2016年4月14日木曜日

嘘 ④


仮置きという名の快楽   ← ナンでも「快楽」を付ければいいと思っているようなタイトル

ところでOB方さん事件をきっかけに注目を浴びるようになったのが、OB方さん事件の後、なぜ研究の捏造が行われるのかについて興味を持っていた。私は最初、犯罪者でもない人たちが、ありもしないデータをでっち上げて論文を作ることができるのかがわからなかった。論文を書く人たちは高い知能だけでなく、当然世間の常識や通常の倫理観は備えているだろう。どうしてそのような人たちが窃盗や万引きまがいの犯罪を犯すのだろうか?
しかし考えてみれば、高知能、社会的な適応を遂げたはずの人たちの多くが脱税や贈収賄などの罪を犯すことは周知のとおりである。ということは犯罪行為は一般の人でも容易に犯しうるということなのだろうか?私たちはそれほど反社会性を備えた存在なのだろうか?
しかしこの問題を考えていくうちに、いくつか納得のいく説明を得ることができた。そしてこれもまた報酬系の問題なのである。そし手その決め手となったのが、データの「仮置き」という問題だった・・・・。と書いてきて、このこと確かすでに書いていると思った。調べてみると、去年の821日、自己愛な人の推敲10/50というエントリーである。
アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる―嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』Simple Model of Rational Crime, SMORCを批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
 ここでこれまで検討した正真正銘のサイコパス型ナルシシストとこの議論を照らし合わせてみる。たとえば木嶋佳苗の心にあった矛盾は、「自分は男性を救済した」と「自分は男性を殺害した」という矛盾であったはずだ。彼女はこの途方もない矛盾を抱えることが出来たという意味では、やはりきわめて病的な心を持っていたということになる。
 しかしプチ・サイコパスたちはどうだろうか?米国でエンロンが2002年に破綻した時、一連の粉飾会計操作が行われている間、そのコンサルタントをしていた人たちは、不正が「見えていて」「見えていなかった」という。これを彼らは「希望的盲目willful blindness」と呼んだらしいが、その性質は本質的には「4尾」と「6尾」の矛盾と変わりない。しかしその矛盾の度合いが、ずっとサイコパスのレベルに近かったということだ。
 このように私たちの中にはマイクロ(私たちの大部分)から正真正銘(日本に100人?)まで様々なレベルのサイコパスたちがいて、自分たちの自己愛的なイメージと、それと矛盾するような現実との間に折り合いをつけて生きているのだ。そして繰り返すが、彼らに共通しているのは、「自分はイケてる」という、時には全く根拠のない思考なのである。
アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
私はこれを人間の持って生まれた悪による行為と考えるよりは、心が必要とする「アソビ」(機械の遊びlooseness, allowanceに相当)であると理解する。私も「先生の発表には、何人くらいの人が聞きに来ましたか?」と言われたら、ざっと30人くらいかと思ったら、少し盛って「うーん、40人はいなかったかな?」などととっさに言っても特に後ろめたさを感じないだろう。人は自分自身に対して楽観的である、と言い直してもいいし、ほんの少しでも見栄えを良くしたい傾向がある、と考えてもいい。人前に出るとき、ネクタイを直したり、スーツの襟を直したりするのとあまり変わらないような気もする。それくらいのいい加減さでいいのだ。
最後に脱線の話をしてこの項を終わりたい。小保方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、それから東大や京大の医学部で生じている論文の不正に関する問題を目にしながら、私は今、恐ろしい可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか?私はデータを取り扱う論文を書いたことがほとんどないので、量的研究論文を量産する人たちへのある種の畏れ多さを持つ。しかし「スタップ細胞」の論文がnature 誌にまで載ってしまうことを考えると、科学論文は、その気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
この問題を調べているうちに出会ったのが、「データの仮置き」という言葉である。ある論文を書くとき、仮説に従った、出るべきデータを、仮にそこに置いた論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの仮置きというそうだ。東大の論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったという。あってはならないことだが、これが巧みに私たちの心に侵入してきて、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
 そのようなことが起きるからこそ、人はあれほど論文をねつ造し、データを改ざんするのではないか?最初の頃はあくまでも「仮に」置かれていたデータが、論文の提出期限が迫っても、なかなか実験データが上がってこないため、他の部分もその仮置きデータに沿って書き足されていく。あとは最後の最後にそこに正しいデータを入れ替えればいい、という段になって、例えば仮に置かれていたデータ「8.1」の代わりに「8.5」が実際のデータとして上がってくる。それだと論文を書き直さなくてはならない。その時実験結果を報告してきた院生に教授が尋ねる。「もう一度聞こう。君は目がかすんで、スクリーンの数字を、実際は8.1なのを8.5と読み違いをしてはいないか?え? 僕の言っている意味がわかるかい?」 そのような状況に立った院生の何人かに一人が、「ハイ、教授。正しくは8.1でした」と答える・・・・。そういう問題なのかもしれない。
あるいはインサイダー取引など、かなり怪しいのではないか?株の取引などしたことがないので純粋に想像だが、例えば知り合いの会社社長が電話をしてくる。「君にはいろいろお世話になったね。だから君には少しばかりお礼をしたくてね。わが社のある製品が、今度特許を取得して・・・・。おっと余計な話は禁物だな。じゃ元気でな。」
あれほど厳しく罰せられるインサイダー取引。でもこの種の会話をする人たちは正真正銘のサイコパスでなければならないのか?よくわからない話でこの章を終える。