2016年9月30日金曜日

Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑦、退行③

Freud continued to believe that seduction can still be occurring, but it is significant only because it increased the child’s libidinal excitation without discharge. In other words, external events play a role because they influence the internal condition. Thus Freud succeeded in uniting two antithetical factors into a single coherent model. In order to make this theory plausible, the “apparatus” of mind should be intact in performing its dynamic mechanism. It allows excessive libidinal excitation due to seduction which mobilizes the defense mechanism of repression, which results in symptom formation in later life. What Freud did not take into account is a state where trauma is so damaging to the mind that the “apparatus” can no longer maintain its integrity, resulting in catastrophic phenomenon, such as splitting of mind and “hypnoid state” that Breuer conceptualized. 


退行 ③


『夢判断』に1914年に付加された記述で,フロイトは退行を区別し,   a) 図式(心的装置)における逆行の意味での局所的退行
b) 以前の心的構成が再びあらわれる時間的退行
  c)  
通常の表現,描写の様式が原始的な様式のものに置き換わる場合の形式的退行
3つに区分し,「これら3種の退行は基本においては同じものであり,多くの場合,合併している。なぜなら時間的に古いものは同様にその形式において原始的であり,心的局所論においては知覚末端のより近くに位置しているからである」という。

フロイトはこの種の分類が本当に好きだな。こういうところが本当に理科系なのだ。

この観点から見ると,夢における局所的退行は,発達した正常な思考や表現形式が,より原始的な形式に退行するという意味での「形式的退行 formal regression」であり,発達としてみると,より古い段階への退行という意味で,「時間的退行 temporal regression」とみなすことができる。さらに時間的退行の一つとして,フロイト(1917) は,性的本能 (リビドーの発達と退行の理論を提起した。リビドーの発達は,その途上で固着点 fixation を残すが,一定の発達を遂げたリビドーは,一定の欲求挫折 frustration を契機として固着点に退行する。すなわち欲求挫折と固着が退行を引き起こす二大要因である。この退行したリビドーと抑圧の葛藤が,神経症の症状を形成すると考えられ,さらにこのリビドー退行には,過去のリビドー対象への逆戻りである「対象退行 object regression」とリビド一体制全体の、例えば強迫神経症における性器期体制から肛門期体制への退行のような欲動体制そのものの「欲動退行 drive regression」が区別された。さらにフロイトはリピドーの退行に加えて,自我の防衛機制の発達と退行における「自我退行 ego regression」を明らかにし,自我が適応,防衛のために退行をその手段として用いる「適応的退行 adaptive regression」や
「防衛的退行 defensive regression」が解明された。そして,これらの発達過程における固着とその固着点への退行(その退行状態に対する神経症的ないし精神病的防衛)によって,神経症や精神病(精神分裂病や繰うつ病)の病型の違いを説明する試みがフロイト,そしてアブラハム AbrahamK. によって大成され,精神分析的な精神病理学の基本的枠組みとなった。例えばヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。フロイトはしばしば,幼児期の過去が(個体のみならず人類の過去が)われわれのうちに残っているという事実を強調し,「原始的な諸状態はいつでも再生されうる。原始的精神は完全に不滅である」という。

フー。フロイトの頭って一体どうなっているんだろう?この情熱はどこから来たのか?とにかくフロイトは、「神経症において何が起きているのか」という疑問に、退行という概念で一生懸命こたえようとしていたことがわかる。下線部、つまり欲求挫折と固着ということが退行の二つの要因であり、日常生活や社会生活で体験した欲求挫折が、固着点に向かわしめる。それが退行であるとした。

2016年9月29日木曜日

トラウマ概念再々考 5



この後なぜかPTSD概念が精神医学の歴史の表舞台から姿を消す。何しろ1952年のDSM-Iにさえ出てこないんだから。
 どうしてかはわからないが、とにかく流行らなかくなったのだ。米国を含む大きな戦争がしばらくなかったからという事情もあるだろう。その間に公民権運動は進展していた。弱い立場の人、虐待の犠牲者、女性、子供の権利の拡大が起きた。そしてベトナム戦争。フロイトが「戦争が終わったらあっという間に消えてしまった」「謎めいた病気」である
PTSDが再び姿を現すことになったが、今度ばかりはこれを忘れるわけにはいかなかった。ということで1980年のDSMにはくっきりと、はっきりとPTSD(≒戦争神経症)が明示され、ようやく本格的な学問の対象となった。ここからのスライドはいくらでも作ってある。だいたいのあらすじは、客観的にその存在を示すことが出来、誰にでも
PTSDの発症を導くようなトラウマの存在 → 主観的な要素の重視(その人にとってトラウマになるものがトラウマ)という大きな概念上の変遷が生じたということである。
 その次に生じたこと。それは愛着トラウマという概念であった。ここらへんもスライドで流そう。

2016年9月28日水曜日

自己愛と怒り ④, Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑥

アンナ・フロイトの伝記をわけあって読み続けているのだが、1923年にオットー・ランクとフェレンチが「精神分析の発展the development of psychoanalysis
を書いたあたりから、ランクがグループを脱退する姿勢を見せ始めた頃は、フロイトに代わってランクに怒りを向けていた。
「アンナはランクという名前が挙がっただけで頭に血が上っています。Anna spits fire when the name Rank is procounced.EYB p149
一方ではアンナは父親には逆らえず、confidant 「心を打ち明ける聞く相手」であるアイティンゴンにはようやく「手紙が遅いです!」などと愚痴を言うことができた。

このアンナ・フロイトで起きていることはどういうことか?他人に代わって恥を感じ、また恥をかかせた人に起きるという現象である。こうなると自己愛の問題なのか、という気もするが私たちも日常生活でよく体験する。テニスの錦織君が試合で相手から中傷され、恥をかかされたとしたら憤慨するだろう。これは自己愛の怒りといえば言えないことになるが、実は恥をかかされたのは私自身ではない。すると私が錦織君にどこまで同一化するかにより、いかに「あたかも自分が馬鹿にされたような気がする」かがわかるだろう。でもそれが異常とは限らないだろう。ただしアンナ・フロイトに起きていたことは、父親との献身的な同一化という厄介な問題だった。何日か前のブログで、彼女は「愛他的な降伏」として、一つの防衛機制として論じている。フロイトはこれを 「他者のための撤退 retiring in favor of another」といったというが、 これをやったのであろう。(EYB p212)ちなみにこの "retiring in favor of another" は、検索をいくらかけても出てこない。結局 EYB のこの本での解説部分しか引っかからない。まさか彼女のでっち上げということでもあるまいし。


Toward the theory of Dissociation with capital D ⑥

I consider that the reason why Freud so much loathed the notion of dissociation is because he was dealing with two antithetical topics,which cannot be coordinated by their nature. One is drive theory and the other is that of multiple external factors affecting human mind. To deal with both factors simultaneously, theory of dissociation was not suitable. Here is the reason. First of all, Freud was by nature a drive theorist. He cannot think about human mind without drive as its motivating force (hence the notion of “drive”) This theory is inherited to Freud from traditional theory of mind, bating back to Mesmer’s animal magnetism, or even further before, such as Hippocratic notion of humorism. Humorism posited that an excess or deficiency of any of bodily fluids affects human’s mental condition. Freud’s theory of libido is considered to be right on the track of humorism, with his peculiar spin of sexual theory.

On the other hand, he maintained the theory of sexual trauma, even after he “abandoned” the so-called “seduction theory”.

2016年9月27日火曜日

トラウマ概念再々考 4

ここで流れに乗って、フロイト(1919)が『戦争神経症の精神分析にむけて』への緒言(フロイト全集、16 p109113)で何を書いているかを振り返る。決して脱線ではない。当時は第一次世界大戦の影響で、この「謎めいた病気」(フロイトの言葉。要するに戦争神経症、すなわちPTSD)を分析的にどのように考えるかという動きがあった。しかし終戦と同時に、この病気は消えてしまった、とフロイトは言う。そして、「心因性の症状、無意識的な欲動の蠢きの意味、心の葛藤を解決するための一時的疾病利得の役割は、戦争神経症においてもそのまま確認され」た、と言っている。ヒエー!すごい自信。フロイトはこれにより医師たちが精神分析に興味を持ってくれるのはうれしいものの、さらに精神分析を誤解するきっかけになったら困る、という言い方をしている。そして戦争神経症は一見性的な問題とは無関係であることを認め、戦争神経症と、「平和時の転移神経症」を分けるような言い方をしている。そして転移神経症は、内的な敵、すなわち欲動を相手にするものであり、戦争時は一過性の、外的な敵を相手にするものの、それは戦争が終わってしまえばおさまってしまい、再び内的な敵を相手にしなくてはならなくなる、という言い方をしている。現代的な見方からは、おそらくPTSDは決して戦争や外傷が終わってもそれでは容易に終わることがないこと、そして転移神経症における性的な原因は、フロイトのこのテーマの固執によるもの、と言わざるを得ないだろう。最近の愛着トラウマの観点からは、実は平和時の神経症においても、神経症の要因として考えられるのは、やはり幼少時のトラウマなのである。しかしそれはやはり、主観的なトラウマ、加害者の見えないトラウマというしかない。

2016年9月26日月曜日

トラウマ概念再々考 3

最初の順番に戻ろう。明らかに第一次大戦はフロイトの思考に大きな影響を与えた。これは一方では戦闘体験というトラウマが人の心に決定的な変化を及ぼすという理論を生んだ。リンデマン、カーディナーたちの貢献である。カーディナーなどはもちろん時代の影響を受け、分析家でもあった。他方ではフロイトは戦争神経症の理論に影響を受けつつも、その理論を本質的に変えることはなった。ここで非常にうがった見方をするのであれば、フロイトは「もはやトラウマがあった、なかったの問題ではない」という立場であった。フロイトは戦争神経症を、精神分析により治癒しゆるものと考えたようであるが、それは彼の頭の中では、戦争神経症がエチオロジーとしては単純な構造をしていたからだ。実際の幼児体験においてはもっと複雑なことが起きうる。それは欲動と環境の相互作用に起きるある事象である。すなわちリビドーの蓄積。

フロイトのいかにも古く最古の思考は、しかし現在のトラウマ理論からすると複雑な斬新さを有する。もちろんリビドーというのは幻であり、フロイトの一種の妄想である。しかしトラウマの原因は、ある意味ではその場で体験されず、表現さえもされなかったある種の情動、特に怒りや欲求不満であるという事実は、かえってフロイトの着想の正しさを示しているようでもある。表現されず体験すらもされず、しかし解離された形で人の心を席巻するのは何か?これをクライエントたちの言葉から想像するに、それは「人として扱われなかった」「生まれてこなければよかった」「モノのように扱われた」という体験であろう。「程よくない」環境にいる子供たちがこのことに頭を悩ませる。ここで人として扱われなかった体験の最たるものが「自分の感情を持つことを許されない」体験なのである。

2016年9月25日日曜日

退行 ②

退行についてほっておいたな。これも期日が迫っている。

覚醒時は知覚系 → 随意運動だが、睡眠中は逆行して、心的興奮→知覚系になるという。でもフロイトの時代の、プリミティブな脳科学に基づいた仮説ともいえる。夢は覚醒時とは真逆ですよ、と言うフロイトの仮説を前提にした理論、という感じがするのだ。
ところでそもそも退行って何だろう?やはりバリントの「悪性の退行」の概念が秀逸だな。良性の退行はARISE(自我のための適応的な退行)ということだ。良性の退行は、構造を守り、退行している自分を見守っていて、また通常の自分にいつでも戻れる。全体的にアズイフ的。ところが悪性の退行はもう子供になりきってしまう。本気になって退行し、感情を表現し、周囲を困らせる。自分で自分を律することが出来ない。興味深いのは、この悪性退行は、飲酒による「手の付けられなさ」に似ていること。飲酒でもクダを巻いて羽目を外して、時には警察が呼ばれることにまでなる。本人はそれを翌朝おぼえていず、事態を知らされて真っ青になるなどのことが起きる。おきていることはかなり純粋に生物学的なことだ。
 私が体験した例では、悪性の退行では一種の嗜癖的な対象へのしがみつきがある。よくないと思っても付きまとう、などの事態が生じる。歯止めが効かなくなる。それが悪性の退行の特徴だ。しかし繰り返すが、「退行」ってナンだ?そのしがみつきが精神や神経の発達の初期の段階に逆戻りをする、と言うニュアンス。いわば変質degeneration をも思い浮かばせるニュアンスがある。それがフロイトの思考を経ると、子供時代に戻ってしまうこと、となる。いわば子供の心はニュアンス的には病理を含むことになる。例えば「彼は完全に肛門期に退行しているね」といった場合、肛門期をある種の病理性を含んだものとして捉えるというニュアンスがある。そう、このように退行という概念にはある種の価値基準が持ち込まれているのである。おっと、脱線が過ぎた。引き続き「辞典」における小此木先生の記載を読む。


2016年9月24日土曜日

Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑤

Why was Freud so much opposed to the idea of “hypnoid state”? Because the latter presupposes the splitting of the mind, which, according to him was dynamic explanation. Below I quote Freud the last chapter of the “Studies of Hysteria” (Freud, 1895, p.286)
Now both of us, Breuer and I, have repeatedly spoken of two other kinds of hysteria, for which we have introduced the terms ‘hypnoid hysteria’ and ‘retention hysteria’. It was hypnoid hysteria which was the first of all to enter our field of study. I could not, indeed, find a better example of it than Breuer's first case, which stands at the head of our case histories. Breuer has put forward for such cases of hypnoid hysteria a psychical mechanism which is substantially different from that ofdefence by conversion. In his view what happens in hypnoid hysteria is that an idea becomes pathogenic because it has been received during a special psychical state and has from the first remained outside the ego. No psychical force has therefore been required in order to keep it apart from the ego and no resistance need be aroused if we introduce it into the ego with the help of mental activity during somnambulism. And Anna O.'s case history in fact shows no sign of any such resistance.
I regard this distinction as so important that, on the strength of it, I willingly adhere to this hypothesis of there being a hypnoid hysteria. Strangely enough, I have never in my own experience met with a genuine hypnoid hysteria. Any that I took in hand has turned into a defence hysteria. It is not, indeed, that I have never had to do with symptoms which demonstrably arose during dissociated states of consciousness and were obliged for that reason to remain excluded from the ego. This was sometimes so in my cases as well; but I was able to show afterwards that the so-called hypnoid state owed its separation to the fact that in it a psychical group had come into effect which had previously been split off by defence. In short, I am unable to suppress a suspicion that somewhere or other the roots of hypnoid and defencehysteria come together, and that there the primary factor is defence. But I can say nothing about this. ( Studies of Hysteria,1895, p285., stress added by Okano)
 Freud’s stance is clearer in his statements found in the “Psychoneuroses of Defense" (1894).
Let me begin with the change which seems to me to be called for in the theory of the hysterical neurosis.
Since the fine work done by Pierre Janet, Josef Breuer and others, it may be taken as generally recognized that the syndrome of hysteria, so far as it is as yet intelligible, justifies the
assumption of there being a splitting of consciousness, accompanied by the formation of separate psychical groups.1 Opinions are less settled, however, about the origin of this splitting of consciousness and about the part played by this characteristic in the structure of the hysterical neurosis.
According to the theory of Janet (1892-4 and 1893), the splitting of consciousness is a primary feature of the mental change in hysteria. It is based on an innate weakness of the capacity for psychical synthesis, on the narrowness of the ‘field of consciousness (champ de la conscience)’ which, in the form of a psychical stigma, is evidence of the degeneracy of hysterical individuals.
In contradistinction to Janet's view, which seems to me to admit of a great variety of objections, there is the view put forward by Breuer in our joint communication(Breuer and Freud, 1893). According to him, ‘the basis and sine quâ non of hysteria’ is the occurrence of peculiar dream-like states of consciousness with a restricted capacity for association, for which he proposes the name ‘hypnoid states’. In that case, the splitting of consciousness is secondary and acquired; it comes about because the ideas which emerge in hypnoid states are cut off from associative communication with the rest of the content of consciousness.2
I am now in a position to bring forward evidence of two other extreme forms of hysteria in which it is impossible to regard the splitting of consciousness as primary in Janet's sense. In the first of these [two further] forms I was repeatedly able to show that the splitting of the content of consciousness is the result of an act of will on the part of the patient; that is to say, it is initiated by an effort of will whose motive can be specified. By this I do not, of course, mean that the patient intends to bring about a splitting of his consciousness. His intention is a different one; Freud, “Psychoneuroses of Defense" 1894, p.46, stress added by Okano.



2016年9月23日金曜日

自己愛と怒り ③ トラウマ概念再々考 ②

自己愛と怒り ③

事件は必ず「自己愛の傷つき(自己愛トラウマ)→ 怒り」という形をとる

さて私が自己愛トラウマという概念に行き当たったのは、そもそも怒りの問題を考えていた時である。私は怒りの大部分は自己愛憤怒だという考えに至った。ただしどうやら自己愛憤怒には二種類ある、というのが、のちにフロイト親子の例から分かったことになるのだが。自己愛の傷つきを体験すると、人は時には欝になり、時には怒りを体験する。いつも出す例で非常に恐縮だが、20年以上も前の話だが、クリントン元大統領は、モニカ・ルインスキー嬢のことが表に出て、一方では「誰がそんなことをバラしたんだ!」と猛烈に怒ったそうである。しかし他方では深刻な抑うつ的になった。この様に自己愛の傷つきの典型的な反応としては抑うつか、怒りか、ということになる。しかしこうなると怒りはまさに防衛ということになるのではないか。自我と防衛機制をまとめたアンナ・フロイトが加えたのは、「攻撃者との同一化」と「愛他的な降伏」である。彼女は前者でこのことを言っていたのだろうか?自分の恥の感情を防衛するために怒る?彼女はたとえばピーター・スウェールズの父フロイトに関する暴露的な研究に対して、「とんでもない事だ!」と怒ったわけだ。これは日本語では「逆ギレする」ということに近い。逆ギレ、英語では misplaced anger とか、backfiring とか言うらしい。


トラウマ概念再々考 ②

なんか危機的な状況になってきたな。書く原稿が4つはある。同時に講演が年末までに6つ控えている。しかもそれぞれが違うテーマだ。もう私を救ってくれるのはこのブログしかない。読者にはわからないだろうが。

ということでトラウマ再々考。これは1120日の講演の準備だ。前回は「次の段階は戦争神経症」とかのんきなことを言っていたが、行き着く先を示そう。それはトラウマの際に生じている、体験の自己表現の阻止ないし停止、ということだ。そしてこれは対人関係のトラウマと考えていいだろう。これが起きるならば、トラウマの要件は整っていることになる。どうしてそれまでは順調に進んでいったと思える親子関係のコミュニケーションが突然トラウマの意味を持つのだろうか? これはよくわからないが、一つは記憶の問題が関係していることは間違いがないだろう。ある種の固定のされ方をした記憶がよみがえり、人の心に害を与える。これしかないのだ。ある親からのひとこと。大抵はそれに対して返すことは出来ない。これは性被害についてもいえる。ある種の誘いかけに応じてしまい、ある心のあり方(嫌悪?恐怖?の前駆体か?)が表現されずに事態が推移してしまう。トラウマの元凶はここにありそうなのだ。

2016年9月22日木曜日

自己愛と怒り ②

ところで自己愛と怒りについて調べると、フロイトがすでに「自己愛損傷」について触れていたという記述にぶつかる。こんな感じ。
引用元 http://purplebaby.opal.ne.jp/2013/06/post-115.html

「自己愛損傷(or自己愛傷痕)はジクムント・フロイトによって1920年に使われたフレーズで、自己愛創傷および自己愛打撃は程度がそれ以上であって、相互にほぼ代替可能な用語である。・・・ 1914年の『狼男』の症例研究でフロイトは、後期の大人になってからの神経症の原因を、『彼は、彼の淋病の感染が彼の身体の深刻な傷になると考えることを強いられた。彼のナルシシズムに対するこの打撃が彼にとって過大なものであり、彼はバラバラになった』時点であると識別した。数年後、「快感原則の彼岸」においてフロイトは、幼児性欲への不可避的な退行から判断して、「愛の喪失やしくじりがそれらの背後に自己愛に対する恒常的な損傷を自己愛傷痕の形で残す、... 彼が『嘲笑』されたところの最大限の反映によって」と主張した。1923年に彼が付け加えたのは、「吸った後の母親の乳房が失われる経験から、また大便の日常的な引渡しからの、身体的喪失を通すことによって自己愛損傷の着想を獲得する」喪失はその後「この喪失の着想が男性器に結びついた」時に去勢コンプレックスに流れ込む。一方で1925年には彼はよく知られているように、「女性が彼女のナルシシズムへの傷に気付いたのちに、彼女は傷痕のように劣等感を発展させる」とするペニス羨望に関して付け加えた。・・・フロイトが彼の最晩年の著書で『自己に対する早期の損傷(自己愛に対する損傷)』と呼んだものは結果的に幅広い様々な精神分析家によって拡大された。カール・アブラハムは大人の抑鬱のキーが、自己愛備給の喪失を経由したナルシシズムに対する打撃の幼児体験にあるとみなした。オットー・フェニシェルは抑鬱における自己愛損傷の重要性を確認し、境界性人格を包含するためにその分析を拡大した。・・・エドムンド・グラバーは、ナルシシズムにおける幼児的全能感の重要性と、自己愛的全能感への何らかの打撃のあとにくる憤怒を強調した。また一方で、ラカン派は、自己愛創傷におけるフロイトを自己愛的鏡像段階におけるラカンに結びつけた。」


正直言ってフロイトのこの記述を知らなかった。英語版のwiki(https://en.wikipedia.org/wiki/Narcissistic_rage_and_narcissistic_injury)読むと、フロイトが「標準版」で使っている用語がわかる。


In his 1914 case study of the "Wolfman", Freud identified the cause of the latter's adult neurosis as the moment when "he was forced to realise that his gonorrheal infection constituted a serious injury to his body. The blow to his narcissism was too much for him and he went to pieces".[4] A few years later, in Beyond the Pleasure Principle, looking at the inevitable setbacks of childhood sexuality, Freud maintained that "loss of love and failure leave behind them a permanent injury to self-regard in the form of a narcissistic scar... reflecting the full extent to which he has been 'scorned'" In 1923 he added that "a child gets the idea of a narcissistic injury through a bodily loss from the experience of losing his mother's breast after sucking, & from the daily surrender of his faeces" – losses that would then feed into the castration complex when "this idea of a loss has been connected with the male genitals";[6] while in 1925 he famously added with respect to penis envy that "after a woman has become aware of the wound to her narcissism, she develops, like a scar, a sense of inferiority".

でも考えてみると、フロイトはなぜこの程度の記述でおしまいにしているのだろう?フロイトの人生ですぐ思い出すのが、父親がユダヤ人め、と帽子を落とされたというエピソードである。以下は以前に私がブログで書いたものの自己剽窃である。

フロイトの人生を思う時、「夢判断」(Freud, 1900)において彼自身が語っている有名なシーンがある。フロイトの父ヤコブが、ユダヤ人であるというだけで人から罵倒されて帽子をどぶに落とされた時に、ヤコブはそれに立ち向かわずに、落とされた帽子を黙って拾って立ち去ったという話である。それを聞いた時の幼いフロイトの反応は、無力な父親に対する情けなさや恥の感覚であったに違いない。フロイトは後の人生ではそれを強気ではね返すことを旨としたようである。彼は人間の心に常にポジティブな欲動や攻撃性を想定することで、父親や自分の中に潜む無力感や弱さを合理化していたのではないだろうか? それが「恥は本来は恥ずべきことではない事柄に対する防衛として生まれた」という先述のフロイトの議論につながるのである。




2016年9月21日水曜日

退行 ①


退行についても書きはじめなくてはならない。症例としては、母親と一緒でないと外出すら出来ないケースについて書くか。それと対象に対する依存症的な関係と退行についても大きなテーマになるだろう。甘えとの関連、ARISEの概念、創造性との関連、悪性の退行の概念など、論じるべきことは多くあるだろう。解離状態における退行の相当物といえば、子供人格への交代現象があげられるかもしれない。
さっそく精神分析辞典を調べてみよう。いろいろムズカシイことが延々と書いてある。しかも執筆担当は小此木先生だ。彼のことだから、ほとんど資料に具体的に当ることなく、そらで書いている可能性がある。

退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。フロイトFreudS は,失語症の研究(1891)を通して,このジャクソンJacksonJ. H.の進行 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。(小此木、精神分析学事典、岩崎学術出版社、以下同様)

フムフム。ここら辺はわからないことはない。要するに人間の心を脳の立場から見る人は昔からいて、もともとその考えからきているということだ。フロイトは心の探究者であると同時に脳の探究者でもあったからな。

最初に解明されたのは,夢判断 (1900) における「局所的退行 topographic  regression で,神経組織の分化,発達に伴う精神機能の発達が,覚醒状態では保たれているが,睡眠状態では退行し,覚醒時の思考では,知覚系から生じた心的興奮が心的装置において記憶系を通って随意運動を支配する前意識系に至るが,睡眠中は,この心的興奮の進行順序が逆行して知覚系の興奮による視覚像として現れると考えられる。このような局所的退行は,幻覚についても当てはまる。

ここらへん、現代の脳科学的にはどうなんだろ?

2016年9月20日火曜日

Toward the theory of “Dissociation with capital D” ④

Historical review

The controversy around the notion of dissociation dates back to Freud. The more we explore his views on dissociation, the deeper we are impressed how much Freud attempted to distance himself from the idea. It was already obvious in the “Studies of Hysteria”that he co-authored with Joseph Breuer, far before his well known conflict with Pierre Janet on the topic. What is remarkable is that Freud’s attitude toward dissociation as well as dissociative patients replicates itself in current psychoanalysis.
 When Freud realized that many hysterical patients suffered from childhood abuse and trauma, he nudged Breuer into writing the book with him. Freud proposed that there are different types of hysteria, such as hypnoid hysteria as well as retention hysteria and defense hysterial. However, his dissatisfaction with Breuer's idea of hypnoid (dissociative) state was obvious in the same book. He later made it clearer in “Dora’s case” as follows.

I should like to take this opportunity of stating that the hypothesis of ‘hypnoid states’—which many reviewers were inclined to regard as the central portion of our work—sprang entirely from the initiative of Breuer. I regard the use of such a term as superfluous and misleading, because it interrupts the continuity of the problem as to the nature of the psychological process accompanying the formation of hysterical symptoms. Fragment of an Analysis of a Case of Hysteria (1905) P27




2016年9月19日月曜日

自己愛と怒り ①


また新連載の追加である。「自己愛と怒り」。自己愛と怒りについてはこれまで述べてきたことの繰り返しになりそうだ。新たなアイデアはそうそうは出ない。
アンナ・フロイトの伝記を集中的に読んでいるのだが、彼女は数少ない気持ちを話すことが出来る相手であるマックス・アイティンゴンに向けて書いている。「私はいまひとつ自信が持てないのです。身近な人に良くやったと言ってもらえないとダメです。いつになったら自信が付くのか想像が付きません・・・・。」
アンナ・フロイトが30歳、父親フロイトが70歳の頃の話だ。これってまさにコフート的な世界ではないか?
アンナ・フロイトの人生を追っていると感じるのが、彼女自身がまさに「自我の防衛機制」を徹底させた人だということである。彼女は沢山の「秘密」を守るために戦い続けた人だ。彼女が特に憤慨し、怒りを表明したのは、1970年代になり、フロイトの人生そのものに肉薄し、ある意味ではスキャンダラスとも取れる研究を発表した人々、ポール・ローゼンとか、マイケル・スウェールズとか、ジェッフ・マッソンとか、マリアンヌ・クリュルといった人たちである。どうして彼らは父フロイトのことを根掘り葉掘り探りまわるのか、と怒ったわけだ。でも彼女の怒りは、どれほど正当化されるべきなのか? そう、この種の怒りは理屈ではない。防衛反応なのだ。恥をかかされること、秘密を暴露されることに対する反応としての怒り。
たとえばS.フロイトの怒りと比較してみよう。フロイトの怒りはそれとは違った。彼は男性の友人からの手紙の返事が遅れるたびにカッカしていたのである。つまり恥に関連した怒りにも二種類あるというわけだ。ひとつは恥をかかされたことに対する怒り。もうひとつは自己対象機能を発揮してくれない人への怒りということだろう。
コフートが自己愛憤怒について論じた際、そこでの怒りは自己対象機能を担ってくれない対象への怒りという意味を持っていた。しかし恥をかかす相手に対する怒り、というのはこの自己対象の議論と関係あるのだろうか?
わからないなりに次のようなまとめ方をしてみようか。父フロイトの際の怒りは、二者関係的な自己愛トラウマによるもの、娘アンナ・フロイトの怒りは三者関係的な自己愛トラウマによるもの。これでとりあえずどうだろう?




2016年9月18日日曜日

書くことと考えること(推敲) ②

書く事で体験を回避、ないし克服すること

ところで私にとって書くことは、それにより体験の場から離れ、それを上から見下ろす、高みの見物を決め込むというところがあります。これはある意味で大きな問題をはらんでいるのではないかと、自分自身が思うことがあります。それは実際の体験を回避する傾向とも言えるのです。そのような考えに至った二つの体験について考えたいと思います。(実はすでに何回か書いたことですが。)
一つは私が精神科医としてのキャリアを始めたばかりのことです。私の出身大学では精神科が真っ二つに分かれて対立していました。その対立は学生運動の名残であり、いわゆる外来派と病棟派がいがみ合い、それこそ相手への吊るし上げが生じたりするような激しいものでした。医学部を出た後に精神医学を専攻するものは、そのどちらで研修を受けるかを自分で決める必要があったわけですが、それは将来どちらの系列の病院に勤務することになるかも含めた、結構大きな決断を含んでいたのです。
さて私は医学部生のころ、これから精神科の研修をする医師として、こともあろうに精神科がお互いに話し合い歩み寄ることなく二つに分かれて対立を続け、研修の機会を狭くしているのはおかしいと考え、一人だけでも一年ごとにそれぞれの精神科の部局で研修することを要求しました。私の要求は今から考えても理にかなったものだと思うのですが、私の同期の他の6人も含めて、他に両方を回るなどと言いだす研修医は一人もいなかったのです。「そんなドン・キホーテのような真似をするのはお前ひとりでいい」、という感じでした。また私を受け入れる側の研修先も対応に困ったはずです。それでも一年ずつ外来派と病棟派で私は研修を行ったわけですが、私の中では初めて両精神科を回った稀有な研修生という形で誰からも評価を得ることなく、かえって両方から相手のスパイとして見られるということになり、実に涙ぐましい体験であったといえます。しかしほとんどだれもそれを知る人はいません。両方の精神科部局はあれほど憎しみ合っていたにもかかわらず、私が留学していている間にあっさり手打ちとなり、合併してしまったのです。私としては今から思い出しても大変な3年間だったのですが、私の中では一つの区切りをつけることが出来ているのです。その一つの大きな要因は、その顛末をある本のある章にまとめて書いたからです。それは「恥と自己愛の精神分析理論」という1997年の書で、いわば岩崎学術出版社という組織の力を借りて活字にした、私の体験のあかしなわけです。実は私のその章を読んで「先生も大変でしたね」という声をかけてもらったことは一度もありません。結局私の独りよがりで、他の人にとってはどうでもいい体験なのです。でも私がそれを受け入れることができるのは、それを活字にすることが出来たからです。大げさに言えば私の体験の記念碑が、そこに立っているようなもので、「そこに書いたから気が済んだ」というところがあります。 
このように私には文章を書くということは、ある意味では体を動かす体験をどこかで抑制する効果があるのではないかと考えるが、同時に一人の人間にできることは非常に限られ、それなら文章の一つでも残した方がましだ、と思ってしまうのだ。私はいろいろな体験を観察することから始めてしまう。これは業のようなものである。
 同じ文脈でもう一つの体験を語りたい。たとえば私は最近、精神分析家としてのアイデンティティーを揺るがされるような体験を持ったのです。私は精神分析家としてのキャリアを積むための一つの大きなプロセスともいうべき資格を得るための審査に落第してしまったのです。その審査の段階は通常形式的なものであり、その落選は全く予想外でしたし、ある意味では大きな失望や驚きの体験でした。しかしそのようなとき私がまず考えるのは、そのような体験をいかに自分の中に取り入れて、興味深く眺め、その上で現実がいかに予想外に展開し、いかに自分がそれに対して無力かを思い知るということです。つまりそのプロセスに対して異議を唱えたり、将来の審査に備えて状況を変えるということではないのです。
繰り返しますが、このような傾向は私を物事を受け入れるという方向に向かわせてくれるとともに、ある意味ではとても受身的にするというところがあります。この私の性質は、人生のあらゆる場面で人と争ったり、力を競ったりする舞台を避けることと関連しています。私は最初から敗北主義でエディプス葛藤を最初から放棄しているともいえるのです。私には人と真っ向から戦うということに対する抵抗が強く、すぐ相手に興味を持ち、観察してしまうというところがあります。そしてどこかで、実際の行動を伴った関わりではなく、著述こそが雌雄を決するものだ、と開き直っているところがあります。これは私なりのエディプス状況の切り抜け方、防衛であるとも言えるでしょう。


分かることとは、もう一度不可知に突き落とされること


結局私は人間の心の何をわかりたいのでしょうか? わかってどうするのでしょうか? 実は最後までわかってしまうのは、私にとっては不都合なのだろうとおもいます。もう考えることがなくなってしまうと、考えることが趣味の私としては困ってしまうというわけです。しかしうまくしたもので、人の心についてわかるということは、さらにわからないことに出会うということでもあります。わかるということは、ひとつの地点に到達したという感覚を生むと同時に、そこの先に広大な不可知を示してくれるのです。またそうでなくてはならないでしょう。
 山登りに例えるならば、一つのことをわかることは、一つの峯に立つことです。そこからこれまでは見えなかった景色が見えるのはうれしいことです。ふもとから今の地点までの足跡も振り返ることができます。しかし上を見ると、次の尾根くらいは見えますが、その上はまだ雲に隠れて山頂は見えないことに気が付きます。結局はその上にいつまでも峰が続いていることを知って呆然とし、そして同時に少しだけ心地よさを覚えるのです。
 私たちの中にはわからないことの中に放り出されることの快感を感じる部分があるのでしょう。松木邦裕先生の講演に出てくる
詩人ジョン・キーツの言葉 negative capability”とは、結局不可知性に伴う快感に支えられていると私は考えています。そして世界が不可知である限り、私は一生考え続けても決してそのテーマはなくなりません。ゲームだったら結局最高レベルに行きついてゲームオーバーになるのでしょう。しかし考えることにゲームオーバーはありません。エンドレスなのです。これは非常に恵まれたことです。
私は同様のわからなさを、実は人間一人一人についても感じています。人間はわかりませんし、わかりつくすことなど絶対にできない、というのが私の考えですが、臨床の面白さを支えている極めて重要なファクターは、この個々人の不可知性なのです。
あるとき患者さんAさん(20代女性)が私の前で手首を切ったことがあります。彼女は解離状態に陥り、隠し持っていたカッターナイフを手首に突き刺したのです。もう10年来会っている患者さんがこれまでにただ一回起こした、治療室でのリストカット。全く予想していませんでした。幸い総合病院の精神科なので、彼女の手を抑えてERに送りました。しかしあわただしい処置の後、私はこの展開の不思議さにちょっと感動しているのです。もちろんそれから私は彼女とそのリストカットについて考えました。解離の中でそれが起きたAさんには、それを十分に思い出すことができませんでした。私たちはそれが生じた経緯の一部について理解し、しかし結局はなぜそれが生じたのかがわからなかったのです。アクティングアウト? デモンストレーション? 私への怒りの表れ?? どれも正解で、どれも外れている気がする。結局本当のところはわかりません。そして「よくわからないけれど、これからも治療を続けようね。」ということになりました。
 それから5年たっていますが、私は依然としてAさんと会っています。10年間の治療の中でたった一度だけ起きた私の前でのリストカット。なんと不思議な展開だったのだろうと今でも考えます。その不思議さが私を臨床に留まらせるのです。そしてあのリストカットのことは、わからないからこそいつも彼女の顔を見ると思いだされるのです。そして少なくともその地点からはずいぶん歩んできたね、とお互いに思うことができるのです。
私はよく人から、難しいケースを扱っていて、「よくそこまで我慢が出来ますね」、とか「そんなことを言われてよく平気ですね」、といわれることがあります。しかしそれは一つにはその意味を問い、わかろうとしなかったことがあると思います。
治療例に限らず、人生においては様々なことが起きる。思わぬ人と出会い、思わぬ人と疎遠になります。思わぬところに落とし穴を発見します。私が常に考えるのは、結局人はそれぞれ違うのだ、ということです。




2016年9月17日土曜日

トラウマ概念再々考 ①  書くことと考えること(推敲) ①

トラウマ概念再再考 ①

いや、困った困った。「トラウマ概念の再考」ということで話さなくてはならない。持ち時間は90分。しかし実はこのテーマ、何度も「再考」しているので、新鮮味はあまりない。まあ書いているうちに何とかなるだろう、ということで書き出してはいるのだが・・・・。題名は一応「トラウマ概念再々考」とするか。なんといい加減なネーミングだろう。
最初はヒストリーから入るのだろうか。
1.トラウマ概念の変遷。2.新しいトラウマ理論 3.愛着トラウマの概念 4.すべての母子関係は潜在的にトラウマである。こんな感じだろうか?
一つぜひ取り入れておきたいテーマがある。最近の私のテーマは母親問題である。解離のケースでどうしてここまで母親との関係に苦しむ人がいるのか?本当に母親が悪いのだろうか?でも考えてみれば彼女たちはかつては娘だったはずである。とするとこれはトラウマの連鎖、ということだろうか?今日聴いたある方の話。結婚してほんの数年でなくなった夫の葬式で、喪主として決して涙を流さないように両方の親から言われたという。それから妻は親族や知人の葬式に参列できなくなった。夫の葬式の体験はトラウマとなり、そのフラッシュバックのために一般の葬儀にも出られなくなってしまった。ただしこのトラウマは解離を引き起こしたわけではない。ある感情の表出が抑制されたことで引き起こされるトラウマは、解離原性とは限らないという例であろう。これが4.に相当するが、それは愛着トラウマの先にあるものとして論じられるべきであろう。ということであらすじを書き始める。
   あらすじはこうだ。中世においては、正邪、善悪、といったスプリッティングが支配していた。人に危害を加えたり、嫌悪感を抱かせたり、罪悪感を抱かせたりする存在、すなわちネガティブな感情を与える存在は、すべて悪であり、魔女 witch の仕業だった。そのうち病気、疾患という概念が成立したが、それは基本的には遺伝によるものという考えが一般であった。その意味ではすべては内因性ということになった。内因性の疾患という考え方に非常に特徴的なのは、 その人が免責されないということである。その人が悪い、というのではないとしても、犠牲者という発想はなかった。その人が「悪い」から、その人に責任があるという考え方である。フロイトの出現はその意味では画期的だったと思うのは、彼の発想は、精神疾患は幼児期の体験がある種の原因となっているというものだったわけである。フロイトはこのことをヒステリーに関するシャルコーの考え方からヒントを受け継いでいるということだが、本当にそうかはわからない。それに比べるとフロイトがヒステリーの成因論を整備したことはとても大きな意味を持っていたといえるだろう。ただその中で彼の性的外傷説が後に棄却され、解離の理論も受け入れがたかったということは、外傷説が十分成熟していない段階であったことを示唆するわけである。

書くことと考えること(推敲)①

精神分析との出会い

書くことが好きかと問われれば、ウーン、と考え込んでしまいます。書くのはおっくうだし、面倒くさい。ワープロの出現でかなり楽になりましたが、それでも机に向かって作業をしなくてはなりません。寝転がって原稿を作成することは出来ません。しかし考えることは好きかといわれれば、ハイ、と即答すると思います。考えることは、散歩をしていても、通勤途中でも、それこそ眠りに入る前の数分間でもできます。そしてそれまで疑問に思っていたことについての思考がまとまり、運が良ければ分かった、一歩前進したという気持ちになれるからです。その考えるテーマは主として人の心についてですが、宇宙の由来とか物質の由来、生命の誕生や進化についてなどテーマは様々です。しかし一番面白いのは人の心、自分の心です。そのような私が若い頃、半ば宿命として出会ったのが、皆さんもおなじみの精神分析理論です。かねてから言っていることですが、精神分析理論は人の心を探求する人間が一度は魅了されるものだと考えています。私の研修先の通称「赤レンガ病棟」では、当時静岡大学の磯田雄二郎先生が、私たち研修医に精神分析の手ほどきをしてくださいました。私は研修の一年目でカールメニンガーの精神分析技法論の原書に出会ったわけですが(なんと大学の生協の本棚にあったのです!)が、おそらく短期間にあれほど耽溺した本はなかったと思います。私のその体験は26歳の時のことだったので、それからのおよそ十数年間は、つねに分析理論を考え続けながらの生活であったと思います。その最初の私の姿勢は、とにかく分析理論を学ぶこと、そしてわからなかったり現実の症例とうまく合わないように思える点は、ことごとく私の経験や知識が不足していることに原因があると考えました。そして増々本格的な分析に必要性を感じたわけです。その意味ではアメリカに渡った頃は分析を吸収する時期で、途中からは分析と現実の臨床を徹底的に照合する時期であったと言えるでしょう。
ただし私が精神分析理論に接して感じたのは、私には難しい理屈がよくわからないということだったのです。精神分析研究を読んでも、難しいことばかり書いてある。フロイトの現実神経症と精神神経症などの分類がわからない。その深い意味を知ったのはずいぶん後だったのですが、そのころはこんな理屈がわからないのは勉強不足だと自分を叱咤激励していました。しかしフロイトの女性のエディプスコンプレックスの理論などになると、途端に訳が分からなくなってくるところがありました。一度は飲み込んだつもりでも、その当時の臨床体験にそぐわないからすぐ忘れてしまうのです。そこから私の長い精神分析を見極める旅が始まったのですが、それが結局17年間のアメリカ生活の最終目的でした。
私の精神分析理論とのかかわりはいろいろなところにすでに書いていますが、考えること、書くこととの関連で触れておきたいことがあります。
私はアメリカでの精神分析理論に触れてその難しさに音をあげたくなりましたが、ふといくつかの素朴な疑問が浮かび上がり、それを文章にしてみることを考えました。それは簡単に言えば、「分析においては、治療者の自己開示にも治療的な意味がある場合があるのではないか?」ということと「精神分析には、恥の感情がほとんど扱われていない」ということでした。ごく自然な発想でしたが、私が分析を十分に理解していないのかとも思いました。しかし思い切って論文にして、精神分析研究に投稿してみました。1990年代の前半のことです。すると当時の分析研究の先生方はよほど寛大だったのか、それが原著論文として採用されたのです。「治療者の自己開示」、「続・治療者の自己開示」、「精神分析における恥」、「精神分析における恥その(2)」「精神分析における恥その(3)」「精神分析における愛他性」、「解離性障害の分析的治療」、その続編など、私は10編以上の原著論文を掲載していただくことになり、その上1995年には学会奨励賞(山村賞)をいただきました。分析研究は私にとっての大恩人だったのです。しかしこれは今から考えてもある意味では驚くべきことでした。私が原著論文として発表することがいかに難しいかは、私がのちに編集委員を務めるようになって分かったことです。ハチドリはその羽ばたきが自分の体を支えられないと知った途端に飛べなくなる、という都市伝説がありますが、わたしも原著論文は簡単に書けないということをもし知っていたら、途端に投稿できなくなっていたと思います。無知とは恐ろしいですね。その頃は受理する基準が甘かったのかと思いますが、当時でも分析研究に掲載される、私のもの以外の論文はチンプンカンプンでした。でも私は精神分析の理論を知り尽くす必要など決してなく、私なりの視点で精神分析と関わっていいのだ、ということを理解したのです。
当時私はアメリカで、自分の日本語アクセントの強い、ボキャブラリーの少ない英語でも精神科医としてやっていけるんだ、という体験を持ち始めていたので、私にとってはこの体験は同時に起きていたことになります。
結局私の中でいつまでも本流にいない、よそ者感、偶然にこのような受賞の場にいるという感覚はずっとついて回っているのです。


書く、ということと、知られ、認められるということ

さて私は基本的には書く作業は自己愛的なものだと考えています。それを読者に理解してほしい、共感してほしいと思いから書くという部分があるのは確かなことだと思います。しかしここで注意深く区別しなくてはならないと思うのが、自分の考えを表現するということと、他人に認められ、分かってもらえるということには違いがあるという点なのです。(ここで読者として自分を含めると話が複雑になるので、一応読者を他人に限定して考えます。)
実際文章を発表し始めたころは、私はその両者をあまり区別していなかったように思います。私は出版されるということは即、不特定多数の人に読んで理解してもらえることだと思っていました。大げさに言えば、論文が受理され、専門誌に掲載されることで、次の日から世界が変わる、くらいのことは思っていたのです。しかし論文が何度も掲載され、本が出版されるという体験を一定以上持つと、書く、出版する、ということと売れる、読まれるということが全く別の問題であることがわかります。しかしたとえこの頃の無知な自分が、出版するということと読まれ、知られ、あわよくば認められる、ということが同時に起きると信じていた時期でも、書くという作業と、知られ認められるということが別物であることは分かっていたつもりです。

もう少し具体的に述べてみましょう。書くという作業は自分の中にあるものを表現するプロセスです。それは思いが言葉に載せられているか、あるいは思い以上のものがそこに自然と宿るのかを見届ける息づまる瞬間でもあります。そしてそれは「わかってもらえるだろうか?」「受け入れてもらえるだろうか?」という懸念とは一応切り離されたプロセスなのです。
 たとえば絵をかく人が、あるいは木を彫る人が他人から「どう見られるか」を気にするでしょうか? 少なくとも制作の途中ではあまりそのようなことを考えないと思います。筆を振るう時は、自分の中にあるものがいかに表現されていくかに集中するわけです。もちろんそれが出来上がった後はいくらか体裁を考えることになります。きれいな額に入れることも考えるでしょう。でもとりあえずは自分の考えが、気持ちがちゃんと表現されているかに専念するわけです。もちろん紡ぎだされる文章や、描かれる絵が大衆に受け入れられるのであればそれに越したことはありません。場合によっては常にそれを意識せずにはいられない状況もあるでしょう。売れっ子作家や漫画家が具体的な注文を受けて書いている場合にはそのようなニュアンスがあるかもしれません。しかし基本的には書くことにはそれ自体の喜びがあり、そこであえて誰かのために、あるいは誰かに向かって書くとしたら、それは自分なわけです。自分が書き、それを同時に読み、味わい、納得するように書いていくのです。
さてこのように書かれた文章は、当然ながら悩ましい問題を突き付けられます。論文なら受理してもらえない、本なら編集者が首を縦に振ってくれない、ということが起きる。カミさんに読んでもらおうにも、目を通してすらもらえない。学生なら担当教授に真っ赤に添削され、書き直しを命じられるということになります。自分という読者が感動を覚えている作品が、他の誰にも見向きもされないということが起きてきます。おそらく世の中にはそのような体験から、さっさと書くことをあきらめてしまう人がたくさんいると思います。
ちなみに私にとっての書くことは、実はこのマーケティングの問題をあまり考えなくてもいい恵まれた環境にあると言えます。一つには書くということが比較的容易に受け入れられるだけの能力があることなのでしょう。私の実に限られた能力のうちの一つです。(私のこれまでの人生で、普通にしていても人並みにやれることがあったのはたった二つです。一つは書くこと、もう一つはトランペットを吹くことです。)

マーケティングを考えなくてもよい、もう一つの理由もあります。それは私の書く本が専門書であるということです。少なくとも私の書く本は全然売れていません。しかしまったく売れない、というわけではなく、しかしおそらく第2刷くらいまでは行く程度には売れるのです。それは感謝したいと思います。私の本はだから学術書としてそこそこ売れるので、出版社も付き合っていただけるのです。しかしそれ以上のヒットは残念なことですが、ありません。もちろん本を出す時は、それがたちまち話題になるというようなファンタジーを一瞬は持つものです。しかしそれはことごとく裏切られるため、期待をしないことが自分の精神衛生上ベストなのです。出してもらうだけで満足。その上売れるなんてことがあれば感謝以外の何物でもありません。