2016年7月31日日曜日

推敲 3 ②

2015年に九州大学の研究グループは、 C. エレガンスが特定のがん患者の尿の匂いを求めて泳ぐという性質を発見した。もちろん水の中のことだから、本当の「匂い」ではない。液体に溶け込んでいる極めて微量の化学物質を意味する。Cエレガンスはこの化学物質を求めて泳いでいくのだ。たった302個の中枢神経の細胞で、どうしてそんな事が出来るのだろうか?1000億個の神経細胞を持った私たちが、喉の渇きのために砂漠の向こうに泉を求めてさ迷い歩くのならよくわかる。しかしたった300個の神経細胞の集まり、脳ともいえないようなとてつもなく単純な生物もまた同じような行動を起こすのである。
 家事に熱中するAさんの話からいきなり特定の尿の匂いを求めるC.エレガンスに話が移ったが、私が興味を抱くのは次の一点である。生物はどのようにして動いていくのか。それを駆動する力はなんだろうか?渇きや飢えといった感情であろうか?それともロボットのように自然と匂いや光に向かうのであろうか? もしCエレガンスが求めるのは、匂いのもとに到達した時の快感や喜びであるとしたら、そのもとに向かう、という行動はどのようにして成立するのであろうか?直接そのにおいのもとに到達したわけでもないのに、どうしてそれを求めて泳ぐということが可能だろうか?
もちろん読者の中にはこう考える人がいるだろう。「単純な生物が欲望を持つはずはないであろう。」「ロボットのように自動的に匂いのもとに泳いでいくのだ。どうして感情など必要なものか?」
 しかしそれならば私はこう聞きたい。「では私たちはどうして欲望という厄介なものを持っているのだろう?快や不快や渇望や苦痛など、ややっこしいものをどうして体験しなくてはならないのだろうか?」
おそらくこの疑問には永遠に正解はないのであろうが、少しでもそれに迫っていくのが本書の目的である。

基本は報酬勾配だろう

まず基本の基本からである。動物(人を含めて)を動かす原理。それは「快を求め、不快を回避するという性質である」。とりあえずこう述べてみよう。正解だろうか? いや、その答えの追求を、ここではまだ急がないことにしよう。そしてこの原則を、とりあえず「快楽原則」としておこう。一見この原則はすごく正しいように思える。生命体は快を求め、不快を避ける。当たり前である。その通り。この原則は、直感のレベルでは正解なのだ。
 ただしすぐに一つの問題が生じる。「すぐにでも快楽が得られないとしたらどうするのだろうか?」そう。Cエレガンスも匂いのもとにすぐにでもたどりつくわけではない。Aさんだって家事が終わってほっと一息、となるために何時間も働き続ける。報酬が即座に保証されないのに、同粒はどうして動き続けるのか?それも夢中になって。
私はこれを三日三晩考え続け、一つの結論にたどり着いた。そして動物生態学的にもそれが妥当であることを追認したので、ここに表明したい。それは生物がある種の報酬の勾配におかれた際に、それに惹かれていくということである。これはどういうことだろうか?
もちろんC.エレガンスは水の中を泳ぎながら、「匂い」のもとに向かって、「こっちだ、こっちだ、もうすこし」などと思っているわけではない。彼らはおそらく何も感じずに、泳ぎ続けるのである。しかしここには一つの仕掛けがある。Cエレガンスが好む匂い物質の濃度勾配がそこに存在するということである。つまりシャーレの一端に患者の尿をたらし、そこからの距離に従って、そのにおいが拡散していく、という状態に置かれることで、生物は動いていくのだ。先ほどから話題になっているAさんなら、「さあ次は掃除だ。これが終わったら洗濯をして…」と頭の中の予定表をこなしていく。それが実は楽しいはずなのである。仕事の完了に向かって着々と進んで行くのだ。それをここでは報酬勾配、と呼んでおこう。そしてその由来は、濃度勾配である。濃度勾配こそ、生物が動いていく際の決め手として注目されているテーマなのだ。

走化性(ケモタキシス)という仕組み

匂いに向かって進む性質、それはCエレガンスはおろか、単細胞生物(!)にも存在することが分かっている。それを走化性 chemotaxis と呼ぶ。“chemo”とは化学の、“taxi”とは走る、という意味だ。化学物質に濃度勾配があれば、鞭毛(細く長い、ムチのような毛)を持った細菌などはそれに従って移動する。いや鞭毛をもたない白血球なども同様の行動を示す。もちろん何に向かって走るかにより、温度走性、走光性などがあるが、医学の分野との関連で濃度勾配により移動をする走化性の研究がずば抜けて多いのは、これが生物学と医学の両方で特筆すべき重要性を持っていることの証である。何しろ1700年代初頭にレーベンフックが顕微鏡を発見した時から、「なんだ、この細胞、じわじわと動いている様だぞ!」ということが発見されたという。生命のもとになる単細胞が、どこかに向かって泳ぐ(というかジワジワ動く)ということが分かっていたのだ。そしてそれがある種の化学物質に向かう、あるいはそれを嫌って避けるということは、その細胞の基本的な性質としてあるのだ、という認識が高まってきた。あとはその研究の歴史が延々と続くのである。Cエレガンスどころの話ではなかった・・・・・。Cエレガンスは多細胞生物である。体長一ミリ、細胞の数は1000前後で立派なものである。彼が「走る」のはむしろお茶の子さいさいのはずだ。
ではどのような形で走化性が生じるのだろう? たとえば鞭毛を持っている細胞の場合次のようなことがおきるらしい。反時計回わりをすると、鞭毛はひとまとまりになる。それにより細菌は直線的に泳ぐ。そして逆の時計回転をすると、繊毛がバラバラの方向を向き、その結果として生物はランダムな方向転換をするという。要するに逃げる、ということなのだ。そしてそれが起きるために存在するべきものがある。リセプター(受容器)だ。細菌がXという匂いに向かっているとしよう。するとXの分子が細菌の表面にあるリセプターにくっつく。そこからさまざまな化学反応を誘発するのであるが、簡単に言ってしまえば、一瞬前のXの濃度に比べて、現在の濃度が上昇しているか、下降しているかにより繊毛の回転方向が決まってくるわけである。たとえばリセプターが細胞の表面に沢山あり、ある時点でそれのNパーセントにXがくっついているとしたら、しばらく走るとNプラス1パーセントに上昇したことで、細菌は「ヨッシャー、この方向や!(なぜか関西弁)」とばかりに鞭毛を反時計回りにブルンブルン回すという仕組みが出来ている。
もちろんこの場合、細菌はより濃いXを感じ取ることで「ヨッシャー」とは感じていないだろう。上のは少し擬人化して書いただけである。細菌は考えるべき心を宿すスペース自体がない。このままでは細菌はロボットそのものだ。でも一つだけいえる。生物はたとえ細胞一つでも、自分の体にいいものを求めて動く。そしてその際の決め手は濃度勾配、つまりは報酬の坂道を下るという作業なのである。後は生命がいくら複雑になっても、同じような仕組みを考えればいい。
たとえば産卵をしに川を遡行する鮭でもいい。あれほど一心不乱に、ボロボロになりながら上流を目指して泳ぐメス鮭は、明らかにコーフンし、目的地に向かって期待を胸に泳いでいることだろう。もちろんもうひとつの仮説は、彼女たちが何かの恐怖におびえ、一目散に上流に「逃げ」ている可能性だ。しかし私は絶対前者に賭ける。少なくとも生まれた川を目指すプロセスは「匂い」という研究があるそうだ。すなわちその川に特有の物質(もちろんものすごい数の微量物質だろう)の組み合わせの「濃度勾配」に反応する「走化性」が決め手となるだろう。ただし鮭あたりになると、私はそこに心を宿していると思いたい。そのメスの鮭の頭には、産み落とされる卵たちの「早く、早く」という叫びや、排出された卵に狂ったように精子を振りかけるべく待ち構えているオス鮭のイメージが広がっているかもしれない。彼女たちは間違いなく上流を目指すことを命を懸けて、ある種の興奮状態に駆られて行っているはずなのだ。

2016年7月30日土曜日

推敲 3 ①

3章 Cエレガンスは報酬の坂道を下っていく

私の知人Aさんの話だ。彼はまだ50歳代の有能な商社マンだった。若い頃は世界各地の油田地帯を飛び回り、重要な商談をいくつもまとめてきた。しかし長期間にわたって家を空けることが多く、病弱な妻の面倒は彼女の両親にまかせっきりであった。ところが定年を前にして腰を痛め、入院をして何十年ぶりかの休養を取ることになった。そしてAさんはふと考えたのである。
「自分はこんな人生で幸せなのだろうか?」
 正直言えば、仕事を本当の意味で楽しいとは思っていない。本来は出不精なのだ。自宅で料理の腕をふるっているほうがよっぽどいいと感じる。自分はひょっとしたら妻の介護をして家事をするのが性にあっているのではないか? まさか? これでもバリバリの商社マンである。高収入でまだまだ働いて会社に貢献することを期待されている。
それでも彼は会社をすっぱりやめ、「主夫」になった。幸い蓄えは十分であり、しかも妻の実家は田舎の旧家で相当な資産があったので、金銭的には困らない。彼はそれまで雇っていたお手伝いさんを解雇し、家の掃除から料理まで一人でこなすようになった。朝は毎日7時おきで90分間、家中の部屋を回り、大きな音を立てて掃除機をかける。絨毯は同じところを少なくとも五往復。高価なペルシャ絨毯が擦り切れんばかりの勢いだ。それから手の込んだ朝食作り。コレステロール値の高い妻の健康を気遣って、カロリー計算もおろそかにしない。その後は家計簿の整理。エクセルに細かな表を作り、アマゾンで注文して買った文庫本一冊まで支出を記入していく。もちろんその合間を縫って妻の介護。リハビリ通院の送り迎えも欠かさない。
そんな「仕事」に没頭して3年たったAさんに聞いてみた。そろそろ復職を考えているのではないかと思ったからだ。彼の有能さを買って、戻ってきてほしいという会社からの声は今でも多いという。
「あなたは今、幸せですか?」
彼は「もちろんです。」といった。夕方には5キロのジョギングを欠かさない彼の顔は少し日に焼けていかにも健康そうだった。「毎日が充実しています。スケジュールがいっぱいで、こなすのがやっとです。自分がいかに家事に向いているかを実感しました。本当は人と会うのは苦手なんです。」数々の商談をまとめた彼とは思えない言葉が返ってきた。
 いったい何が彼を駆動しているのだろう? 自己顕示欲でもなく、おそらく一般に言うところの自己実現でも、自己達成感でもない。金銭を得ることとも違う。でも一つだけ確かなことがある。彼は日々のスケジュールをこなすことに喜びを感じている。誰が何といおうと、彼にとってはそれで幸せなのだ。何といううらやましい話だろう?

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人は、動物は何を求めて行動するのか? 人には様々な趣味や楽しみがあり、仕事がある。それぞれが違った人生であり、違った脳を持ち、違った目標を持って生きていく。
「何が人を動かすのか?What makes people tick?
私はこの素朴な疑問をおそらくこの30年間持ち続けながら精神科医になり、精神分析を学び、現在に至るが、いまだに解決がつかない。しかし30年前に持っていた疑問に対して、今はその解決の糸口を持っていると感じる。それは報酬系という人間の脳のシステムと深くかかわっているということである。そして人間が何かに惹かれて行動するように、もっとも下等な動物は、それが自由な運動を獲得し、敵を避けて餌を求めるという行動をとり始めたときに、すでに私たち人間と同じような原理で動いていることを知った。そこでも決めてはやはり報酬系。報酬系を知ることが心を、心を持った人間の行動のなぞを知る手がかりになる。
 
Cエレガンスは幸せなのだろうか?

人の心を動物と言う観点から考えるとき、私の心はどうしてもCエレガンスに向かってしまう。正式な名前はCaenorhabditis elegans(カエノラブディティス・エレガンス)あまりに長たらしい名前なので、科学者たちも単純にC.エレガンスと呼ぶ。(本書では後に「Cエレ君」などの名前で登場する。)

C.エレガンスの雄姿
この体長一ミリほどの小さな虫(正式には線虫と呼ばれる)は、一種のモデル生物として実験に非常によくつかわれる。体細胞は約1000個。神経細胞は302個と決まっている。しかしこれほど単純なのに、学習をし、もちろん生殖もする。そして走性を示す。走性とは好みの刺激、例えば匂いや光や化学物質の方向に進んでいく、という性質である。Cエレガンスの染色体は6本あるが、そのゲノムはいち早く解析された。その結果、6本の染色体上に約 19000 個の遺伝子の存在が予測された。(これは人の遺伝子数3万程度と比べてもものすごく多いという印象を与える。)

2016年7月29日金曜日

推敲 2 ⑥

 ある研究Clark, L.,  Lawrence, AJ, Astley-Jones, F,  and Gray, N: Gambling Near-Misses Enhance Motivation to Gamble and Recruit Win-Related Brain Circuitry. Neuron. 2009 Feb 12; 61(3): 481–490.
この論文によると、ニヤミスはフルミスに比べると心地よさは少ないが、もっとやりたい、という気持ちを生むという。ただしそれは、ギャンブルをする人がある程度のコントロールを握っている場合であるという。このコントロールとはどういうことかといえば、たとえばサイコロを自分で振ること、パチンコ玉を自分で弾くこと、宝くじの番号を自分で選ぶこと、あるいはその店を、買う時間を自分で選ぶことなどである。そうすることでギャンブラーは自分がつきを呼び、大当たりを引き寄せるという錯覚を持つ。するとニヤミスによりギャンブラーは「常に負けている」ではなく、「常にもう少しで勝っている」という風に感じ取られるというわけだ。
この論文では擬似スロットルマシンをPC上で作り、6つのアイコン(バナナとか、りんごとか)がぐるぐる回るようにする。一つだけ位置がずれていた場合はニヤミス、それ以上ずれていたらフルミスと呼ぶそうである。それを自分で止めるか、PCで止めるかは両方との結局は100%ランダム性に左右されるにもかかわらず、自分で「止めた」方のニヤミスは、明らかにフルミスよりも不快で、同時にもっとやる気を起こさせたという。私たちのなじみの言葉を使えば、ニヤミスは、less liking but more wanting, つまり射幸心全開となるというわけだ。
そこで脳との関係であるが、ニヤミスの場合は、両側の腹側線状体bilateral ventral striatum  と右前島皮質 right anterior insula が興奮していたというのだ。そしてそこは、思わぬ棚ボタで興奮するところであった。もう一つの発見は、ニアミスではいわゆる報酬サーキット(右前帯状皮質 rACC, 中脳 midbrain, 視床 thalamus も興奮し、それが嗜癖と関係しているということがわかったという。
この論文でも強調されているのが前島皮質である。ここが怪しい。薬物でも渇望に深く関連しているのがこの前島皮質であることが知られている。「やりてえ!」はここが関係し、事故や病気でここに損傷がある場合にはこの渇望が起きなくなるという。悪いやつ!前島皮質!。
そしてもう一つの悪いやつが右前帯状皮質 rACC,これが、自分がニヤミスを引き入れて、もっと巧くなれるという感覚と関連しているという。
結論として、次のようなことが言えるだろう。私たちは偶然生じる事柄にも、自らの能動性を読み込む傾向にある。上の論文にも出てきた、コントロールの感覚は、実は私たちがほとんど常にファンタジーの世界で偶発事を加工することにより得ているものである。スロットルマシンの出方を決めているのは、自分がボタンを押すタイミングである。もちろんボタンを押すことで出る画はランダムであろう。あるいはもっと単純にサイコロを振る、という例でもいい。1を出したいとサイコロを転がすとき、私たちはほぼ確実に「1よ、出よ」と念じているはずだ。あたかもそれが1が出る確立を現実に高めているように、である。するとニヤミス、たとえば6とか2とかは、あと一歩で念じ方が足りなかった(もう少しうまく、ないしは強く念じていたら、見事に1を出せたはずだ、と思う)ことを意味するのである。




2016年7月28日木曜日

推敲 2 ⑤


ところが事態はそれほど単純ではない。そのことを教えてくれるのが、リンデン氏の書「快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか 」(デイヴィッド・J・リンデン (), 岩坂  (翻訳) 河出書房新社 2012)の記述である。動物実験によれば、ある種の成功体験を期待して待っているときは、すでに快感である可能性がある。
この本でリンデンによって紹介されているある興味深い実験がある。サルを訓練させたうえで、緑の信号を見せる。すると猿の報酬系は一瞬活動を増す。これは「やった、砂糖水がもらえる」というサインであり、実際に2秒後に口の中に砂糖水が注がれる。そうしたうえで青信号を導入し、青信号は、砂糖水が2秒後に与えられる確率は50%にすぎないことを、サルにトレーニングにより教え込ませるのだ。
するとどうなるか? 青信号がともった瞬間にやはり報酬系が興奮し、だらだらと持続し続けるのだ。2秒後に砂糖水をもらえてももらえなくても、結果が分かった時点まで興奮は続く。なんという驚くべきことだろう。期待するだけで快感を得られるのである。待っているとき、すでに報酬系が働いている。結果のいかんに関わらず。競馬でいったら、馬券を買ってから疾走馬がゲートに入り、一斉にスタートをし・・・・そのすべてのプロセスが楽しいことになる。たとえ負けたとしても。どういうことだろう? 負けたらもちろん失望する。しかしその分は待っていたときの快感の総和より少ない? そういうことだろう。
それを図示すると以下のようになる(省略)。昨日の図2の通りにはならないわけである。

ニヤミスのファクターとの関連

結局射幸心は、ギャンブルにおいて、渇望が引き出される仕組みであり、ギャンブルを提供する側がそれを煽るものである。どのように人をギャンブルに引き込むか。射幸心をあおる、とは賭け事で「もっともっと・・・」と人の心を狂わせるための手段のことである。そしてその特徴はなんと、負けたことで人の心をあおるという仕組みであり、そもそも負けることが人を興奮させるという奇妙な性質を利用することだったのだ。
もちろん人は負けること自体を目的にするわけではない。負けることはつらく苦しいことだ。しかし「次は勝つかもしれない」、という気持ちがギャンブルの継続を人に強いる。そのひとつの決め手はニヤミスということだ。これについては、本章の冒頭で触れただけで、十分に扱っていなかったが、この「もう少しのところで当たっていた (けれど結局は外れた」という体験が、ギャンブラーの射幸心をあおるのである。
 このニアミスという現象、脳科学的にはそれが報酬系に関与しているということはわかったのだが、それ以上の具体的な事実や仕組みが明らかになったわけではない。そしてもちろんギャンブルを継続させるのは、ニヤミスだけではない。事実宝くじなどで、ニヤミスはあまり出ないはずである。あたりくじとひとつだけ違う番号がたくさん出回る、という話など聞いたことがない。それでも人は宝くじを買い続けるのだ。しかしスマートフォンのゲームなどでは、ニヤミスが射幸心を高めるため、法律の機制下におかれている。
読者の皆さんは、しばらく前に話題になった「コンプガチャ」を御存知だろうか?「コンプリートガチャ」というこの遊戯方法は、オンラインゲームなどで、いくつかのアイテムをそろえることで、レアなアイテムを得る権利を獲得する。これはいわゆる「絵合わせ」とも呼ばれ、射幸心を高めすぎるために規正の対象となる。それが「不当景品類及び不当表示防止法」第3条の「景品類の制限及び禁止」において違法とされている行為であり、コンプガチャは少し難しい条文では、「懸賞による景品類の提供に関する事項の制限」の対象にされる、と書かれている。
 この例は一昔前のポケモンのカードを思い出させる。私の息子が小さい頃だったから20年ほど前だが、随分たくさんのポケモンカードを買ったのを覚えている。一袋に10枚程度のポケモンカードが入ったものを何袋か買うのであるが、何が入っているのかわからない。ほとんどはありふれたカードだが、時々レアなカードが混じる。しかし「激レア」カードは何袋買っても出てこない。これもニヤミス感覚である。
 息子の様子を見ていて面白かったのは、次々とカードを開けるときに、一枚一枚何か念じているようなしぐさを見せることだった。あたかもそれによりカードがハズレから激レアに変わるかのように、である。実はこのことが、なぜニヤミスがそれだけ私たちをアツくするかの一つのヒントを与えているようである。
ニヤミスが射幸心を高める理由については、諸説あるが、私が意義があると感じるのは、次のものである。それはニヤミスにおいては、ギャンブラーはもう少しでうまく行っていた、すなわち「惜しい」体験であり、あとひと頑張りで夢を達成できるものという感覚を生むのである。一等と番号が一つしか違わない宝くじは、紙くずに等しいだけなのに、人はなぜそのような体験をするのだろうか?

2016年7月27日水曜日

推敲 2 ④

 このシンプルな画像はこれからも何度か登場することになるが、ここでの基本的なコンセプトを示しておきたい。図の横軸は時間経過を指す。縦軸にはドーパミン神経の興奮の度合い、とある。そしてパチンゴ玉をもらった瞬間、そしてそれが中央口に入った瞬間、にその興奮の度合いが縦軸に示されている。そしてその縦軸の変化の内部が青く塗られていることに注目していただきたい。これが示すところはドーパミンの興奮の積分値(すなわち面積)を意味する。今後これが私たちの快、不快のあり方の基本的な様式を示すことになる。私たちの日常体験、そして現在の脳科学でわかっていることは、快は時間とともに変化していくことであり、それはドーパミンの興奮の度合いと深く関係しているらしいということだ。そして図の2-1で示している½Pとは、それぞれの瞬間の積分値を示していることになる。
さて同じ例で、パチンコの玉が入らなかったら、今度は逆の体験、不快体験となる。図の2-2では球が外れた瞬間の体験が臙脂に塗られているが、これはマイナスの快感、すなわち不快、失望である。


これは一見合理的な説明である。パチンコ玉をもらってうれしくても、それをスッてしまったら、プラマイゼロだ。そんな体験は一日が終ったら忘れてしまう、ということになりはしないか。ちょうど一万円札を拾って喜んでよく見たら、1000万円と書かれたおもちゃのお札だと知ったときと同じである。一瞬の快、その直後の失望、プラマイゼロである。おそらくそのことをあとで思い出すことは少ないだろう。

2016年7月26日火曜日

推敲 2 ③

期待そのものが快感である

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っているとき、それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでコーフンする、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの話とは違う。期待しているときの快感は、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、生きていることそのものが楽しい、というのが私たちの人生なのかもしれないのだ。そう、私たちの人生は、精神的な病やトラウマの影響を受けていないのであれば、デフォールトが楽しいものなのである。
話を大きくせずに、ギャンブルの話に留まろう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは、ハマらない限りは、人に「遊んでいる」という感覚、楽しみという感覚を生むのだ。
たとえば1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、30分後にあなたはそのお金をお店に献上して店を出てくるだろう。でもあなたは不幸ではない。30分の間にあなたは1000円を代償にして、自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に付けたわけでもない。でもきっと思うだろう。
30分こんなに遊んだんだから、1000円は安いものだ。」
 でもあなたはその30分の間、ある期待をしていた。1000円を元手に手荒に稼ぐことを、である。もしそのパチンコ台が決して勝てない台であるということを知っていたらあなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。幸福な結果を期待して待っている時間はそれだけでも楽しいのである。
期待することそれ自身が快感である、という事実がどれだけ驚くべきか、私はまだ十分に説明できていない気がする。もし私たちの報酬系が、きわめて単純にできていたら、期待したものが得られなかったら、その分失望という名の不快として体験されるはずだ。

そこでここからは思考実験である。あなたがパチンコの玉一つを与えられる。それを弾くと、中央口に入る確率がちょうど50%だとしよう。あなたはその球をただでもらったのだから、玉を弾く瞬間は、球が入った時の快感(Pとしよう)の半分を体験してもおかしくない。½Pというわけだ。すると実際にはじいた球が中央口に入った場合は、残りの½Pが体験され、両方で1Pということになる。それは中央口に入ることが決まっている(入る確率が100%の)玉をもらうのと同等ということになる。それを以下の図に示す。







2016年7月25日月曜日

推敲 2 ②

 ギャンブル依存に関する最近の脳科学的な知見は、非常に重要な情報を与えてくれる。その一つは、ギャンブラーたちの多くは、お金を儲けるために賭け事に夢中になるのではない、ということである。いや、これは正確な言い方ではないかもしれない。彼らはもちろん「一攫千金のためにパチンコ台に向かっているんです」というだろう。しかし彼らは負けた時も、あるいはニヤミスの時も、場合によっては大当たり以上に脳内の報酬系にドーパミンが出てているらしい。それがますます彼らを賭け事に夢中にさせるというのだ。それを Loss chasing (負けの追跡)と呼ぶ。だから正確な言い方をするならば、「ギャンブル依存の人は微妙に負けるとますます興奮する」のだ。結局はお金が儲かるかが不確かであればあるほど、賭け事に夢中になるというわけである。
ここで私は注意深く、「負けるとますます興奮する」という言い方をした。要するにアツくなっているという意味だ。記述に正確を期すためである。実は「負けることが快感となる」、と書こうとしたが、それでは正確ではないと思いとどまったのだ。なぜならパチンコ台であともう少しのところで大負けした人に「気持ちイイですか?」と尋ねても、「馬鹿野郎!」と怒鳴り返されるだけだろうからだ。そう、その時は快感とは言い切れない体験をしている。しかしハマっている。興奮している。そしてますます金をつぎ込もうとする。
私が別の章で説明する、like want との違いを参照してほしい。 好き like ではなくとも欲して want求めてしまう のが、報酬系の妙なのである。パチンコの台のことを思い出そう。釘を細工された台では、パチンカーは何度も「一般口」に裏切られてつらい思いをするはずだ。でもますます「中央口」に向かって玉をはじく。一般口に入りそうでなかなか入らない体験が、より彼をアツくする。「いつ出るかはわからないが出ると大きい」が一番人を興奮させるのだ。あとはどの程度の「出そうで出ない」ことが一番この不確かさを増すかを研究して熟知し、それに従って釘を調節するのが、プロの腕の見せどころなのだ。
 
ところである学者は、「微妙に負けるとますます興奮する」という傾向には、系統発生的な意味があるという。哺乳類でも鳥類でも、餌が予想に反して出てくるような仕掛けにより夢中になるという。総じて餌の出る量が、予想できる仕掛けより低いとしても、動物はそちらを選ぶという。そしてもともとこの賭け事好きの個体が、生き残ってきたのだ、という仮説が成立するというわけだ。(150321 gambling disorder)(Front. Behav. Neurosci., 02 December 2013 | http://dx.doi.org/10.3389/fnbeh.2013.00182 What motivates gambling behavior? Insight into dopamine's role

射幸心とマゾヒズム

以上の射幸心に関する話が自虐性(マゾキズム)の問題に結びつくことについては特別説明はいらないだろう。もちろん射幸心に駆られて賭け事にはまり、身を持ち崩す人が、「自分を傷つけている」という感覚はないかも知れない。しかしある意味ではこれほど明らかな自虐性もないのである。
興味深いことに、ギャンブル依存の人と、正常な人で、大当たりをした人の報酬系の興奮に差はないという。問題は負けた場合、あるいはニアミスの場合だ。負けることで余計熱くなり、さらに賭け事を続けようとするのだから、自ら自己破産のプロセスに身を投げ出しているようなものである。
しかしよく考えてみよう。射幸心的なメンタリティーは決して異常ではなく、私たちは日常的に出会っているのではないか? 「101回目のプロポーズ」というドラマがあったが、主人公は実は断られることにどこか快感を覚えていたのではないか?(少なくともアツくはなっていただろう。)これはまた恋愛妄想に近い心理をも説明しないか? つまり断られ、拒絶されればされるほど燃え上がる人々は決して少なくないのである。
この問題は人間の行動も、それを理解しようとする心理学をも一気に複雑かつ不可解にする可能性がある。私たちは通常は人間を功利主義的な存在と考える。人は常により大きな快を求める傾向にあると考えるのだ。そして大抵の人はそれにしたがって生きていると思っている。ところがふとしたことから喪失、拒絶、失敗の体験に興奮が伴ってしまう。ここでも「快感」とは敢えて言わない。でもそれを繰り返したくなってしまうのである。
実はこの問題は私たち日本人が特に持ちやすい、禁欲主義とも関係している可能性がある。カウンセリングを学ぼうとしている人が、「精神分析の道は厳しい。悪いことは言わないからあきらめた方がいいよ。」といわれて、がぜん精神分析の道を歩んだ人の話を聞いたことがあるあるいは私が知っている、不妊治療を受けた人の話。医師に「この方法は高価だし、妊娠する確率は低いですよ。それでもいいんですか?」と問われて俄然「この方法しかない」と決意を固める人が少なくないという。

この射幸心とマゾキズムの問題は虐待とも結びついている。パートナーとの関係で、DVの被害に遭うことがわかっていながら、その関係を続けたくなるという心理などを考えればお分かりだろう。不確かな成功の可能性、そのために多くの喪失を伴いかねないこと、これらは少なくとも私たちのごく一部を駆り立てる。あるいは「私たちのごく一部」どころではないかもしれない。さもなければ、一等に当たる確率が限りなくゼロに近い宝くじを、どうしてこんなにたくさんの人が買うだろうか?

2016年7月24日日曜日

推敲 2 ①

射幸心という名の悪魔

たかが(くぎ)、されど(くぎ)

「射幸心」という言葉を聞いたことがあるだろうか?英語では「ギャンブリング・スピリット」( gambling spirit、ギャンブル魂)とか言うらしいが、それでは雰囲気が出ない。思わず賭けてみたくなる、賭け心をそそられる、ということだ。「射幸心」とは字通り考えれば、幸福という的(まと)を矢で射抜きたいという願望ということになるが、そこにアヤしいギャンブルのにおいがある。射幸心は私たち人間が持つ根深い願望であり、ギャンブルの胴元はそれを巧みに刺激して、ギャンブラーたちを破滅への道に誘いこむのだ。いったいこの射幸心とは、報酬系とどのように関係しているのかを考えよう。
 わが国では、ギャンブルといえば、パチンコや競馬である。これらの公営ギャンブルは、「遊戯」ということになっているようだ。だから公営ギャンブルという呼び方も正式なものではなく、公営競技というらしい。(遊戯などとよくも言ったものである。)
 呼び方はともかく、ギャンブルが、本当の意味での「遊戯、競技」とどこが違うのかを、人は考えたことがあるだろうか?それは射幸心が介在しているか否か、ということになる。それでは射幸心とは何か?
身近な例から取り上げよう。パチンコは日本に特有の「遊戯」であり、もちろん単なる遊びにはとどまっていない。年間200300もそれにつぎ込む「ヘビーユーザー」たちが産業を支えているともいう。その業界で最近問題になっているのが、「クギ曲げ問題」であるという。簡単に言えば、釘の間隔をペンチか何かでビミョーに操作することで、射幸心を増すという違法行為だ。私もこれまで23回くらいならパチンコをやったことがあるのでわかるが、球を弾いて台の頂上付近で落下させようとする。その一番著上にある穴が「中央入賞口」だというそうだ。そこに入ると大当たりだが、その周辺に玉がたいてい逸れる。すると運が良ければ小口の「一般入賞口」に入り、それ以外の大部分の球はどこにもカスらずに台の下まで落ちて、中央の穴から吸い込まれていってしまう。
さてパチンコ台の頂上にある「中央口」と「一般口」(長たらしいからこう呼ぶことにしよう)に玉が入る確率は業界で定められていて、それを満たすような釘の間隔というのが存在する。要するに中央口の入り口付近の釘はその間隔が狭いためにそこに入りづらく、一般口のそれは少し広いから入りやすい。ところがパチンコの業者はそれを勝手に曲げてしまい、「中央口」に入りやすく、「一般口」には入りにくくする。するとパチンコを打つ側の心理としては、「ダメもとだが一発勝負」になりやすく、それが格段に「遊技者」のやる気を引き出す。そしてこの「やる気」こそが射幸心というわけだ。
ではどうして警察もそのような題を規制しないかということであるが、実はパチンコ台を検査する「保安通信協会」には警察OBが入っているというのだから、検査がアマくなるのは当然と言わなければならない。
ちなみにこの問題が深刻なのは、レジャー白書によると、パチンコにおける1人当たりの平均消費金額は1989年が年間50万円ほどだったのに対し、2014年は年間300万円ほどと約6倍に跳ね上がっているという事情があるからであるという。そして少なくともその一部には釘曲げ(正式には「釘調整」という)という本来違法な行為が関与しているという。

釘を調整することで、中央口だけ入りやすく、一般口が入りにくいという操作が、どうして射幸心を増すかは、おそらくピンとこないだろう。私も来ないが、おそらくしばらくパチンコを打っているうちに、体感できてくるのだろう。理屈では説明できなくても。そしてそこには確かに脳科学的な根拠があるのだ。


負けるほど熱くなる

ところで射幸心がなぜこれほど問題になるのだろうか?それはこれを刺激することで人は容易に身を持ち崩してしまうからだ。その意味で射幸心は麻薬の依存性と酷似している。依存性は、それにより人がますます薬物にはまり、身も心もボロボロにしてしまう力を持つ。射幸心もそれと同じ意味を持つ。そこでは人は射幸心により賭け事にますます入れ込む、ということでは済まない。負ければ負けるほど入れ込む、という構図を持つ。麻薬との例えで言えば、吸っている麻薬がまずければまずいほどますます吸いたくなるという事情になる(実際の麻薬の場合は、少なくともまずい、という感覚はないであろうから、そこはパチンコと多少なりとも違う点である)。そこが異常なので、射幸心が場合によっては麻薬の依存性よりも恐ろしいと考えられる理由なのである。しかしそれにしても、負ければ負けるほど・・・ とはどのような意味か。それを以下に説明しよう。

2016年7月23日土曜日

推敲 1 ④


でも電極埋め込み手術がかなわない人のために

この、本書にとって非常に意味のある第一章を、このままで終わらすわけにはいかないのかもしれない。このままだと享楽主義的なオカしな精神科医が見た、非現実的な夢物語、ということで終わってしまう。(ほとんどその通りだという声も聞こえる。) しかし私はこの手術を受けることなく死に行くかもしれない。なにしろひそかに手術の内諾を得ている脳外科医ドクターS(通称、「時々失敗するドクターX」)の方が、事故か何かで私より先に逝ってしまうかもしれないではないか。(ジョーダンである。そんな医者など存在しない。夢の中の話である。) 
いかに報酬系全開で死ぬことが出来るのか。それは私が本書の後半で述べることになる「磨かれた報酬系」の話につながる。報酬系が磨かれることにより、人は失望も期待もしなくなる。否、失望も期待もしないというのは言い過ぎだ。そうであるならば感情がなくなってしまうことになる。そうではなくて、一瞬の期待、の失望の後に立ち直ることが出来るのである。それを私は「心の針が振れる」と呼ぶのであるが、それがなくなった人間はもはや人間ではない。しかし私達の体験する怒りや悲しみが過剰な期待とそれに続く失望によるものであるならば、それが最小限に抑えられた人生はそれなりに安楽になるはずである。磨かれた報酬系を持つ人が体験するのは、おそらくもっぱら喪や喪失の辛さ、新たに与えられた新しい体験の機会への喜びということになる。喪や喪失はもちろん生きている限りは避けられない。慣れ親しんだ人、愛着を覚えていた人、住み慣れた環境などと、報酬系とはすでに密接に連携している。いかに洗練された報酬系でも、友達を病気で失った時の苦しみを避けることは出来ない。
 しかし磨かれた報酬系は、おそらく日常のさまざまなことに喜びを見出す可能性がある。手に取った小説、昔聞いた曲、そのテーマや展開の妙に惹きつけらえる映画、そして創作の喜び。幸い磨かれた報酬系が迎える最後は比較的安楽であろう。「期待」の要素が限りなく低減しているからだ。何しろ「最後」(最期)なのである。
それでも・・・・・。また不埒な精神科医は考える。死ぬまでにはまじめな性格から決して手を出さなかった(タバコまでも恐れたのだ)違法薬物を一度体験したい。それは単純に精神がこれまで体験したこともない体験を一度は持ちたい、というそれだけなのだ。しかしそうすると私は次のような夢を見そうである。
(以下略)


2016年7月22日金曜日

精神療法 ⑤

「心の動かし方」の3つの留意点

1.バウンダリー上をさまよっているという感覚
さてミット打ちの比喩、症例A,Bと紹介してきました。そしてやはり私の「心の動かし方」は構造を内包している、という言い方をしました。しかしよくよく考えると、私はその構造をいつも微妙に崩しながら元に戻す、ということをしているような気がしてきました。バウンダリーという見方をすれば、私はその上をいつもさまよっているのです。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいでしょう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのです。これは先ほどのミット打ちにもいえることです。コーチがいつもそこにあるべきミットをヒュッとはずしてきます。あるいは攻撃してこないはずのミットが選手にアッパーカットを打ってくるふりをします。すると選手は起こったり不安になったり、「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。おそらくそれはミット打ちにある種の生きた感覚を与えるでしょう。
あるいは実際のセッションで言えば、私は

(中略)

私とBさんはそんな関係を続けているわけですが、この種のバウンダリーのゆるさは、仕方なく起きてくると言うよりも、実は常に起きてしかるべきであるというのが私の考えです。言葉を交わしながら、私は同じようなバウンダリーをさまよっています。実はバウンダリー上の揺らぎこそが大事なのであり、そこに驚きと安心がない混ぜになるからなのです。そう、週一回、50分、と言うのはその上をさまようべき境界のほんの一例に過ぎないのです。

2.「決めつけない態度」もやはり治療構造の一部である
もう一つは決め付けない態度、ということです。

(中略)

私にとって決めつけないというのは構造の一つです。それはスパーリングで言えば、そこに遊びはあっても、基本的にはミットが選手の痛めている右わき腹を攻撃したり、アッパーカットを打ち込むということはありません。まあミットで打たれてもダメージはたかが知れているでしょうが。その安心感があるからこそ、そのそぶりはスリルにつながるのでしょう。

3.やはりセルフエスティームか?
私は心の動かし方のルールとして、やはり来談者のプライドとかセルフエスティーム、自尊心を守るということを考えてしまいます。ヘンリー・ピンスカーという人の支持療法のテキストに書いてありましたが、支持療法の第一の目的は患者の自尊心の維持だといっています。私もその通りだと思うのは、彼らの自尊心を守ってあげることなしには、彼らは自分を見つけるということに心が向かわないからです。ですから私がAさんやBさんとやっていることが、ただ彼らに支持的にふるまっているわけではないということをわかっていただきたいと思います。


2016年7月21日木曜日

ある序文

ある序文を書いてみた。

我が国におけるコフート研究には30年以上の歴史があるが、現在の日本の精神分析の世界では十分にその存在を認識されていないという観がある。それだけに本書のように、他領域との比較を行いつつ自己心理学について縦横無尽に論じ、かつ自己心理学の最新の流れを扱った本格的な研究書の出版には大きな意味があるであろう。
自己心理学はご存知のとおり、ハインツ・コフート(1913~1982)が1970年代初頭に確立した精神分析の全く新しい流れである。それは従来の伝統的な精神分析に対して真っ向から異論を唱えるという意味合いを持っていた。それをコフートは、最初は精神分析の内側からその一部を補足するという形で(「自己の分析」、1971年)、やがて従来の分析理論に並立すべき本格的な理論的枠組みとして(「自己の探求、1978年」)提示した。それは慢性疾患に徐々に体を蝕まれ、死が刻々と迫る中で、コフートが渾身の力をふるって示し続けた理論であった。
 コフートの主張、すなわち共感の持つ臨床的な重要性や、人は自己対象的な存在を常に希求するという提言は、伝統的な精神分析理論に今一つ欠けていた要素として若い世代にいち早く取り入れられて行ったという歴史がある。現在米国を中心に見られる関係精神分析という新しい流れの源は、このコフートの貢献にあったという見解もある。その意味ではコフートの勇気や、因習を打破して真に患者のための理論を構築しようという情熱は、現在の米国の精神分析に脈々と受け継がれているといってよい。
精神分析とは一つの治療手段であり、また理論体系である。一方では本来あらゆる治療法がそうであるように、それは患者の利益を第一に重んじ、その要望をかなえることを最優先にすべきであろう。しかし同時に分析理論は臨床実践の仕方に大きく影響する。その両者が完全に噛み合っていればまったく問題はないのであるが、理論のほうはさまざまな学派や異なる治療理念に枝分かれし、それが分析家に異なる治療実践を要請することになるが、他方の患者といえば、分析家のよって立つ理論を理解した上で治療を受けるわけでは必ずしもない。結果として分析家の拠って立つ理論やそれに基づいた治療では掬い取られない患者の生の声や心の痛みは、治療への抵抗や病理の表れとして処理されかねない。こうして分析的治療と理論は微妙に、あるいは明らかに齟齬を来たしていく可能性がある。
 コフート理論もそのような隙間を埋める形で生まれた理論と言っていい。コフート自身が実は伝統的な精神分析の治療を受けた時に違和感を持ち、それが独自の理論を打ち立てたという経緯がある。ちなみに本書の著者もそのような体験を持ったのであろう。前書きにあるように、分析に拒絶反応を起こしたあるとはまさにそのことである。伝統的な分析理論への違和感は、著者にとってもコフートと共通したテーマであったということが出来よう。

ところで心を扱う理論には精神分析の諸理論以外にもさまざまなものがあるが、患者の側の心の痛みは、理論とは無関係に昔から普遍性を持って存在していたはずである。そして様々な理論には、ある種の共通性や普遍性が存在し、それが治療を可能にしていたと考えられる。そこに精神分析理論と従来のロジャース理論、ユング理論などとの照合に意味が生じる。従来の精神分析とはいわば水と油の関係にあったロジャースの理論とも、ユング派とも不思議な関連性を有する。その点を本書は見事に描き出していると言ってよいであろう。
最後に著者●●氏と私とのかかわりについても述べておきたい。本書は米国で当時の精神分析のメッカとも言えるメニンガ―財団に滞在した著者が、精神分析の新しい流れに実際に触れ、精神分析療法を受け、特にそこで触れることのあったコフート理論をさらに探求し転回するという道をたどった軌跡ともいえる。(中略)本書の出版を心からお祝いしたい。


2016年7月20日水曜日

精神療法 ④

ある心の動かし方とそれに内在する「治療的柔構造」

「ある心の動かし方」は感覚であり、これまでは言葉に直すことができませんでした。しかしそれは結局ある種の構造を提供しているという側面があることに気が付きました。ある心の動かし方にはある種の構造がビルトインされています。ですから時間の長さ、セッションの感覚は比較的自由に、それも患者さんの都合により変えることができます。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
いつか重構造のことをボクシングのリングのようなものだと表現しました。がっちり決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造を考えると、それは相撲の土俵のようなものです。そこでさまざまなことが起きても、それは土俵を割ることで勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わっても30秒長く続くセッションは、それが引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープは強く反発してきて、結局セッションは終了になります。しかしリングはやはりしっかりとした構造と言えます。そしてその中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合は、かなり剛構造化されたものです。
 でも柔構造的な精神療法は、ボクシングの一種のスパーリングないしは「ミット受け」のようなものだと考えてください。ボクシングの選手はミットで受けてほしい、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出してパンチを受けます。ひとしきり終わると、ではまた、と選手は帰っていきます。その選手はおそらくどのくらいの頻度でトレーナーとのスパーリングを必要としているかが異なるでしょう。一時間みっちり必要かもしれないし、5分でいつもの感覚を取り戻すかもしれない。しかしここにもだいたい構造はあるでしょう。それこそ月、水、金の5時ごろから30分ほど、とか。さもないと二人とも予定が合せられないからです。さてスパーリングが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待する。場所はあまり定まっていないかもしれない。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出てひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっている。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのグラブの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるかもしれません。コーチはそのミット打ちの時間を全面的にコントロールする役割を負っていますが、幾分選手にもその主導権はあるでしょう。でもそこでもだいたいの構造はある。選手は、コーチ、ではいつもの感じでやってください、と暗黙のサインを送ってくるでしょう。でも選手が特に悩んでみっちりやってほしい時は、あらかじめ「明日の夕方、少し長めにお願いできますか?」と連絡をしてくるかもしれません。

ミット受けは、選手とコーチにはかなり明確な一方向性があるでしょう。コーチがいきなりグラブで選手に殴り掛かってくることはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くためにスパーリングを行うわけではないからです。だからいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなグラブの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるため。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。なんだか考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット受け
を考えると分かる通り、その構造は、コーチのグラブの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。

2016年7月19日火曜日

精神療法 ③

<私はこのスペクトラムの中で、それでも構造を持ってやっている―それを柔構造と呼ぶ>

 さて私は精神科医として、結局かなりケースバイケースで治療を行っている。これはある意味では由々しきことかもしれません。精神療法には構造が一番大事なのだ。これを私は小此木先生から口を酸っぱくして言われました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。ある意味では内在化されていると言ってもいいかもしれません。ただここら辺で理論的な話ばかりするとみなさんが退屈になりますから、臨床例について話したいと思います。

症例Aさん(強度0.5)


省略



症例Bさん(強度2くらい)


省略




ただ自由に主観を提供しているという一方向性の関係からきているのだということは十分自覚しているつもりです。

2016年7月18日月曜日

精神療法 ②

<スペクトラムという考え>
そこでそこで私はスペクトラムの考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、頻度も時間も様々なものが考えられ、どれか一つが正解ではないという主張です。これは週に一度、30分のセッションを持っている部分の私を救う目的がありますし、私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの為でもあります。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分、というのが来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の、強度10の精神分析です。通常の週450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいになるでしょう。左端には、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないでしょうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、それを受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを受けたり、行ったりしないで、お前に何が言えるのだ」と言う事になってしまいます。
このスペクトラムの特徴を二つだけ挙げておきます。おそらくその強度に関しては、一般的な意味ではなだらかな形で弱まって行きます。ただしそれはあくまでもなだらかです。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、それこそ越えられないような敷居があるとは思えません。私のメンタリティーに変わりないし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。ここでスペクトラムの右側、つまり頻度も時間も少ない方向を、仮に精神療法の強度が弱まる方向、と表現するならば、強度が弱まっていく。これまである程度のペースで行っていたことの、そのペースが弱まる。物足りないという思いがする。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行けるたびはあるわけです。
このスペクトラムのもう一つの特徴には、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つは頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということもあります。これも驚きのことと思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる35分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんに渡せるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッション化午後のセッションか、等数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。
これを私はあえて治療的柔構造と呼びたいと思います。そう、私は大まじめでやっているのです。

2016年7月17日日曜日

精神療法 ①

報酬系どころじゃなかった。「日本の精神分析的精神療法」こういうテーマで話をまとめなくてはならなくなった。期間は10日。キツイなあ。私はブンセキカである。精神分析といえば週四セッション以上が定番である。しかし私の患者さんの中には不定期で、それも二週に一度しか通ってこない方もいる。というか精神科医ではそれ以上が出来ないという事情がある。私はそれでは精神分析が出来ないかといえばそんなことはないと思う。ただ質が変わってしまうということはある程度いえるかもしれない。そこで思いついたテーマ。
週一度、というより頻度のスペクトラム、そしてセッション時間のスペクトラム
<初めに>
今日はこの場にお呼びいただいて、誠にありがたいという気持ちでいっぱいです。そこでこの機会に、なかなか他の場ではいえないことをお伝えしたいと思います。
 まずはこの週に一度のセッションというテーマから始めますが、私にはどうもこのテーマについては、「週一度でごめんね、でも立派に仕事が出来ますよ」というapologetic 謝罪的 なニュアンスを感じます。精神分析は本当は週に4度でなくてはならないが、週に一度だってそれなりに意味があるよ、でも週に一度であるという立場をわきまえていますよ、というニュアンスです。しかしそれは同時に一種の戒めでもあります。「まさか週に一度さえ守れていないことはないでしょうね。」「週に一度は最低ラインですよ、これ以下はもう精神分析的な療法とは言えませんよ」という一種の超自我的な響きがあります。さらにこれは時間についても言えます。50分、ないしは45分以上のセッションでなければお話になりませんよ。それ以下では意味がありませんよ、というメッセージがあります。
 私は性格上あらゆる決まり事、特に暗黙の裡の決まり事に対して反発をしてきました。というよりそれに暗に従ってしまいそうになる自分に対する違和感というべきでしょうか。もちろん何にでも反対するというのではなくて、現実と遊離している決まりごとに対してそうなのです。ですから「週一度、50分でなくてはならぬ」に反発いたします。もちろん週一回、50分できたらどんなにいいだろう、という気持ちもそこには含まれます。
 先ず私の立場を表明します。私の立場は精神分析家であり、そして精神科医です。精神分析家である私は、週に4回も週に一度50分も実際に行っています。しかし精神科医の私のプラクティスの中では、週一度はとても贅沢な構造です。でも8時間に40人のペースで患者さんと合うというスケジュールでは、それを維持することには大きな制約があります。そこで私が最大限贅沢に行っている精神療法は、二週に一度30分です。これはやはり少なくとも10分、15分以内に次の患者さんを呼び入れるという立場ではかなり無理をしたスケジュールです。そしてこれは実は精神科医だけではありません。私は心理士さんと組んでプラクティスを行っていますが、事実上通院精神療法の本体部分は彼女たちにお願いしているわけですが、とても50分に一人ではまわって行きません。私の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々です。一時間に二人はあっていただかないと無理です。私の理想とする精神科医と心理師の共同では、2週間に30分は、事実上のスタンダードです。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティックストレス学会で出会う精神科医の先生方も言っていることです。通精では、二週に一度30分が限界だよね、と。二週に一度30分、というスタンダードはこうして事実上あるのですが、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれません。
でも、みなさん首をかしげるかもしれませんが、私は大まじめで分析的な精神療法をやっているつもりなのです。もちろんそれは週4回、ないし週一回50分と比べて、ややパワー不足という印象は否めません。たとえて言えば、精神分析という4輪駆動や、週一度というSUVほどには走れません。でも軽自動車くらいの走りはしていますし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走っている気がします。私もそれならば運転できるよ、と思っているし、患者さんもそれくらいならガソリン代が払えますよ、といっている。私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、とても満足しています。