2016年5月26日木曜日

倫理観 ④


「ささやかな楽しみ」と報酬系
皆さんが毎日ある程度満足しながら生活を送っているとしたら、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後のビールかも知れない。家族との夕食かも知れない。最近ならスマホをいじりながらだらだらと過ごす数時間かも知れない。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないし、ブログを更新したり、眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。それは生きがいとまでは呼べないとしても、一日がそこに向かって過ぎていくというところがある。あなたはそのような時間を肯定しているだろうし、自分の持っている権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。  
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?いきなりだが、日本国憲法25条の条文にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系的には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかはあまり問題ではないだろう。未開人は私たちのスタンダードからいったら決して「文化的な生活」を営んでいるとは言えないだろうが、それでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在するはずだ。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、それでも彼らは「ささやかな楽しみ」を作り出すはずである。

結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。「ささやかな楽しみ」はそれは場合によっては文化的な生活が保障されていても得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。