2016年8月24日水曜日

推敲 12 ①

12章 報酬系は倫理を超える
  
報酬系と倫理観

ある患者さん(40歳代女性)が言った。(もちろん架空の症例である。)
「昔は夫はあれほど家庭を顧みない人ではなかったんです。でも株を始めてからは、いつもコンピューターの画面を見つめるばかりで、口をほとんどきいてくれません。」
聞けば御主人は昔から株に興味があったが、それほどに入れ込むことはなかったという。普通に家庭生活を大事にし、夕食の後は子供の宿題を手伝い、休日には家族で出かけたりしていた。ごく普通の、仕事(コンビニ勤務)にも家庭にもそれなりに注意を向ける旦那さんだった。しかし数年前に株で思いがけずマイナスが出てしまい、100万円程度の借金を背負ってしまった。それは何とか返せたのであるが、それ以降スイッチが入ってしまったようなのだ。徐々に周囲のことに関心を向けることがなくなり、コンビニの店長としての仕事を終えて帰宅した後は、コンピューターの株の動きを示す画面を見たままの状態になっていったという。その患者さんは、まるでご主人が感情を持たないロボットのような存在になったと嘆く。ふつうの喜怒哀楽を持った人間ではなくなってしまった感じだというのである。
別のある患者さんも夫が家庭を顧みないことを嘆く。
「夫は給料日の次の休日には、朝からパチンコに行き、閉店まで帰ってきません。そして戻ってきた時は、給料の大半がなくなっていることもありました。『お願いだからパチンコをやめて』、と言っても『うるさいな!俺に指図をするな。』と怒鳴るばかりです。負けて帰った時は特に不機嫌なんです。」 
結婚した当初は働き者で思いやりのある優しい夫であったという。ところが数年前から「仕事が面白くない」と言い出して、パチンコ屋に出入りするようになる。休日は朝からパチンコ屋に通うようになり、徐々に子供と過ごす時間もほとんどなくなってしまっているという。パチンコは夫の人格を変えてしまったのだろうか?
いわゆるギャンブル依存の状態にある人は、この二つの例に似た状態になることが知られている。一般的て常識的な行動が出来なくなり、時にはその人の倫理観さえ怪しくなってくる。
帚木蓬生というペンネームでも知られる精神科医森山成彬(もりやまなりあき)先生は、ギャンブル依存の専門家でもある。「やめられない ギャンブル地獄からの生還」(2010年、集英社) 「ギャンブル依存とたたかう (新潮選書、2004)やなどの著書でも有名である。
数年前に先生の講演を生で聞いていて考えたことが本章の発想のもとにある。ギャンブル依存がきわまると、人が変わってしまう。上に述べた例がさらにひどくなってしまうのだ。一見何が正しく、何が間違っているのかがわからなくなり、人生で優先されるべきものがまず賭け事、という風になってしまう。そうなると家族の説教は全く耳に入らなくなる。本当にはまってしまうと、手元にお金がなければ、まず盗むことを考える。それまで倫理的だった人が、人の財布に平気で手を出すまでになる。依存症はその人の倫理観を事実上骨抜き記してしまうのである。
先生の講演で聞いた話はこうである。ギャンブル依存の夫を何とか話し合いの場に連れ込む。それこそ夫の両親も心配そうな顔をして、家族会議に参加し、とにかく作ってしまった借金については何とか皆で算段をすることになる。夫は真剣そうに「もう二度とパチンコには手を出しません。」と言う。「しかし」と先生は言う。「彼はそのような深刻な話し合いのさなかでも、どうやってここを切り抜けて、またパチンコ屋に舞い戻ろうかということしか考えていない。」
まだギャンブル依存をよく知らなかった私は「まさか!」と思った。説教をされている時くらいは真剣に反省するのではないだろうか?
もちろんその人のギャンブル依存の深刻さにもよるだろう。何度もやめようと試みる人の場合は、少なくとも真剣にやめることを考える時がある。家族会議が功を奏する例も、ごく一部にはあるだろう。しかし一定の限度を超えると、本人の頭に「やめよう」という決意はもう浮かばない。やめられないことはあまりに明白だからだ。まさに先生の本の題名(「やめられない」)通りである。
しかしこれは例えば自分が激しい痛みや不快を体験している時を考えれば納得ができるであろう。おそらく痛みを取るためならどんな行為もいとわないし、その行為の善悪は、その切迫の度合いによりいくらでも軽視されよう。おそらくその行為を裁くような倫理則などありえないはずだ。
帚木先生によれば、ギャンブル依存に陥った人は、財布にお金がなくなり、銀行はおろかサラ金も相手にしてくれないという状態になると、キャッシュを求めて盗みを働くということもあり得るという。更衣室でたまたま同僚の所持品を見つける。中から現金を抜き取った際に思うことはおそらく「ああ、これで仕事の後にパチンコがやれる」なのである。それ以外の人間として普通に感じるはずの罪悪感は、後回しになってしまうのだ。
ここで私の仮説を述べたい。私たち個人が持つ倫理感は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とみなす傾向にある。それがいわばデフォールトなのだ。
もちろん依存症の人々の考え方になじんでない人には奇妙に聞こえるかもしれない。
人の持つ善、悪という観念はその人の倫理観に基づき、その人が何を快、不快に思うかとは別のものであるはずだ。しかしこと依存症に関しては、上のようなことが生じない限り、その人の心はあまりに大きな矛盾を背負うことになるために壊れてしまうだろう。
単純に、「ギャンブル依存に陥った人は、善悪が分からなくなっている」と考えることもできるであろう。しかしより正確でかつ合理的な仮説は、その人にとっては、パチンコ屋で玉を弾くことが善、そのためには家庭を顧みないことも、お金を盗むことも正当化される、という風に行動規範が改編されてしまっているというものである。そしてパチンコが関わらないそのほかの判断については、おそらく正常さを保っているのだ。