2016年4月25日月曜日

嘘 2 ①

嘘という名の快楽 2.―「弱い嘘」つきは人間の本姓に根差す

いやなことは考えない、という心理

人の心は分からないことだらけだ。わからないからこそ面白い。
先日もつらつらとこんなことを考えていた。人はどうして事実を直視せず、明らかに誤りと思える事柄に固執するのだろうか?私たちの生活はなんと多くの否認や欺瞞に満ち溢れているのだろうか?
 この問題には明らかに情動が関係している。するとごく単純な発想が湧いてくる。ある事実を否認するのは、それを考えることがつらいからであり、否認が快楽を呼び起こすからではないか? つまり否認や欺瞞は快楽的なのだ。するとそれが事実に即しているかどうかという判断は二の次なのである。
これは前章で嘘を扱った時とおなじテーマである。ただしこれを多かれ少なかれ、善人も悪人も私たちすべてが行っているという点がミソである。
ある政治家が賄賂を受け取ったかどうかを尋ねられる。「私はこれまでに不正を一切していない。」という。「いや、受け取ったか受け取らないかを聞いているのです」とマスコミが畳み掛ける。「記憶があいまいだ。秘書に確認する…。」 「きのうA誌の記者には、相手との接触を肯定したそうですが?」「だから、相手と会食したことはある。それだけだ。」
聞いていても何とも往生際が悪いが、その政治家はうそをつこうとしているのか? これは否認か?虚言か?はたまた解離か?自己欺瞞か?それは分からない。しかしひとつ確実に言えることがある。それはその政治家にとっては、賄賂を受け取ったという記憶を心に置くことはとてもつらそうなのだ。できるなら触れたくない。だから彼は会見を回避する。どこかに逃げ出したい。自分はふと悪い夢を見ているのではないかと思う。ある時は「あれはなかったんだ」という気持ちになる。賄賂は受け取っていないと思える、そんな瞬間も確かにあるのだ。しかしまたその記憶は突然戻ってきて、心に痛みを与える。すると賄賂を受け取った政治家にとっては、「嘘をつくかつかないか」、ということはあまり大事ではなくなる。問題は「いかにそのことに触れず、他人に触れさせないか」ということであり、それに必要な手段を取るだけである。
ところでこの政治家の頭には、もう一つのきわめて注目すべきことが起きる。この政治家のおかれた状況にある人の場合は、良心がどこかに行ってしまうということだ。あるいは少し変質してしまう。
 もちろん「嘘をつく」ということは人としてしてはならないことである。ところが私たちは日常生活を送る上で平気でうそをつく。ちょっとした数字のごまかし、話の誇張、あるいは他人を傷つけないための嘘 (英語で “white lie” という表現がある)などは、それをつくことに良心の呵責はない。それと同様にそれを認めることが自分に不快であればあるほど、嘘をつくことは身に迫る危険を回避することであり、正当化される。(同様のことは、快についてもいえる。強烈な快を及ぼす事柄は、自分にとってはおそらく無条件に正当化されるものである。そしてそのような場合は、通常の倫理観を超越することになるのだ。)

そう、自分のメンツを守るための嘘は、おそらくそれほど非人道的ではない。少なくとも当人にとっては「悪気」はないのである。後の<報酬系と倫理観>の章で詳述しよう。