2016年3月23日水曜日

「精神分析におけるトラウマ理論」の入稿原稿

締め切りのはるか前から着手し、9割出来た状態で止めていたが、締め切り前の見直しで、本文チェックだけで数時間。これからまだ文献整理だ。論文を書くのは時間がかかるなあ。


精神分析におけるトラウマ理論

                          岡野憲一郎
                 
はじめに

現代の精神分析において「トラウマ」が一つのキーワードとなりつつあることは、ある意味では時代の必然といえる。 それは精神分析理論の変遷という歴史的な流れの中に位置づけられよう。Sigmund Freud 1890 年代の終わりに「性的誘惑仮説」を棄却して内的欲動論に向かい、それが精神分析理論を生んだと一般に理解されている。Freud はその後の理論の発展(Freud, 1926)で、欲動論の一部を大幅に修正したが、それにより彼は新たにトラウマの問題に関心を向けたとみなすこともできる(岡野、1995)。しかし Freud は基本的にはリビドー論や欲動論的な視点を終生堅持し、いわゆる「葛藤モデル」の代表として位置付けられ、それは伝統的な精神分析の主要なモデルであり続けた。後に様々な学派により、養育上の欠損やトラウマを病因として重んじる、いわゆる「欠損モデル」が提唱されたが、Freud の立場はそれとは理念上一線を画していたと言える。そのためか1970 年代以降になり、PTSD や解離のトラウマに基づく病理が盛んに論じられ始めた時、主として関係精神分析を代表とする新しい精神分析の流れがトラウマの問題をいち早く取り上げたが、伝統的な精神分析はその対応に出遅れたという感があった。しかし最近ではトラウマ理論の影響は精神分析の世界に広く浸透し、クライン派によるトラウマ理論も提出されるに至っている(Garland, 1998)。

精神分析へのトラウマ理論の取入れ

精神医学全体を眺めれば、1980年のDSM-III (American Psychiatric Association, 1980) PTSD (心的外傷後ストレス障害)および解離性障害が診断項目として掲げられて以来、心的なトラウマの精神への影響に対する関心は急速に高まっている。個々の精神分析家もその影響を受け、その理論を修正発展させることはある意味では自然のことであろう。その例としてOtto Kernberg をあげることが出来る。Kernberg は米国で1970年、80年代に境界性パーソナリティ障害についての理論を展開した (Kernberg, 1984)。その彼が同障害の病因として論じていたのが、クライン派の考えに沿った患者の生まれつきの羨望や攻撃性であった。しかしその後1995年には、次のように述べてかつて提唱した理論の一部修正を行っている。
同時に私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなりやすさであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や、組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発症にとって重要な因子となるという最近の発見の影響を受けているからである。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ。」(Kernberg, 1995, p.326
この Kernberg に見られたような路線変更はおそらくほかの学派に属する分析家においても程度の差こそあれ見られた可能性がある。しかしトラウマ概念の導入の仕方やその治療的な扱いは、学派によりさまざまに異なるのも事実である。たとえば前掲書に代表されるクライン派の捉え方(Garland, 1998)によれば、トラウマとは Freud のいう刺激障壁が破られることにより生じ、トラウマ的な出来事は、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることであると理解される。そしてその治療技法としてはやはり転移解釈が主たる技法であるという主張がなされる。それと比較して、間主観性理論の立場に立つ Robert Stolorow のトラウマ論(Stolorow, 2007)は、トラウマをより関係論的でコンテクスト的にとらえる。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した治療者でなくてはならないとさえ主張する。
 このように精神分析においても最近はトラウマへの注目がみられるが、むしろその流れは精神分析の歴史の中に既に存在しつつ、ある意味では傍流として扱われていたという事情がある。その源流を Freud の初期の理論に位置付けてみよう。

フロイトの「誘惑仮説」の見直し

Freud は精神分析理論を構築する前の段階では、トラウマの問題に深く関心を寄せていた。1893年の「『ヒステリー研究』に関連する3篇」(Freud, 1893)で、Freud はトラウマを以下のように定義している。
神経系にとって、連想を用いた思考作業によっても運動性の反応によっても除去することが困難な印象はすべて、心的外傷になるのである。(全集1., p307
これは脳科学的な視点を取り込んだ現代的な理解と符合する、先駆的ともいえる主張だった。
Freud は当初はヒステリーの原因として、上述のような心的トラウマの中でも特に幼少時期の性的トラウマを重んじていた。Freud 1896年には、扱ったヒステリーの18例すべてに性的なトラウマが聴取されたという報告を行った(Freud, 1896)。これが後に「誘惑仮説」と呼ばれるようになったものであるが、その時ウィーンの医学界の反応は非常に冷淡なものであったとされる。さらに同年126日に Willhelm Fliess にあてた書簡では、Freud 虐待者はすべて父親であったという見解にまで至ったとされる(Makari, 1998 。しかしその翌年の921日に、突然同じく Fliess あての書簡(Freud, 1986)で、この「仮説」が Freud  自身により棄却されたのであった。
この Freud のやや唐突な「翻意」に関しては従来さまざまに議論されてきた。しかし後に新たな資料が公開され、近年はそれに基づき、この「誘惑仮説」がFreudにより棄却された経緯を再検討する動きがみられる。その中で1980年代に発表された Jeffrey Masson ”Assault on Truth (真実への襲撃)Masson, 1984 は、それが Freud 自身が学問的ないしは社会的な孤立を恐れるあまり真実をねじ曲げたためであったという説を提示し、大いに議論を巻き起こした。しかし Masson の著作には学術的な誤謬も多く、またその扇動的な内容は多くの批判にさらされた。最近ではこのテーマに対するより冷静かつ公平な見解がみられる((Makari, 1998, Lothane, 2001, Reisner, 2003)
それらの研究が一様に強調するのは、Freud の「翻意」は自らの見解を180度切り替えたものだったわけではなく、むしろ「すべてのヒステリー患者が現実に性的なトラウマを負っていたというわけではない」という、より穏当な見解への方向転換を意味していたということである。そこには Freud が当時の疫学的研究の結果を受けて、父親がヒステリーすべての原因であるという見解をそれ以上保持できなくなったという事情もあったとされる(Makari, 1998) 。むしろ最近の研究の大勢は、Freud は「誘惑仮説を決して捨て切れなかった」という見解(Lothane, 2001)に向かいつつあるのだ。
現代的な観点から検証した場合、Freud の「翻意」には様々な理由があったにせよ、以下のような理論的な推移があったと考えるのが妥当のようである。初めは Freud はトラウマとなるための必要条件は幼少時において、虐待者の手により性器への過度の刺激が生じたことと考えた。しかしその後、それは直接の性的な暴行だけではなく、子供がファンタジーや自慰行為を行い、それを抑圧することでも生じるという発想に推移したのであるMakari, 1998)。つまり Freud は幼少時に「性的誘惑」は決して起きずに、すべてがファンタジーであったと結論付ける必然性もまたなかったのである。
 むしろ Freud のトラウマ理論において問題だったと考えられるのは、性的な暴行を受けることにより偶発的に生じる可能性のある性的興奮と、自慰などによる性器の刺激が全く心的な意味合いを異にするという点、そして性的な意味合いを持たない虐待も当然存在していたという点などに十分な注意を向けなかったことである。言うまでもないことであるが、幼少時に生じる加害行為には性的な意味合いを欠いた身体的な暴力も、精神的な虐待もネグレクトも存在する。それらもまた当然ながら幼児を脅威におとしいれ、その主体性を蹂躙し、傷つける行為である。Freud がそのようなトラウマの基本的な性質に重きをおかず、性的な興奮という観点でしか考えていなかったことが問題であるといえよう。
ちなみに本稿でも用いている「誘惑仮説」という表現の中の「誘惑」という言葉が持つ問題についても近年指摘されている(Makari, 1998)。「誘惑」という言葉には誘惑する側とされる側が想定され、子供が性的虐待に間接的に加担したというニュアンスを与える可能性があるからである。
上述のように Freud は幼児に対する性的な虐待の存在の事実を全面的に否定することはなかったが、トラウマに関連した解離という現象やその概念については、きわめて否定的であったといわざるを得ない。Freud は「ヒステリー研究」以前の 1892年の時点では、Joseph Breuer の解離に関する見解 (いわゆる「類催眠状態」) に全面的に同調して次の様に述べる(Freud, 1893)。

したがって、我々はその限りにおいて既に、ヒステリーの素因の特徴づけをもくろむ次のような仮定を取り上げることなくして、ヒステリー諸現象の成立の条件を論ずることは不可能であつた。その仮定とは、ヒステリーにおいては一時的な意識内容の解離が容易に生じるということと、連想によって結びついていない個々の表象複合がいきなりばらばらにされてしまうという事態が容易に生じるということである。よって我々はヒステリーの素因を、そのような状況が(内的な原因によって)ひとりでに発生するか、あるいは、外部からの諸影響によって容易に誘発されるという点に求めることになるのだが、その場合に我々は、ある系列においては、この二つの要因がさまざまに程度を変えて関与しているものと見なしている。(全集 1.p.308

ここには解離が生じる原因として、当人の持つ素因とともにトラウマ因を重視したバランスの取れた見解が示されている。しかしすでに「ヒステリー研究」(Freud, 1895)において、Freud は類催眠状態の概念は本来自らのものではないとし、Breuer の同概念の、トラウマや退屈さのために不快な体験がスプリットされるという考え方には、力動性という概念が欠如していることを、以下のように批判したのである。

奇妙なことではあるが、私は自身の経験において真性の類催眠ヒステリーに遭遇したことがない。私が着手したものは、防衛ヒステリーヘと変化したのである。(p.365
手短に言えば、私には、類催眠ヒステリーと防衛ヒステリーはどこか根っこの所で重なり合っているのではないか、そして、その際には防衛の方が一次的なのではないか、という疑念を抑え込めないのである。しかし、これについては何もわからない。(同 p.365)

フロイトはさらに Pierre Janet の解離理論についても、患者がもともと持つその人の心の弱さやスティグマに還元されるという点について批判を行っている(Freud, 1895)。近年のトラウマ理論における解離の概念の扱われ方は、本稿の後半で再び論じる。

Ferenczi の先駆性

上述の通り、Freudは精神分析理論を構築する過程でトラウマのテーマから距離を置くようになったが、他方ではSándor Ferenczi が幼児期の性的トラウマに関する関心を高めていった。しかしそのFerenczi の見解はFreud 自身によって敬遠され、彼の理論が精神分析の本流に位置づけられることはなかった。ところが近年になってこのFerencziの先駆性およびトラウマ理論の重要性が見直されつつある。2008年にはニューヨークにFerenczi Center も立ち上がり、またわが国でも森茂起(森、2005)らによる翻訳や紹介により、Ferencziの業績が再考される機会が与えられているFerenczi,1994,1995
それらの研究が示すのは、Ferenczi の驚くべき先見の明であり、後のトラウマや解離に関する理論を事実上先取りしていたという事実である(Aron, Harris, 1993) Ferenczi の業績の再評価は、そのまま精神分析における外傷理論の再評価を意味しているとも考えられるであろう。
Ferenczi の理論の先駆性を示す概念の一つに、「攻撃者との同一化」がある。この概念は、一般には Anna Freud1936) が提出したと理解されることが多い。彼女の「自我と防衛機制」(AFreud1936に防衛の機制一つとして記載されている同概念は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。」(p. 113)と説明される。しかしこれは当初 Ferenczi 考えたものとは大きく異なったものであったことが指摘されている(Frankel, 2002)。Ferenczi がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」(Ferenczi, 1933) を参照してみよう。
「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(p.144-145)
 このように Ferenczi は、この概念の意味するところとして、「子供が攻撃者になり代わる」とは述べていない。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして自動的に起きる服従なのである。トラウマの犠牲になった子供は、むしろ虐待者に服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化する。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになる。Ferenczi はこのプロセスを特に解離の機制に限定して述べたわけではないが、解離性同一性障害の症状を示す症例の場合に、この攻撃者との同一化が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もある(岡野、2015)。

解離の理論との関連

精神分析におけるトラウマ理論に関して、近年とみに論じられることの多い解離に関する理論に触れておく必要があるだろう。その先導者ともいえるDonnel Stern Phillip Bromberg の著書はすでに邦訳も入手可能である(Stern, 2010, Bromberg, 2011)
Bromberg によれば、解離は基本的には正常心理においても生じ、それはたとえば物事に夢中になった一意専心のような状態であるが、深刻な解離はトラウマへの反応として位置付けられる。そして従来の精神分析における抑圧は不安に対する反応であり、抑圧理論のみに基づく場合には、患者が葛藤を経験できていないような外傷的な状況でさえ、常に精神機能を組織化しているように考えることになってしまい、それが古典的な分析理論の限界であると論じる。彼の立場からは、葛藤への防衛が必ず解釈により解決するという姿勢そのものもまた問題となる。
Bromberg はまた、トラウマを発達上のいわば「連続体」としてのそれ、すなわち「発達トラウマ」としてもとらえる。この発達トラウマはまた、発達早期に親から受け入れられ、必要とされるという体験が欠如することにも関係する。彼はこの種のトラウマ trauma を、性的虐待や暴力などに代表される、大文字のトラウマ Trauma と区別する。この発達との関連で Bromberg はまた、解離とメンタライゼーションとの関係についても論じ、Peter Fonagy John Allen (Allen, Fonagy, 2006) などの研究者による業績と自分の治療論を非常に近い位置においている。
このように Bromberg の立場は基本的にはトラウマモデル、ないしは欠損モデルのそれであり、そして彼が主として依拠するのは Harry Stuck SullivanSullivan, 1953の理論である。すなわち解離において生じるのが Sullivan の概念化した「私でない自己 not-me」として理解されているのである。その意味で、Bromberg の解離理論はトラウマ理論と対人関係学派との融合というニュアンスがある。
Stern Bromberg の解離の議論に特徴的なのは、その機制をエナクトメントの概念と絡めて論じる点である。エナクトメントは二者的な解離プロセスであり、そこでの解離は患者だけではなく治療者をも包む繭のようなものとして表現される。そしてそれを治療的に扱う分析状況として Bromberg が提唱するのが「安全だが安全すぎない」関係性であるという。つまり早期のトラウマを、痛みを感じながらもう一度生きることを可能にする関係性なのである。Bromberg はまた治療技法のひとつとしてFreud の「自由にただよう注意」(Freud, 1912) に注目する。これは Freud が「強制的な技法」ではない自由な技法として提唱したが、これが患者の言葉の意味を見出すという作業にとってかわることにより、後世の分析家たちにとってはその目的を果たさなかったという。しかし関係精神分析的な「聞き方」とは、「絶えずシフトしていく多重のパースペクティブ」に調律することで、それは両者によるエナクトメントにも向けられるという。
Bromberg の解離理論は、すでに新しい精神分析の行先を見越し、そこに解離と心の理論、愛着、脳科学などがキー概念として統合されることを提唱していることが特徴である。ただ彼が扱う解離は、健忘障壁を伴う精神医学的な「解離性障害」とは異なるという印象を受ける。

トラウマ理論と愛着理論

最近のトラウマ理論との関連でやはりぜひ触れておきたいのが、「愛着トラウマattachment trauma」の概念である。この概念を提唱しているのが、臨床家でもあり脳科学者でもある Allan Schore である(Schore, 2009)。
Schore は乳児が生後の一年間で、母親と乳児の間できわめて重要なコミュニケーション、彼が言うところの「右脳間でのコミュニケーション」が生じ、そこで精神生物学的な意味での調律が行われるとする。この時期に乳児の大脳皮質は十分発達してはおらず、今後の発達を支える意味でのいわば基礎工事が、母子間で行われるのだ。そこでは匂いや音、皮膚感覚などを通して、大脳辺縁系間でのコミュニケーションが行われ、乳児の覚醒レベルが維持されていく。そこで大切なのは、刺激が大きすぎず、少なすぎずということであり、母子が情緒的に同期化していることである。もしそれが起きないと、母子間で一種の情緒的な衝突、Schore が「間主観的衝突」と呼ぶものが生じ、それが乳児の情緒不安定の成立の妨げにつながる。Schore はこの深刻な事態を「愛着トラウマ」と呼び、その後の様々な情緒的な問題や解離症状につながると論じる。
 
この愛着トラウマの際に生じる自律神経の過覚醒状態について、Schore は最近の Stephen Porges polyvagal theory (Porges, 2001)と関連付ける。この理論によれば、副交感神経系には腹側と背側の二種類があり、腹側迷走神経は、通常の日常体験において働き、適応につながる。しかし極度のストレス下では背側迷走神経という、いわばアラーム信号に匹敵するシステムが働き、低覚醒状態、痛み刺激への無反応性といった解離症状が生じるためのメカニズムが発動するのである。
この Schore の議論の背景にあるのが、精神分析における愛着理論の歴史である。John Bowlby により始まる愛着理論は、Mary Ainsworth (1970) らのストレンジ・シチュエーション・パラダイムの研究を経て愛着のタイプ分けの研究につながったが、その後継者 Mary Main らが新たに提唱したのが、いわゆるタイプ D の愛着である(Main, & Solomon, 1986)。このタイプ D では非常に興味深いことが起きる。タイプA, B, Cにおいては、ストレンジ・シチュエーションにおいていったん退室した母親が子供の元に戻ってきた際に、子供はしがみついたり、怒ったりという、比較的わかりやすいパターンを示すが、タイプ D の子供はむしろ混乱と失見当を呈する。Schore は、それを解離性の反応とし、それを愛着トラウマと結び付ける。このパターンを示す子供の親はしばしば虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に安心して接近することが出来ない。逆に親から後ずさりをしたり、他人からも距離を置いて壁に向かって行ったりするということが起きるのである。
 このように Schore はトラウマの理論を愛着の失敗ないしは障害としてとらえ、それを上述の解離理論とも結びつけて論じているのである。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい分析的なトラウマや解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与えてくれるのだ。
 
トラウマ理論は「誘惑的」か?

最後に精神分析における最近のトラウマ理論に対する批判的な見方についても触れておこう。 Steven Reisner は「トラウマ: 誘惑的な仮説」という論文(Reisner, 2003)で、昨今のトラウマ理論への批判を展開する。彼はトラウマ理論のナラティブにおいては、トラウマはいわば病原菌のように取り除かれるべきものとして扱われ、他方の患者は被害者であり、特別な存在であるという考え方が支配的になっているとする。そしてその背景には政治的な意図が見えるという。その文脈で Reisner が紹介している論文 (Young, 2001)は、DSM-III (American Psychiatric Association, 1980) の作成委員会において、戦闘兵を犠牲者として扱い、障害者年金を獲得することのできる存在として位置付けるべきとの議論があったと報告する。そしてそのためには「戦争神経症」という診断はふさわしくなく、「トラウマを受けることによる反応」というニュアンスの診断、つまりPTSD が必要であったというのだ。そしてそれがこの概念の大きな成功を生んだのである。
 Reisner は現在のトラウマ理論には、自己愛の問題が絡んでいるという点も指摘している。米国では、トラウマは「崇高な位置」を得ており、トラウマのサバイバーは権威を与えられ、尊敬のまなざしで見られる傾向にあるという。そしてトラウマの体験は、芸術家や創造者がなかなか得られないものを手にすることを可能にし、トラウマの語りにおいては、被害者は無知で純真であることが期待されている、とする。さらにトラウマの被害者は責任を逃れる事が出来、トラウマの犠牲者は一般大衆に代わって苦しみを背負っているとも論じる。そしてこのような考えの典型として、Jody Messler Davies ら(1994)の次のような文章を引用する。
「誘惑仮説は、患者の子供時代の現実の人々に見られる証拠に基づくものである。それは自分の自己愛的な満足を得るために子供を利用する大人を罰するものであった。それに対してエディプス葛藤は、子供時代の性的虐待は、子供自身の性的な願望によるファンタジーによるものだということを強調するのである。」
 そして中立性を守ろうとする分析家は、結果として被害者側の方に過剰に寄り添ってしまうと批判する。
Reisner は昨今のトラウマ理論が有するこれらの傾向自体が「誘惑的」であるとし、そこへの過剰な加担が精神分析理論の基本的な精神である無意識の意識化、ないしは洞察の獲得は異なる方向性を示していることに懸念を表明している。

最後に

現代の精神分析におけるトラウマ理論の占める位置について論じた。トラウマ理論が徐々に大きな位置を占めることには時代の要請があり、またそこには伝統的な精神分析に不足した視点を補う意味もあったと言えるだろう。しかしトラウマ理論にはそれに偏重した場合の様々な問題があることは、本稿で最後に触れたとおりである。私たち臨床家が、葛藤理論とトラウマ理論が真に臨床的な意味を持つ形でバランスを取りつつ、私たちの患者の理解に用いられることを願う。