2016年5月11日水曜日

トラウマ治療として共通因子を探る (1)

トラウマ治療として共通因子を探る (1)

(抄録)精神分析という世界の内側にいると、分析的なアプローチへの批判や猜疑心だけではなく、期待も聞こえてくる。トラ ウマに対する治療に関する精神分析への期待とは、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からアプローチし、洞察を求 める」ことになろう。そして精神分析を専門的に用いる治療者にも、多くの場合はそのような自負ないしは覚悟がある。 このような期待は、精神分析の理論が時は非常に複雑かつ難解で、そのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、 その分深遠に映ることにも起因しているであろう。
 しかし精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が決して明快ではなく、また容易ではないという事実の認識がある。無意識の探求とは、フロイトが想定していたものとは異なり、まさに海図のない航海と形容すべきものである。また「洞察を求める」ことは理想的には「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は 深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。その根底には、伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。 本発表ではこのような背景を踏まえて、トラウマ治療における「共通因子」の問題について精神分析の立場から論じた。

私はこの場にお呼びいただいたことを非常に光栄に感じておりますとともに、この共通因子というテーマについて皆さんと論じることを非常に楽しみにしております。私はこれまでの自分のトレーニングや現在の仕事を考えた場合、精神分析的な精神療法を専門としている人間だと自己紹介をすることが一番自然なわけです。私は精神分析家の資格を取得するために長い時間のトレーニングを必要とし、そのための留学もしました。また同時にトラウマや解離の問題にも関心があり、臨床に携わっているため、このテーマで論じる資格があるということでお声をかけていただいたのだと思います。
さてこの問題について論じるための前置きのような話から入りたいと思います。現代の精神分析は、一昔前の全面的に肯定的な見られ方をした時代とは違い、様々な疑いのまなざしを向けられています。特にそれは米国では顕著です。そこには、それほど時間とお金をかけてなされる治療に本当にそれ相応の効果が得られないのではないか、という疑いが聞かれます。これは一昔前、といっても1950年代、60年代の話ですから、半世紀も前のことですが、一時精神分析が極めて高い期待を背負い、一世を風靡した後にさまざまな代替手段にとって変わられたという歴史があるからです。
ところが日本では精神分析の専門家は、もちろん若干疑いの目を向けられることもありますが、依然として非常に大きな期待を抱かれる場合も少なくないのです。それは一般の臨床家の方々にも当てはまります。先生方からは「分析のことはよく知りませんが…・」という断り書きがよく行かれますが、そこには一定の敬意が感じられるのです。ここに米国との違いがあります。日本では精神分析は一世を風靡したことはなく、過剰な期待をかけられたことがない代わりに、ある種の根強い期待やそれに対する神秘性を感じる人がまだ存在するわけです。私はそれを嬉しく感じるとともに、身の引き締まる思いです。


(以下省略)