2016年6月19日日曜日

快楽原則 ②


快感原則」と「不快原則」の綱引きの関係

「快感原則」と「不快原則」の関係性についてもう少し説明を続けよう。私たちが日常的に行う行為の大部分は、この両者が同時に関係しているといえる。私たちの行動のほとんどが、快楽的な要素と不快な要素を持つ。だから常に快感原則と不快原則の綱引きが起きていることになるが、実際にはそれがルーチン化すると、一部は自動化され、反射的、常同的に処理されるようになっていく。
健康のためにウォーキングを始めた、という例を考えよう。小一時間汗を流すのは気持ちいいが、同時に疲れる、めんどうくさい、という部分も伴うだろう。空模様が怪しかったり、ムシ暑かったり、逆に冷たい風が肌をさす日などは、いつものように歩きながらも「私は何のためにこんなことをやっているんだろう?」と思うこともあるだろう。しかしあなたがそれでも散歩に出ることを決めたとすれば、散歩に出ることが現実原則に則っている (つまり散歩による快 散歩による不快、であるからだということになる。
 この散歩の例における快にはどのようなものがあるのか? それをリストアップしてみよう。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もひと仕事をした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。つまり快は、即時的に体験される部分と、間接的、ないしは遅延された部分により成り立っている。ただし歩きながら距離を測って、たとえば「今日の散歩のルーチンの35パーセントは達成できた。やった!」などと考えることができる場合には、歩いている間にもそのパーセンテージが徐々に上がっていくことになり、遅延部分は即時的な部分と事実上あまり変わらなくなるだろう。
 では不快はどうだろうか? 天候がすぐれない時や道がぬかるんでいる時、体調が悪い時などは、歩いている各瞬間が苦痛となるであろう。実は右足の親指が巻き爪で、歩くたびに少し痛みを感じる、なども入れておこう。こちらの方はほとんど即時的なものくらいしか思いつかない。遅延した不快体験というのはこの場合あまり考えられないからだ。「今日散歩をしたら、何か悪いことが起きる」などと占い師にへんな予言をされた場合、くらいか。
 さてこの散歩がルーチン化していったならば、それは半ば無意識化され、自動的なものになるかもしれない。仕事から帰るといつの間にか散歩用のスポーツ着に着替え、歩き出している、などのことが生じる。その時はいちいちそれが快か不快かを問うことなく、その行動が自然と起きてしまうかも知れない。ただしその行動がマイルドな形で快を与えることが、その継続にとっては重要である。なぜなら自動的な行為は、それが不快だと気がついて止めたければ、いつでも止められるからだ。それでも続けているということは、少なくとも「やめることも何となく苦痛」くらいではあるだろう。
 散歩の例は、快が即時的なものと将来の先取り分という複雑な構造を持ち、不快の方は即時的なものだけだったが、逆の例を考えることも容易である。たとえば喫煙。こちらは快はもっぱら即時的だ。「こうやって煙草を毎日吸っているのは辛いが、将来きっといいことがある」などと考える人はあり得ないだろう。ただしおいしそうな外国製の葉巻のボックスを手に入れ、家に帰ってから一人で吸おうと帰途につく時の快は、遅延部分といえるだろう。
 今度はこの喫煙の例での不快の方のリストだが、これも複合的だ。即時的なものとして「まずい、煙い」などといいながら吸い続けるということもあるのだろうか? 私は喫煙者ではないのでわからない。しかし「これ喫っていると、どんどん肺が真っ黒になっているんだろうな」とか「肺がんや膀胱がんに確実になりやすくなるだろうな。オソロシイ」などの考えは起きるだろう。これは将来の苦痛を先取りしたものといえなくもない。

「快感原則」と「不快原則」と「不快の回避」との関係

ところでこの快感原則と不快原則との綱引きの関係についての議論を読んでいる方の中には、ウォーコップ・安永の提言である「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」という理解(安永浩(1977)分裂病の論理学的精神病理-「ファントム空間」論-.医学書院、東京)との違いについて疑問に思うかもしれない。この提言は英国の不思議な学者ウォーコップが示した人間観を日本の精神医学者である故・安永浩博士が継承しつつ発展させたものだが、それと「快楽原則」と「不快原則」との関係はどうなっているのか。この問題についても触れておきたい。
ここでウォーコップ・安永の理論の詳細に立ち入る余裕はない(というか詳しいことが私にはまだ理解できていない)が、ウォーコップの理論をひとことで言えば、人間の行動は必ず、それを「したい部分」と、「しなくてはならないからする部分」がまじりあっているということだ。彼は前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と名付けている。
 この観察は私たちの日常生活に照らせばかなり妥当である。というよりそうでない行動を見つけることが難しい。どんなにその行動に喜びが伴っても、義務の部分は何らかの形で入り込んでくるものだ。先ほどの散歩の例で言えば、楽しく歩いている場合にも、義務感に駆られてやっているという部分が多少なりともある。義務感に駆られているというのは、それを「しない」ことによる後ろめたさや罪悪感を回避するためにそれを行うということである。「死・回避行動」とはそれを少し極端な形で言い表したものなのだ。
このことをこれまで見た快感原則と不快原則の議論に引き付ければどうか?「死・回避」の部分は、見た目は不快原則に従った行動とは似て非なるものだということがわかる。「死を回避する行動」の場合、それは散歩を継続するという方向に働くが、不快原則の場合はそれは散歩をやめる方向に綱を引くことになる。前者は、「散歩はしないことに伴う苦痛から逃れるためにせよ」(「散歩はやらないよりはマシだから続けよ」)であるのに対し、後者は「散歩は苦痛だからやめよ」と当人に働きかけるだろうからだ。すると快楽原則とペアになって意味をなすと考える「不快原則」と、もう一つのペアの候補「死を回避する行動」とはまったく別のものなのか?