2016年7月26日火曜日

推敲 2 ③

期待そのものが快感である

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っているとき、それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでコーフンする、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの話とは違う。期待しているときの快感は、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、生きていることそのものが楽しい、というのが私たちの人生なのかもしれないのだ。そう、私たちの人生は、精神的な病やトラウマの影響を受けていないのであれば、デフォールトが楽しいものなのである。
話を大きくせずに、ギャンブルの話に留まろう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは、ハマらない限りは、人に「遊んでいる」という感覚、楽しみという感覚を生むのだ。
たとえば1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、30分後にあなたはそのお金をお店に献上して店を出てくるだろう。でもあなたは不幸ではない。30分の間にあなたは1000円を代償にして、自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に付けたわけでもない。でもきっと思うだろう。
30分こんなに遊んだんだから、1000円は安いものだ。」
 でもあなたはその30分の間、ある期待をしていた。1000円を元手に手荒に稼ぐことを、である。もしそのパチンコ台が決して勝てない台であるということを知っていたらあなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。幸福な結果を期待して待っている時間はそれだけでも楽しいのである。
期待することそれ自身が快感である、という事実がどれだけ驚くべきか、私はまだ十分に説明できていない気がする。もし私たちの報酬系が、きわめて単純にできていたら、期待したものが得られなかったら、その分失望という名の不快として体験されるはずだ。

そこでここからは思考実験である。あなたがパチンコの玉一つを与えられる。それを弾くと、中央口に入る確率がちょうど50%だとしよう。あなたはその球をただでもらったのだから、玉を弾く瞬間は、球が入った時の快感(Pとしよう)の半分を体験してもおかしくない。½Pというわけだ。すると実際にはじいた球が中央口に入った場合は、残りの½Pが体験され、両方で1Pということになる。それは中央口に入ることが決まっている(入る確率が100%の)玉をもらうのと同等ということになる。それを以下の図に示す。