2016年3月25日金曜日

報酬系 ⑪


ところで不「不埒な」、という表現を使っているが、私自身にはこのような夢を見る根拠がある。人の一生は儚い。大抵の人が、人間が体験しうる最大の苦痛や恐怖も、最上の幸福も体験せずに、普通の人生を営むのではないか。そして人はやがて老い、力尽き、死んでいく。おそらく病院のベッドでごく少数の人に見送られながら。おそらく彼は10年ほど前だったら、「死ぬまでにあれもして、これもして…」と夢見ていた可能性がある。しかしおそらく彼はその10分の一も、百分の一も体験することなく死期を迎えるのだ。彼がチャンスを逃したからだろうか?おそらくそうではない。いざとなるといろいろな事情があり、できなかったのだ。
ある男性は死ぬ前に彼のあこがれの国ギリシャでゆっくり過ごしたいと思っていた。そのための地図まで買い込み、地中海のクルージングの資料を取り寄せていた。しかし彼は「多忙」のために結局ギリシャに行くどころか、国内旅行に行くことすらできずにいた。長年連れ添った奥さんは彼の働き者の性分を知っていて、おそらく夫婦ともども地中海の島々を回るということは実現しないと思っていた。いろいろな仕事に駆り出され、結局休みはつぶれてしまう。そのうちその男性は軽い脳こうそくを患い、それをきっかけにうつ状態になった。久しぶりに会ってギリシャの夢を持ち続けているかを聞くと、「もうギリシャのことなど頭にないよ。もうこんな体じゃ無理だし…。」と情けなさそうな顔をした。腕ほどに痩せ細った彼の足を見ると、もう自力で歩くことさえもままならないことがわかる。私はむしろ彼が義理者のことをもう忘れてしまっていることを聞いて安心した。願望を持ち続け、それをかなえられない自分の姿を憂うほどつらいことはないだろう。
彼が特別なわけではない。みんなこうなのだ。意欲があり、体力の旺盛な御老人ほどこのような晩年を迎える傾向にある。いろいろな役職を頼まれ、引退の時期が延びていく。そのうち体を壊すのをきっかけに、病床へと「引退」するのだ。
何か暗い話になってしまったが、私が言いたいのは、多くの私たちは快楽を十分に享受することなく死に至るということである。おそらく筆舌に尽くしがたい苦痛やトラウマを味わった人は多い。しかし筆舌に尽くしがたい快楽は事実上味わうことが出来ない。そう私たちが幸運にもさほど辛いことを体験せずに人生を送ったとしても、この上ない喜びを味わうことはおそらくない。人間の脳はそのように出来ているのだ。痛みや苦痛はそれにより気絶するまでに極まることはあっても、幸せのあまり気を失うということはない。それに幸せとはジワジワと、あとになってから思い出されるようなものかもしれない。
私たちの人生の中で典型な幸せの絶頂を想像しよう。私はすぐにオリンピックの金メダルが思い浮かんでしまう。北島康介が「チョー気持ちいい」(2004815アテネオリンピック 男子100m平泳ぎで金メダルを獲得した時に発した言葉)と叫んだ時、彼は間違いなく気持ちよかったのだろう。アスリートがそれを目的として何年も苦しいトレーニングを積むとき、その喜びは甚大だろう。でも私たち一般人が喜びの絶頂を体験するとしたら、受験に成功した時、恋人の心をつかんだ時、程度のことだろう。
私が専門とするトラウマの精神医学では、過去のトラウマの記憶が何度もよみがえり、日常生活が送れなくなる状態がある。いわゆる心的外傷後ストレス障害と言われるものであり、その記憶があまりに生々しく蘇るために、今現在行っていたことを続けられなくなり、過去の記憶の再生に心を奪われる。それが時には何の前触れもなく怒るのである。
ところが幸せな体験はそのような形を通常は取らない。たとえば私にとって最高の楽しい思い出がいくつかあるが、それは突然襲ってきて仕事が出来なくなるような形をとらない。せいぜい時々「こんなこともあったなあ」と思い出されるだけである。