

小此木啓吾は精神分析における退行の概念について、以下のように記している。
「退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。フロイトFreudS は,失語症の研究(1891)を通して,このジャクソンJacksonJ. H.の進行 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。」(小此木、精神分析学事典、岩崎学術出版社)

フロイト及び自我心理学における退行

フロイトの関心事は精神の病理性であったことを考えると、病理イコールジャクソンにおける進行と逆方向に向かう傾向ととらえることは自然であった。フロイトはその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させたが、それはヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。このような図式をフロイトは終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのままの形でアンナフロイトに受け継がれたが、そもそものリビドー論の衰退とともに忘れ去られる運命にあった。その中で対抗の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris ARISE(自我のための適応的な退行)という考え方であろう。(以下、赤字は小此木) Kris はフロイトの「抑圧の柔軟性 Lockerung der Verdrangung (1917)の概念を手がかりに自我による自我のための一時的・部分的退行 temporary and partial regression in the service of ego」と進展の概念を提示した。病的な退行は不随意的(無意識的),非可逆的で自我のコントロールを失った out of control of ego退行であるが,健康な人間の酒落,ウイット,遊び,性生活,睡眠,レクリエーション,その他の退行は随意的(前意識的)可逆的な自我のコントロール下 under the control of ego の退行であるという。中でも,芸術的創作過程で働く昇華機能と結びついた「自我による自我のための一時的・部分的退行」はシェーファーSchaferR. (1954)によって創造的退行 creativeregression」と呼ばれる。以上述べたのは米国の自我心理学の退行理論として分類されよう。

こうやって改めて文章に組み込むと、小此木先生の文章は簡潔で的確である。やはり彼は天才だった・・・・。

対象関係論における退行

退行の真の価値は、それが臨床に結び付けられた際に発揮されると考えることが出来る。英国の独立学派の, パリントBalintM.,ウィニコット WinnicottD. W. は,それらの代表といえる。パリントは,「基底的欠損 The Basic Fauld (1968)」の中で,ある患者はほとんど全体的な退行状態を示すことなく治癒していくが,ある患者たちは全体的な退行状態に陥る。その中には,退行状態の後再び成長を始める患者群(良性の退行の形態 benign form of regression)と,快楽に対する要求が際限なく起こり,治療的に扱えなくなる患者群(悪性の退行の形態 malignant form regression)があるとして、良性の退行は,外傷体験の時期よりも以前の無邪気な状態 arglos に回帰でき, 一次的な関係 primary relationshipに退行し,新しい出発を始め,新しい発見へと向かうが,悪性の退行は,絶望的なしがみつきに陥り,止まることを知らない要求や欲求を抱き続けて,嗜癖的な状態になり,新しい出発に達することができない。パリントは,一部の患者が深い悪性の退行状態に落ちる理由として「基底的欠損」という前エディプス期,特に口愛期の対象との依存葛藤が,環境との関係で適切に解決されていない基本的な障害があるためであるという。ウィニコッ卜は,退行を環境とりわけ母親に対する依存への退行と見なし,ある患者は治療の途中で「真の自己 true self」が突然出現して,乳児の状態まで退行し,治療者も母親としての役割をとらざるを得ず,分析者としての立場を維持できなくなることがある(パリントのいう悪性の退行)が,患者の中には一時的に退行を示して成長していく,いわゆる発達をもたらす退行状態を示すものがあり,その退行は治療的に有意義で,治療者がそれを受容し,いたずらに解釈せず,患者が成長するまで,患者とともにいて待つことの重要さを唱え,基本的にバリントと同様の意見を説いている。(赤字小此木)

 いきなりトンで、ここも書いてしまおう。
治療への応用

退行の概念は、治療への応用を考える際に最も意義を有する。シンプルな提言から述べてみよう。治療関係や治療状況とは、そこで退行が生じることを一つの前提としていないだろうか?現代の分析家ならおそらく眉をひそめてこういうだろう。「うーん・・・・。ちょっと違いますね。分析とはそこで転移が生じることです。」もちろんこの答えは大正解である。しかし転移が生じる一つの前提は、退行ではないだろうか?(もちろん退行という概念を前面に出せば、ということである。別に退行といわなくてもいいのであろうが。)もちろん退行を伴わない転移もある。目の前の治療者が表情を変えずに話を聞いているだけなので、怖い父親のように思えてきた、という例はどうだろう?しかしこの「退行を伴わない転移」はおそらくどこにも生きようがないであろう。なぜなら治療のある時点で「先生のことを、怖いお父さんと同じように感じていましたよ!」という心の裡を話す機会がなくてはならず、そこではそれを話せるという退行した心情がどうしても必要となってくるからだ。
ともかくもフロイトも自我心理学者も対象関係論者もこの治療状況における退行という考えに親和性を持っていたことからも、治療=退行の促進という図式自体に問題はないことになる。

したがって退行は現代的な意味からも、治療を論じる請けで需要な概念ということが出来る。しかし果たしてこれは前の状態に戻ることなのか、新たな進展なのだろうか?ここが重要だ。