2016年7月21日木曜日

ある序文

ある序文を書いてみた。

我が国におけるコフート研究には30年以上の歴史があるが、現在の日本の精神分析の世界では十分にその存在を認識されていないという観がある。それだけに本書のように、他領域との比較を行いつつ自己心理学について縦横無尽に論じ、かつ自己心理学の最新の流れを扱った本格的な研究書の出版には大きな意味があるであろう。
自己心理学はご存知のとおり、ハインツ・コフート(1913~1982)が1970年代初頭に確立した精神分析の全く新しい流れである。それは従来の伝統的な精神分析に対して真っ向から異論を唱えるという意味合いを持っていた。それをコフートは、最初は精神分析の内側からその一部を補足するという形で(「自己の分析」、1971年)、やがて従来の分析理論に並立すべき本格的な理論的枠組みとして(「自己の探求、1978年」)提示した。それは慢性疾患に徐々に体を蝕まれ、死が刻々と迫る中で、コフートが渾身の力をふるって示し続けた理論であった。
 コフートの主張、すなわち共感の持つ臨床的な重要性や、人は自己対象的な存在を常に希求するという提言は、伝統的な精神分析理論に今一つ欠けていた要素として若い世代にいち早く取り入れられて行ったという歴史がある。現在米国を中心に見られる関係精神分析という新しい流れの源は、このコフートの貢献にあったという見解もある。その意味ではコフートの勇気や、因習を打破して真に患者のための理論を構築しようという情熱は、現在の米国の精神分析に脈々と受け継がれているといってよい。
精神分析とは一つの治療手段であり、また理論体系である。一方では本来あらゆる治療法がそうであるように、それは患者の利益を第一に重んじ、その要望をかなえることを最優先にすべきであろう。しかし同時に分析理論は臨床実践の仕方に大きく影響する。その両者が完全に噛み合っていればまったく問題はないのであるが、理論のほうはさまざまな学派や異なる治療理念に枝分かれし、それが分析家に異なる治療実践を要請することになるが、他方の患者といえば、分析家のよって立つ理論を理解した上で治療を受けるわけでは必ずしもない。結果として分析家の拠って立つ理論やそれに基づいた治療では掬い取られない患者の生の声や心の痛みは、治療への抵抗や病理の表れとして処理されかねない。こうして分析的治療と理論は微妙に、あるいは明らかに齟齬を来たしていく可能性がある。
 コフート理論もそのような隙間を埋める形で生まれた理論と言っていい。コフート自身が実は伝統的な精神分析の治療を受けた時に違和感を持ち、それが独自の理論を打ち立てたという経緯がある。ちなみに本書の著者もそのような体験を持ったのであろう。前書きにあるように、分析に拒絶反応を起こしたあるとはまさにそのことである。伝統的な分析理論への違和感は、著者にとってもコフートと共通したテーマであったということが出来よう。

ところで心を扱う理論には精神分析の諸理論以外にもさまざまなものがあるが、患者の側の心の痛みは、理論とは無関係に昔から普遍性を持って存在していたはずである。そして様々な理論には、ある種の共通性や普遍性が存在し、それが治療を可能にしていたと考えられる。そこに精神分析理論と従来のロジャース理論、ユング理論などとの照合に意味が生じる。従来の精神分析とはいわば水と油の関係にあったロジャースの理論とも、ユング派とも不思議な関連性を有する。その点を本書は見事に描き出していると言ってよいであろう。
最後に著者●●氏と私とのかかわりについても述べておきたい。本書は米国で当時の精神分析のメッカとも言えるメニンガ―財団に滞在した著者が、精神分析の新しい流れに実際に触れ、精神分析療法を受け、特にそこで触れることのあったコフート理論をさらに探求し転回するという道をたどった軌跡ともいえる。(中略)本書の出版を心からお祝いしたい。