2016年4月18日月曜日

フロー体験 ③

もう一つ別の例。たとえば高層が禅を組んでいる途中に、一種のフロー体験を持つ時って、このスキルとチャレンジの相関図には当てはまらないのではないか?そう、おそらくこの図は正確ではないのだ。チク先生(短くなったな)の一つの思いつきか?
皆さんはお分かりだろう。決め手は報酬系、快感なのだ。そして同時に伴う解離。G線上のアリアって、すごくいい曲だが、動きは遅い。でもそれを情感を込めて弾いている時は、そこに報酬系の興奮が伴い、その行為自体が自動的になった状態がフロー体験になりうる。おそらくこの図に技巧を書きいれたのは、フロー体験を一種の究極の体験として描きたいチク先生の意図が働いているのではないか?個人的には最大の技巧と最大のチャレンジの均衡にあるのは、一種の緊張を伴った状態だろうと思う。間違えないように必死な部分があるはずだからだ。技巧がチャレンジを十分上回った状態でしか、快は生まれないと思う。やはりフロー体験の正体は「報酬系の興奮+解離」なのだ。
 他の例で考えよう。TEDトークでチク先生が説明するのが、作曲家の体験。彼はそれが一種のエクスタシーに近付くと、作曲家自身は何も考えなくなる、という。曲が勝手に降ってくる、あるいは降りてくる。
あるいはチク先生はこんな例も出す。(彼のTEDのプレゼンでは、この種の「証言」が多い。
あるフィギュアスケート選手の例。「それが起きたのは、それらのプログラムの一つでした。すべてが上手く行き、とてもいい気持でした。 それは一種のコーフンrush であり、いつまでも続けていける、あまりに上手く行きすぎて止めたくないという感じ。まるで考える必要がなく、すべてが自動的で、思考せずに行われる感じ。まるで自動操舵のようで、何も考えていない。音楽を聴いていても、聞いているということが意識されず、なぜならその音楽の一部になっているからだ・・・・。(How To Enter The Flow State というサイトから。岡野訳。)
この例も先ほどの「報酬系の興奮+解離」を証明している。このスケーターの例は、一種のエクスタシーと言ってもいいだろうが、エクスタシーの語源はご存じのとおり。「エクスタシーの語源はギリシア語έκστασιςekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている。」(ウィキ、デジタル大辞林)これ自体が解離だからね。