2016年8月27日土曜日

推敲 13 ②

ランナーズハイ

こちらの「ハイ」の例は、サドルや雨合羽よりははるかに無難であろうし、共感を持つ人も多いはずだ。皆さんもよく知っているランナーズハイ。この話には必ずといっていいほど出てくる、脳内麻薬物質のエンドルフィンの分泌、という記載。一部の人が走ることに快楽を覚えるのは疑いない。東京マラソンに応募する人々の多さを考えればいい。体を動かすことは苦痛であると同時に大きな快楽の源泉になる。子供が駆け回る様子を見ても、子犬がじゃれ合っているのを見ても、それが純粋な快楽の源泉になっていることは自明だろう。もちろん大人になるにつれ体を動かすことは子供に比べてはるかにおっくうになって行くわけだが、それでもマラソン大会が開かれると、結局はたくさんの老若男女が集まるわけだ。
私がかつて示した快楽の源泉の一つ、すなわち脳のネットワークの興奮は、それ自身が緩徐に報酬系を刺激するという原則をここで思い出して欲しい。単細胞生物が走性をすでに発揮している時点で、パンクセップの言う「探索モデル」が働いている時点で、動き回ることそのものがデフォールトとしての快楽を提供することは生命体にその運命として与えられていたのだ。生命体は、動きたくなければ植物になればよかっただけの話なのだ。報酬系を持たない植物は、報酬勾配に従った動きをする必要もなく、したがって動きを封印されている(必要としていない)というわけである。
途方もない距離を走るいわゆる「ウルトラ・ランニング」の伝説の人といわれるヤニス・クロスは次のように書いているという。
「人はどうしてそんな長距離を走るのかと尋ねる。理由はない。ウルトラランニングの最中、私の体はもう少しで死ぬというところまで行く。私の心がリーダーシップを取らなくてはならなくなる。とてもつらい状況では、私の心と体が戦争を始めてしまう。もし体が勝てば、私はギブアップだ。もし心が勝てば、走り続ける。その時に私は自分が体の外にいると感じる。まるで私の体が自分の前にいて、心が命令をして体がそれに従う。これは特別な気分であり、とても好きだ。とても美しい気分だし、私のパーソナリティが体から離れる唯一の瞬間なのだ。」(Yiannis Kouros : A War Is Going On Between My Body and My Mind," Ultrarunning, March 1990, p. 19.)
"Some may ask why I am running such long distances. There are reasons. During the ultras I come to a point where my body is almost dead. My mind has to take leadership. When it is very hard there is a war going on between the body and the mind. If my body wins, I will have to give up; if my mind wins, I will continue. At that time I feel that I stay outside of my body. It is as if I see my body in front of me; my mind commands and my body follows. This is a very special feeling, which I like very much. . . It is a very beautiful feeling and the only time I experience my personality separate from my body, as two different things."